◆所感
元KGB職員がイギリスで暗殺されるまでの経緯を、ベレゾフスキーの協力者が明らかにする。
ベレゾフスキーは新興財閥の代表的な人物であり、エリツィン後の共産党復権を阻止するためプーチンに協力したが、その後、強権的・権威主義的なプーチン政権に反対し国を追放された人物である。かれは2016年に自殺した。
リトビネンコは元々KGBの組織犯罪対策部門で働いていた。
かれの人生をたどることで、ソ連崩壊から新生ロシアにいたる社会の混乱と崩壊を理解することができる。
著者によれば、プーチンは権力掌握後、情報機関を利用した権威主義的な政治を行った。かれは自分に反対するベレゾフスキーを宿敵と考えた。リトビネンコの暗殺も、ベレゾフスキーとの戦いの一環であるという。
権力者になる前のプーチンの様子も描かれている。かれは下級スパイに過ぎなかったが、非常に忠誠心のあるスパイだったという。また、そもそも民主主義や自由の概念を認識していなかった。
ベレゾフスキーとプーチンが口論する場面は、プーチンの価値観やものの考え方に迫っており非常に面白い。
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サーシャ(アレクサンダー)・リトビネンコは初め軍に入隊し、その後KGBに移った。経済安全局、続いてATC(対テロリズムセンター)に入り、組織犯罪、暗殺、誘拐、警察の犯罪への関与などを担当した。
かれは工作指揮官(オーパー)であり、エージェントを雇って組織や対象に潜入させた。主に殺人者、銀行強盗、誘拐犯、麻薬ディーラーなどを相手にした。
ソ連が崩壊すると、リトビネンコはKGBからFSB(後継組織)職員となった。
その後マリーナと結婚したが、マリーナはリトビネンコが他のFSB職員と異なっていることに気が付いた。
一般的なKGB職員:
・大酒飲み
・外車や高級アパートを買っている
・コンサルティング業務で金を稼ぐ
・FSBバッジで人をよく脅したりする
ロシアの市場経済改革は行き詰まり、失業者や貧困層が増大していた。
リトビネンコは、バス会社をめぐるギャング同士の抗争をきっかけに、新興財閥(オリガルヒ)の一人であるボリス・ベレゾフスキーと知り合った。
――あなたもボリスも政治のことばかり考えているけれど、人を見ていない――それはあなたたちの大きなあやまちだ。われわれの仕事で何より重要なのは個人だ。私はルシコフのことは信用しなかったが、ボリスのことはすぐに信用した。
かれは、FSBの腐敗が上層部に由来していることを知るようになった。
――みじめな給料しか支給されていないのに、豪邸やメルセデスを買っている。
FSB職員やFSB出身者は情報収集力を生かし、コンサルティング業――警察、ギャングと協力する――に乗り出した。やがてFSBがギャングと一体化した。
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クレムリンの闘争
エリツィン大統領時代、大統領府長官アナトリー・チュバイスは強引な経済自由化を進めた。その弊害が顕在化していた。共産党が再び力を持ち始めていた。
大富豪ジョージ・ソロスはロシアでの投資の機会を狙っていたが、過激な自由化による「掠奪資本家」(オリガルヒのこと)や、共産党復権のリスクが懸念事項だった。
ベレゾフスキーは企業買収と合理化のためにソロスの援助を求め、そこで著者と知り合った。
1996年の大統領選で共産党や軍が権力を握れば、資本家にとって致命的である。そこでベレゾフスキーとグシンスキー(ライバルのオリガルヒ)が協力した。
反チュバイス(自由主義者)の筆頭はコルジャコフFSO(連邦警護庁)長官、バルスコフFSB長官、ソスコベッツ第一副首相だった。
その他の候補者……共産党ジュガーノフ、社会民主主義者ヤブリンスキー、極右ジリノフスキー、空挺部隊出身の元中将アレクサンドル・レベジ。
ベレゾフスキーらは買収したテレビ局を武器にPRをしかけ、エリツィン再選を達成した。
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チェチェン戦争
反乱者
1994年12月、エリツィンはチェチェンにロシア全軍を派遣したがみじめに敗退した。
リトビネンコはこのとき、チェチェン紛争を暴徒の鎮圧程度にしか考えていなかったが、実際にFSB部隊として派遣されたことで考えを変えた。
・かれらは何の装備も食糧もなく作戦に放り込まれ、味方の爆撃で被害を受けた。
・司令部のテントにたどりつくと、将校たちは泥酔していた。
・少年兵を捕まえたとき、リトビネンコは、チェチェンの全生徒が兵士になったことを知った。
――学校のクラス全員がテロ組織に入るなどということはありえないからだ。これは人民戦争だったんだ。
2年を費やし4万人の死者を出しロシアは負けた。
しかし、チェチェン側もドゥダーエフを爆殺された。この兵器システムは、トルコとアメリカが共謀して仕掛けたものだった。
ハサヴユルト合意はレベジの交渉により行われた。一般市民は停戦を歓迎したが、軍・治安機関はこれを屈辱と受け取った。
その後リトビネンコは、レベジ中将の事務所を捜索した結果、秘密書類を発見した。
・ドゥダーエフ暗殺はGRU(軍)ではなくFSBホホルコフ大将主導で行われた。
・レベジはエリート部隊ロシア軍団を創設し、軍事政権樹立を目指していた。
モスクワの戦争党とチェチェンの過激派指揮官たちは、お互いに戦争を再開させようと画策していた。
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1997年8月、リトビネンコはURPO(犯罪組織対策・活動阻止局)に異動した。かつて自分が汚職疑惑で捜査していたホホルコフが局の責任者だった。
URPOは法の埒外で働くことを目的としていた。
以前のATCとは異なり、URPOでは政治的敵の暗殺が任務に含まれていたため、リトビネンコはこの業務を拒否した。
また、FSBの上層部が関与していた場合、マフィアに対する捜査はすぐに打ち切られた。
――「ここは特殊任務にたずさわる部署だ。諸君はこれを読んだかね? (スドプラトフ回顧録)」……「これこそわれわれのお手本だ! ……全員かならず読むように。いまわれわれのまえには新たな対象となる集団がいる。普通のやり方ではつかまえることのできない犯罪者たちだ。とてつもなく裕福で、裁判を金で回避できる。……リトビネンコ、きみはベレゾフスキーと知り合いだな? きみにはあの男を始末してもらう」
リトビネンコはFSBの姿勢に疑問を抱き、ベレゾフスキーに一件を伝えた。
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リトビネンコとベレゾフスキーは、暗殺指令の一件を証言として録画し、いざというときのために保管した。
その頃、新しいFSB長官の候補者としてプーチンが浮上した。
――プーチンの際立った資質をひとつあげるなら、揺らぐことのない忠誠心だった。
リトビネンコは、プーチンの狡猾さを見抜き、ベレゾフスキーに忠告した。
――リトビネンコによれば、プーチンは情報機関から完全に離れたことは一度もなかった。彼は常にKGBに対して忠実だった。……プーチンが突然FSB長官に任命されると、古株たちは埃の中からプーチンのファイルを引き出し、自分たちの仲間だとしてあっさり受け入れた。
FSBはプーチンへの試練として政的(退役軍人ロフリン)を暗殺し、かれにもみ消しを行わせた。
――「プーチンは身も心も情報機関(コントラ)の人間だ。そんなかれにとって、私は裏切り者だ」
リトビネンコらは記者会見でベレゾフスキー暗殺計画を暴露した。その後かれらは逮捕され長期間拘留された。
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[つづく]