うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『仁義なき戦場』マイケル・イグナティエフ

 ボスニアへの介入は、WW2以前なら決しておこなわれなかったろう。

 「本書はボスニアルワンダアフガニスタンからの痛ましいテレビ報道を見て誰しもが感じる「なんとかしたい」というあの衝動を主題としている」。

 帝国主義や冷戦がおわったいま、われわれを見知らぬ国に結びつけるのは思いやりと道義である。

 特に人道的介入が国際政治のテーマとなっていた時期に出版された本。著者はこうした価値観に基づく軍事介入に懐疑的である。完全否定はしないが、それは万能薬にはならないという。

 昨今の国際紛争を考える上でも参考になる。

 

 ◆テレビの倫理――神聖なものはなにもないのか?

 普遍主義、寛容の系譜は新大陸進出や帝国主義の時代にたいする良心としてはじまった。キリスト教倫理では、慈善ほ施す際の順序は親類、隣人、同宗信徒、同胞、そしてさいごに「他人」である。

 「感情移入の快感の一つは自分の倫理的な一貫性のなさを忘れられることにある」。四海同胞の普遍主義も、「階級を同じくする者同士」の共感、経験の共有という思想も、おなじように神話的である。

 ――人間みな兄弟という神話の脆弱な国際主義が現代世界に倫理的な力として復活したとすれば、それは部分的な連帯――宗教、民族それに階級の連帯――が、その名において行われた殺戮によって面目を失墜したからである。

 ニュースによって「惨事という陳腐化した単一商品が生み出される」。テレビは中立ではなく、王室などの権力は認める。テレビは「人類の一員」だという認識をつくる。惨事を重んじるニュース報道は、やましいコミットメントか、なげやりな人間不信を生む。

 ――最良のドキュメンタリーは……紋切り型の殻を振り捨てて、神秘と複雑さに包まれたままの異質な世界と出会うことを強いるのである。


 ◆小異にこだわるナルシシズム

 何度も出てきたユーゴ紛争の話。

 「国家の解体が先で、民族主義的被害妄想はそのあとに来る」。国家秩序のないところに、民族融和はない。なぜ同胞から敵になるのか……創世記では、人類の物語は兄弟殺しからはじまる。

 聖書学者レジーナ・シュウォーツの解釈によれば、神がなぜカインに慈悲をたれなかったのか、「これは一神教の信仰体系の論理」だという。一つの土地、一つの民族、一つの国家、「一神教的な考え方においては、それは排除という暴力で脅す排他的な忠誠の要求となる」。また、このエピソードは、内戦、近親憎悪ほど激しいものはないということを教えてくれる。

 言語、伝統、歴史などの本来中立的な差は、安定した統治状態の下なら、取るに足らない問題だろう。「まず第一に夫とか妻とか恋人とか友人という立場になり、集団の一員であることは二の次になる」。

 ――不寛容な人びとはさげすもうとする相手について学ぶことにことさら冷淡である。

 彼らが外界を見るのは自分の信念を固めるためだけのためである。

 

 ◆愛想づかしの誘惑

 ボスニア内戦と同じころ、アフリカではアンゴラルアンダブルンジフツ族ツチ族の凄惨な抗争がつづいていた。国連事務総長はアフリカ出身のガリである。西側の援助は選別的である。どの地域を助けるかは、メディア、作家やジャーナリストのとりあげかたに依存する。

 平和を目指す活動は、根本的に死の文化をすこしでも遅らせようとする願いからはじまっている。ザイールの独裁者モブツは、彼がいなければさらに最悪の事態になるため、三十年近くも権力の座についている。

 「国が惨めな状態にあればあるほど、大統領専用ジェットは奢侈に走るという一般法則」。

 ブルンジの恐慌を防いだモーリタニアの外交官アフメド・ウルド・アブダラ曰く「この国に必要なのは精神科医だ……彼らはみなお互い疑心暗鬼にかられている……いっときでも政治権力を握るためなら、人を殺すことも辞さない連中ばかりだ」。

 ツチとフツの現地エリートは、国際社会がなんとかしてくれると甘えている。だが、ガリは彼らに言う、「ベイルートを思い出してみるといい……国際社会はあなた方が最後の一人まで殺しあうのを放置しておくことになんの痛痒も感じない。援助供与国側は疲れてきている。自助能力がなさそうな社会を救わなくてはならないことにうんざりしてますよ」。

 新世紀は、「第一次大戦後のウッドロー・ウィルソン流の国際主義の挫折に似て見える」。道義的国際主義の挫折と、孤立主義の台頭。『闇の奥』はいまなお示唆的である。マーロウはベルギー帝国主義の欺瞞を見た。「帝国主義は間近で見るときれいなものではない」。錯乱したクルツは「けだものどもを撲滅すべし!」と殴り書きした。

 ――コンラッドのこの作品は徒労感によって無力化したニヒリスティックな憤怒に取りつかれた十九世紀末の帝国主義をめぐる寓話である。

 一九九八年以降、国連や西側諸国の介入は消極的、一時的なものになったが、これによっておこった殺戮は多々あった。代々、圧倒的武力によって安定を保ってきたオーストリア=ハンガリー帝国やトルコなら、彼らのナイーヴさを笑ったに違いない。

 「信念として、介入せざるをえないが、そのくせ介入を成功させるのに必要な帝国主義的な仮借なさは許されないのだから」。

 道義的政策とナルシシズムは並行する。西洋諸国にとってボスニアは国際社会、多文化共生の希望の地となった。コンラッドの予言にはもうひとつ重要なものがある。それは倫理的な愛想づかしである。

 ――「けだものどもは勝手に自滅すればいい」という考えにすでにそそられている者は少なくない。

 それは「何年たっても相変わらずのエリート層と社会一般の自助能力のなさに対する客観的な反応だ」。欧米と日本はじめとするアジアの虎が世界経済を担っていくのにたいし、アフリカ、南米、中央アジアは、「世界経済から取り残され、総じて合理性に欠ける半永久的な暴力地帯になっている」。

 アメリカの保護をうけたクルド人たちは、対立する他部族のクルド人イラクの秘密警察にひきわたした。これは「教訓的な奇観」である。

 ――犠牲者に責めを負わせるのは幻滅に伴う誘惑の一つだ。新たな世界秩序の挫折をめぐって、言い訳になる倫理的な愛想づかし、すなわち「我々は」努力したが「かれらが」失敗したという自己弁明の意識がおびただしく広がっている。バルカン、アフリカ諸国のホッブズ的世界は、帝国の置き土産である。

 介入はできるだけはやらないほうがいい。先進国と貧国とのあいだの断絶を忘れてはならない。

 

 ◆戦士の仁義

 赤十字創始者デュナンの回想録『ソレスティーノの思い出』、トルストイセヴァストポリ物語』。デュナンは戦争の機械化の黎明期にいた。クリミア戦争南北戦争は、機関銃による大量死の前触れだった。

 「戦場で礼節を強要する手段として仁義に代わるものは過去、現在、未来にわたって、ない。戦闘で殺しあう現場には裁判官は、もっと端的には警官もいない」。

 国民国家の軍隊より、礼節を重んじる封建君主の騎士のほうが赤十字の理念、中立的な傷病兵の救助には賛成しただろう。

 戦争の様相が変わるにつれて議論も多くなる。

 

 ――アフガニスタンチェチェンでは、外国勢力による占領に対する正真正銘の民族蜂起としてはじまった戦争が、しばしば犯罪集団となんら異なるところのない民兵軍の間での領土、資源、麻薬、武器をめぐる残忍な争奪戦に堕している。

 リベリアではヤク中の、「ランボー少佐」といった変名をつけた、運動靴をはいた少年兵によって赤十字の輸送車が掠奪された。男根崇拝的要素をもち小銃をふりまわす兵隊。

 セルビアではファシスト、デューク・セセリエ率いる「白鷲」や、ベオグラードのギャング、アルカンの率いる「虎」が浄化をおこなった。アルカンは英雄のようにカレンダーを飾っている。

 「不正規兵は戦史の初め頃から存在し、残忍さは天下周知のことだ」。

 コサック兵、スコットランド高地氏族集団などが正規軍に吸収されたのに対して、セルビアクロアチアでは、汚い仕事をさせるために民兵は刑務所から召還されたのだった。

 タリバンパキスタンから支援をうけてカブールを制圧した。アフガニスタンは屈指のゲリラ戦士で有名だったが、アメリカ、ソ連の置いていった武器が武人の魂をだめにした。

 国家は暴力装置であった反面、万民から武器をとりあげ一括管理する公的機関でもあった。現代の貧民戦争はこの国家がないところではじまっている。これら無政府地帯にいかにして安定した国家を建設させればいいか? 赤十字は戦争を不可避のものとしている。そのうえで、戦士たちに道義と倫理を遵守するよう呼びかけている。

 

 ◆覚めやらぬ悪夢

 20世紀初頭のアイルランドについて。

 ――ジョイスの著作は伝統、ルーツと帰属意識、心の慰め、逃げ場、故郷といった歴史のいろいろなヴァージョンに対する延々たる非難なのである。

 戦争の当事者同士が歴史・真実を共同で書くことはまれである。真実とは互いに対立する二つであり、妥協案はない。

 「互いの苦しみを認めるのはどちらにとっても比較的たやすい。最大の責任がいずれにあるかについて認め合うほうがはるかに難しく、実際のところ通常は不可能である」。

 ――なんの罪もない犠牲者という神話は、相手側の残虐さという神話同様、責任を直視するのに手ごわい障害となる。

 ユダヤ人は、アラブ人は、トルコ人は残虐非道であるといった内面化された被害妄想の神話は、その必要性が精神から消えないかぎり、いくら事実によって反証されても薄まらないものである。

 戦争犯罪法廷の任務は罪責を民族全体から個別の人間に移すことにある。だが、依然としてホロコーストはドイツ人全体の罪となっている。

 旧ユーゴ、ルワンダ南アフリカでは「人びとは順を追った時間軸ではなく、過去と現在が幻想、歪曲、神話、嘘の一つながりの凝集した塊になっている同時性のなかで生きている」。

 ――バルカン戦争を取材した記者たちは残虐行為の話を現地の人から聞かされて、その話が昨日の出来事なのか、それとも一九四一年か、一八四一年か、一四四一年なのか、はっきりしないことにしばしば気づかされた。話し手にとっては昨日も今日も同じことだった……犯罪は歴史的過去の中に安全にしまっておくことができず、永遠の現在にとどまりつづけて、流血を求める。

 民族が和解することはない。対立をやわらげるのは儀式としての公的謝罪のみである。復讐は昨今では低級な感情の代名詞になっている。だが本来は「死者との信義を守り、死者の果たせなかった志を引き継ぐことでその思い出に敬意を表したいという願望だ」。戦争が前の戦争のつづきであることはよくある。

 息子は父の犯罪に罪はなく、父の死に復讐する義務はないと感じるようになるまで、和解はやってこない。『ユリシーズ』のイギリス人ヘインズの発言は、古今東西におけるいがみあいをあらわしている……「アイルランド人はきっとそんなふうに考えるんだろうね、おそらく。イングランドでは我々はきみたちをかなり不当に扱ったと感じている。責められるべきは歴史だろうねえ」

 ジョイスは歴史という運命に逆らった。死者への忠誠をやぶったのだった。復讐する者がもつ敬意を尊重しなければ和解はないだろう。

 

仁義なき戦場―民族紛争と現代人の倫理

仁義なき戦場―民族紛争と現代人の倫理