うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『The Indian Mutiny』Saul David その4

 15 反動

 東インド会社マドラス軍のニール大佐(Col. James Neill)は、ベナレス(Benares)とアラハバード(Allahabad)を奪回し、悪名高い市民虐殺を行った。

 インド総督カニングは、カーンプル虐殺の報を受けて、イギリス人の敵意がインド人そのものに向かないよう、寛容(Clemency)方針をとった。しかし、本国では報復せよとの世論が高まった。

 

 ニール大佐の後に続いて、イギリス軍准将ハヴロック(Bri Gen. Henry Havelock)がカーンプルとラクナウ救援に向けて出撃した。

 ハヴロック率いる部隊は、大砲と新式エンフィールド銃の威力により、続々とカーンプル近郊の集落を制圧した。やがて、敵陣の中で気勢をあげる人物がいた。それが謀反の首謀者であるナーナー・サーヒブだった。

 ハヴロックはカーンプルを奪回し、虐殺現場を確認した。その後は、進軍は鈍り、ラクナウまでは至らなかった。

 

 16 コリン・キャンベル卿(Sir Colin Campbell)

 デリー攻撃の延期が続くうちに、インド軍司令官バーナード将軍がコレラで死んだため、後任のキャンベルが本国から派遣されることになった。カニング卿はグラントを推薦したが受け入れられなかった(インド会社軍だからか)。

 その間はベンガル軍のウィルソン将軍(Archdale Wilson)がデリー攻略軍の指揮をとったが、攻撃は行われず敵が強化されていった。

 デリーでは各地の反乱軍が集結し、バフト・ハーン(Bakht Khan)が、皇帝バハードゥル・シャー2世の命により総指揮官となった。かれはデリーの規律維持を唱えたが、昇給を求めて略奪する傭兵や王子たちに手を焼いた。

 その間、ペシャワールからジョン・ニコルソンがデリーに向かった。

 

 8月には各地の反乱はピークに達した。しかし、中央部から南部にかけては静かだった。これは、反乱側の連携がとれておらず、また王や藩主たちがイギリス軍を恐れていたことを示す。

 それでも、もし全土が蜂起していれば、イギリスは放逐されていたに違いない。

 住民のほとんどが敵対している状況では、いかなる軍隊も支配を維持することができない。

 その意味で、インド反乱には指導者――ジョージ・ワシントンがいなかった。

 

 17 デリーの陥落

 ジョン・ニコルソンには、かれを崇拝するパシュトゥン人の親衛隊が常についていた。ニコルソンの到着と、連戦連勝は、デリー包囲軍の士気を盛り上げた。

 9月、ウィルソン司令官の下、ニコルソン、ロバーツらによる攻城戦が行われた。要塞をめぐり、数日間にわたり激しい戦闘が続いた。不利になった王は取り巻きとともに逃走し、バフト・ハーンは置き去りにされた。反乱軍に脱走が相次ぎ、デリーは奪回された。

 しかし、ニコルソンは戦闘中の傷によって死亡し、イギリス側はこれを悲しんだ。

 

 18 ラクナウの救援

 カーンプルで待機していたハヴロックの上官として、優秀な将軍ジェイムズ・アウトラム(James Outram)が着任した。かれらは増援を受け、二輪体制でラクナウ攻略を行った。敵の抵抗は激しく、ニール大佐らが死亡した。

 他地域では、ジャグディーシュプル(Jagdishpur)のクンワル・シング(Kunwar Singh)が蜂起し、またグワリオールやジャーンシーでも反乱軍が出現していた。

 アウトラムとハヴロックの救援軍が逆に包囲されたとき、ヘンリー・ロレンスの下で働いていた文官チャールズ・カヴァナー(Charles Kavanagh)が、セポイに変装して敵の包囲を潜り抜け、キャンベル司令官まで状況を報告した。

 カヴァナーは民間人で初めてヴィクトリア勲章(VC)を受章した人物となった。

 

 19 アワドの征服

 1858年3月に、増援によって強化されたキャンベルの軍がラクナウを攻略した。

 攻城戦においてロバーツはヴィクトリア勲章を受章した。また、優れた指揮官だったウィリアム・ホジソン(William Hodson)が戦死した。ハヴロックも傷が元で死亡した。

 キャンベルは損害を最小限に抑える方針をとったため、デリー攻略に比べて戦死者は減った。しかし、結果的に反乱軍の多くが撤退し、長期化したため、熱射病や病気を含む総死者数は増大した。

 イギリス軍は、グルカ王とその援軍による支援も得たことで、ラクナウの攻略に成功した。

 

 20 ジャーンシーの王妃(the Rani)

 ジャーンシー藩王国の王妃ラクシュミー・バーイー(Lakshmi Bai)は、反乱加担の嫌疑を受けたことで蜂起し、イギリス軍ヒュー・ローズ(Hugh Rose)らと交戦した。王妃はグワリオール城に逃れたが戦死した。

 ヒュー・ローズは、ヨーロッパ人殺害に関して王妃の責任を追及しながらも、彼女を優れた軍司令官として賞賛した。

 ナーナー配下の指導者だったターンティヤー・トーペー(Tatya Tope)は捕らえられ、「わたしは上官の命令に従っただけで何もしていない」という現代的な言い逃れをしたのち処刑された。

 ナーナーを含む反乱の指導者たちはネパール国境に逃れたが、森林で息絶えるか、ネパール王ジャンガ・バハドゥル・ラナ(Jung Bahadur)によって捕獲された。

 

 21 終戦

・1858年8月、インド統治法改正により、東インド会社の全権限はイギリス政府に委譲された。

・インド庁からインド担当省への改革

・キャンベル、ヒュー・ローズ、ホープ・グラント(Hope Grant)、ネヴィル・チェンバレン(Neville Chamberlain、政治家のチェンバレン家とは無関係)、フレデリック・ロバーツらは表彰された。インド総督カニング卿、行政官ジョン・ロレンスも表彰された。

 反乱鎮圧に協力した藩王やネパール王、グルカ王なども褒美を賜った。

・軍の改革:ヨーロッパ人とインド人との比率を1:2に維持した。ベンガル軍においては、パンジャブ地方のムスリムシーク教徒、グルカ、低位カーストヒンドゥー教徒中心に傭兵を再編成した。

 これは、反乱の10年以上前からジョン・ジェイコブ少将(Maj Gen John Jacob)が提唱していたことである。

・イギリス人、インド人ともに、人事評価制度と待遇を改善した。

・インド人兵隊の制服は、より現地に適したものに変更された。

 

The Indian Mutiny: 1857 (English Edition)

The Indian Mutiny: 1857 (English Edition)