うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『Let Our Fame be Great』Bullough Oliver その3

 3代目イマームであるシャミールは1832年のギムリの戦いを生き延びた後、チェチェンおよびダゲスタン(岩山の多いダゲスタンと、森の深いチェチェン)のイマームとなった。かれはスパイを各地に潜ませ政敵や反逆者を摘発・処刑した。

 かれの名前はユダヤ人のものであり非常に珍しいがその由来は諸説ある。

 1859年、ロシア軍指揮官バリャチンスキーBaryatinskyは諸部族を懐柔しシャミールを追い詰め、グニブGhunibにおいて降伏させた。

 シャミールはサンクト・ペテルブルクで英雄として迎えられ、その後モスクワ近郊のカルーガKalugaで家族とともに生活した。シャミールの世話人を命じられた軍人ラノフスキーRanovskyは、信心深く穏和な老人であるシャミールとの生活を克明に記録した。

・シャミールの家族(妻3人、息子と娘たち)の不和

 故郷のチェチェン人、イングーシ人、ダゲスタン人の不信仰への批判

 「ロシアで育った息子が山の生活に馴染めず死んだ理由がわかった」

・シャミールの時代には、チェチェン人のトルコへの移住が始まっていた。ムスリムにとってカリフ制をとるトルコは名目上、理想の国だったからだ。

 イラクに移住したチェチェン人の中には、イラク軍の将軍に出世した者もいる。

 

ロシア革命後、ソ連赤軍コーカサスに対し異質な制度と慣習を強要した。このためチェチェン・ダゲスタンでは反乱が頻発し、1944年にはカザフスタンのアスタナ近郊に追放された。

 ロシア帝国と同じ方法でコーカサス民族を弾圧し、歴史を捻じ曲げたのは、グルジア出身のスターリンである。

 ここではヴィス・ハジVis Hajと呼ばれるスーフィーの導師が非暴力・不服従に似た教えを説き、チェチェン人の団結の中心となった。

 チェチェンは、正統イスラームではなくカーディリー運動The Qadiri(ターリカの1つ)などのスーフィーが主流となった珍しい領域である。

 今でもクラスナヤ・ポリヤナKrasnaya Polyanaの住民はほぼすべてチェチェン人であり、著者は歓迎を受けて貴重なズィクルZikrの踊りを見物することができた。

 

チェチェン紛争においてロシア軍は無差別の爆撃をおこなった。このため数十万人の民間人が死んだ。

 強制移住後、カザフスタンやクラスノヤルスクKrasnoyarskでマフィア活動をおこなったあるチェチェン人は、紛争時、グロズヌイ近郊でロシア兵の捕虜になった。列車が捕虜収容所・拷問センターに使われた。2人の息子は射殺され、自身は歯を折られ、全裸の状態で逆さづりにされ殴打された。

 

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 4 ベスランBeslan、2004

・2004年9月1日、チェチェン独立派のテロリスト、シャミル・バサエフShamir Basaevの刺客が南オセチア、ベスランの第1小学校を襲撃した。ロシア特殊部隊による鎮圧作戦により400名程度の人質(主に子供)が死亡した。

バサエフは1995年にブジョンノフスクbudyonnovskの病院で人質をとり、ロシアから停戦交渉への譲歩を引き出すことに成功した。

 以来、バサエフイスラム過激派は無差別テロに依存するようになった。

 バサエフは第1次紛争終結時には英雄となったが、やがてマスハドフmaskhadov政権と袂を分かち、過激なテロリストとして悪名をはせたため人心は離れていった。

プーチンによる第2次チェチェン侵攻の原因は、モスクワやヴォルゴドンスクVolgodonsk、ブイナクスクBuynakskでの爆弾テロと、バサエフおよびアミル・ハッターブAmir Al-Khattabによるダゲスタン侵攻である。

・2002年のモスクワ劇場占拠事件、その後のモスクワ爆弾テロなどにより、ロシア社会は恐怖で覆われた。また、プーチンがテロに譲歩するようにも思えなかった。

バサエフは社会的弱者である女性を自爆テロの装置に利用していた。

 

・ドゥダエフが生きていた時代からすでに、チェチェン共和国は腐敗し始めていた。

 政府は単に権力を持つ部族グループでしかなくなった。テロと誘拐、過激派の流入が蔓延し、生まれ育った子供のほとんどは身心に障害を負っているか精神に重いトラウマを抱えた。

 かれらは過激派や暴力的な思想、自爆テロに容易になびいてしまう。

・テロリスト集団のただ1人の生き残りとして訴追されたヌルパシ・クラエフNurpashi Kulayevは、自身の弟に巻き込まれただけでありテロ行為に関係していないと主張した。この裁判は明白な政治的意図に基づいて行われ、手続きには不公平な要素が含まれていた(弁護士の非協力、通訳の不在、検察に不利な証拠や証言の不採用など)。

アフマド・カディロフAkhmad Kadyrovは1995年にムスリム指導者のムフティMuftiに選ばれた。カディロフと、大統領マスハドフは、過激派や厳格主義、ワッハーブ派流入に反対した。かれらはチェチェンの伝統的なスーフィーと思想的に対立していたからである。

 バサエフやハッターブの過激主義は、若者たちから強い支持を受けていた。

 チェチェンは内部分裂を起こしていた。武器を持ったまま職にあぶれた若者が、マフィアや過激派に吸収された。

 1999年、バサエフによるダゲスタン侵攻に対し、プーチンはロシア軍を送り込んだ。このときカディロフはロシア軍と協力したため、マスハドフバサエフから反逆者と認定された。

 グロズヌイを徹底爆撃する連邦軍の作戦によりチェチェン側は敗北した。

・バイカル人のある若者は、レスリングを生かして仕事につくためにウズベキスタンに渡ったが、その後アフガンで戦っているところを米軍に拘束された。ロシアが若者を引き取った後は、故郷のカバルダバルカルで、警察による嫌がらせと拷問が続いた。

 かれはテロの容疑により監獄に入れられ、拷問により廃人となった。

 

チェチェンを独自取材しようとした記者はロシア軍に拘束され、さらにその後、ロシア警察の雇ったチェチェン人マフィアに引き渡された。

 連邦政府の公式発表に従わないマスメディアを、プーチンは敵とみなす、という明白なメッセージだった。

チェチェン人難民の大半はオーストリアポーランドなどに向かったが、受け入れは停滞しており、特にオーストリアでは市民との摩擦が生じた。

 オーストリアでは移民排斥を掲げる極右が台頭した。チェチェンの若者は学校にも行けず、戦闘しか経験していないため、「もし雇ってくれればその国のために戦う」と話した。かれらには祖国や奉仕する対象がなかった。

 かつての独立主義者、分離派たちは国外に逃亡し、現在のチェチェンとまったく隔絶していた。チェチェンは再び家族主義に分割していった。

 

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 著者の同僚だったチェチェン人は、戦い以外の生き方を選び、ロイターのカメラマンとして働いていた。しかしアフマド・カディロフの暗殺に巻き込まれ、式典中に爆殺された。

 

Let Our Fame Be Great: Journeys among the defiant people of the Caucasus (English Edition)

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