うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『Moscow 1941』Rodric Braithwaite その1

 ロシア・ソヴィエトの首都であるモスクワと、その住民、また政治家や軍人を中心に、かれらがいかにドイツ軍の侵略に耐えたかを説明する。

 当時のモスクワの様子が細かく書かれており、知らなかった情報が多数含まれていた。

 

 この本は、中国を旅行している最中に外国人旅行者からたまたまもらった。


 1

 地勢と成り立ち。

・モスクワは要塞都市として生まれ、近代に入るまで、ほとんどが木造建築だった。19世紀、大都市になってからも、住民のほとんどは農民出身だった。やがて工場労働者が増加し、併せて社会不安も増大していった。

・ナポレオンの侵攻の際には、焦土作戦により市中を焼き払うことで、フランス軍の拠点化を防いだ。

・1917年の革命によってモスクワはボリシェビキたちに制圧された。以来、モスクワの共産党支部とソヴェト委員会は、将来のリーダーが務めるポストとなった。

 革命後も、モスクワは大きな村といってよかった。

 農家や畜舎があるだけでなく、人びとはお互いに顔見知りで、強い共同体が形成されていた。党は邸宅や集合住宅を住民に割り当てたが、住宅不足が深刻であり、不遇の人びとは職場や階段の下、屋根裏などに集住した。部屋を手に入れた者も、数家族が合同で生活することになった。

 ロシアン・マフィア「法の泥棒」についても言及されている。

 

 文化と教育

 30年代は、大粛清という負の側面がある一方、教育や文化の振興が進んだ時代でもあった。

 青年は高等教育機関に進み、学問を学んだ。また、当時の児童生徒はほぼあらゆる欧州の古典に触れることができた。

 芸術……作家や画家は党への奉仕を強いられた。映画はスターリンが好む芸術の1つだった。

 

 赤軍

 独ソ戦にいたるまでの赤軍の経緯が説明される。

 赤軍は内戦を通して手に入れた貴重な将校たちを大粛清で失った。その結果は冬戦争の失敗であらわになり、スターリンは軍の改革と、失脚した将校の復帰を命じた。

 ロコソフスキーは逮捕され歯を8本失ったが、処刑前に解放され再び要職についた。面会時、スターリンは拷問のことなどなかったかのように、将軍に対し「久しぶり」と声をかけた。

 スターリンの偏執狂的な意志に従い、大粛清を主導したエジョフは、いけにえとして処刑された。

 陸軍が過酷な拷問と処刑にみまわれる一方、空軍とパイロットはスターリンのお気に入りであり、英雄としてもてはやされた。

 スターリンは対独戦の可能性を見落としていたわけではない。かれは対独戦の時期をひきのばしつつ軍備強化に努めていたが、英仏が予想以上に早く大陸から駆逐されたことで、ドイツの侵攻時期を見誤ったのだった。

 

 2

 GRU(赤軍参謀本部情報総局)、軍高官(ティモシェンコジューコフら)は1941年6月22日のドイツ侵攻を察知していたが、スターリンは取り合わなかった。

 当日の朝に多数の兵や将校が家族もろとも死んだ。第1次大戦時代の兵器を寄せ集めた予備役の部隊がすぐに撃破された。このとき、多数の軍人が休暇をとっていた。

 軍最高首脳や、国境配備の指揮官たちは、態勢強化を申し出ていたが、ドイツを刺激するとして、スターリンに拒否された。

 モスクワ市民の多くは、戦争が始まったというモロトフの演説放送を聞いても実感がわかなかった。

 スターリン赤軍前線が崩壊していくとの報を受けて、数日間ダーチャ(別荘)に引きこもった。これは、スターリンの失策に乗じて権力を掌握しようとするものがいないか、部下たちの忠誠心を試したと考えられる。

 7月3日、スターリンは初めて演説放送を行った。

 かれは、ドイツが条約を破り不意打ちしたことを認め、また、ナポレオンやドイツ帝国と同じように、ヒトラーもロシアを打ち破ることはできないと主張した。

 この演説は独ソ戦の最初の転換となった。赤軍は態勢を立て直し、ドイツ軍の侵攻を一部で押しとどめていた。

 

[つづく] 

Moscow 1941: A City & Its People at War

Moscow 1941: A City & Its People at War