三部作の最後。ドストエフスキーの気違いたちの話。モーナはふたなりのスターシャと親しくなり、ミラーはこのスターシャをねたんだ。彼はドストエフスキーの世界を、退屈と狂人に満ちたニューヨークに投影させた。曰く、ドストエフスキーの想像のロシアにもっとも近いのはニューヨーク、アメリカである。
「どうしてわたしが作家にならなかったか、わかるかね? ……わたしにはいうべきことが何もないのに、すぐさま気づいたからだよ。要するに、わたしには一度も生活した経験がないということだ」
――置かれた立場がきわめて悪化し、まったく解決の見通しのつかぬとき、残された道は殺人か自殺かのどちらかだ。あるいは両方か。そのどちらも果たせぬとなれば、あとは道化になるしか道はない。
「問題なのは――ああ、どんなにか問題なのは! ――ただ現在なのだ」。
心mindの中に生きて、脳溢血になって死ぬ。彼はふと自分がキホーテそのものだと気づき愕然とする。
「ばかはあらゆる逆の目にもかかわらずなお信じる」。
「不毛の荒廃を描く文学」は、負の愛、つまり愛、神への渇望を抱いている。
死者と生者の違い……生者は驚く能力をもち、死者は牛のように反芻する時間を無限にもつ。心はただの機械、精神破壊機械となる。『プレクサス』より、物語としての体裁が、若干技巧的になっている気がする。モナともめているせいか、以前より緊迫している。
クリスマスにモナとスターシャをつれて生家に戻る。ドイツ移民の家だ。二人の女は、家のおごそかな平和を乱す。
「作家が道化をかねているなんて、はじめて聞きましたよ」。
ミラーの母は、ミラーが文学にのめりこんで廃人になってからのことを、なかったことにしていた。母親のミラーにたいするイメージは十二歳の少年、絵がうまく、ピアノが弾けて、将来仕立て屋を継ぐ少年で停止していた。
妹のロレットいわく、「兄さんもアメリカ人だということよ……でもアメリカ人にしちゃ本を読みすぎるわ」。
三人はヨーロッパに行こうと夢想する。ゴーギャン、ラフカディオ・ハーン、ジャック・ロンドン。
スターシャは出ていった。ミラーの、チェーン・ストアの社長室への特攻。下積みからはじめるべきところを、彼は頂点からはじめようと考えた。
「いったいぼくの歳に他の文人たちはどうしていたか、さぐってみたい好奇心がむらむらとこみあげてきたのだ」。
――ぼくは世の中にきわめて重要などんなことを語ればいいのか、ということだ……どのような点でぼくは独自なのだ?
虚言症のモナは自分を大女優だとおもい、まわりに不幸な生い立ちだという嘘を吹聴していた。
ミラーはふたたび無職の生活をはじめる。アイルランド演劇、ユダヤ人。孤独なレブ氏とその友人エルフェンバインは酔っ払って話をはじめる。彼らはニューヨークでの錆びた生活に嫌気がさしていた。
「近ごろじゃ、非ユダヤ教徒と同じような口をきき、たいせつなのは成功だけだなどとうそぶくユダヤ人がいますからね」。
ラビではなく拳闘士やホモばかり増える。やがて「ユダヤ人のコサックが現れるでしょうよ」。
「法則は野蛮人たちのもの、技術は穴居人たちのものだ。吟遊恋愛詩人よ消え失せるがいい、カッパドキアの連中でもだ!」、「彼らから与えられた表現の力は、呪いと冒涜のために使おう」。彼はバベルの塔を破壊しようとする。
彼はヴァレリーはじめとする純粋詩を無意味、無価値であると考える。
――『ただ一つの罪がある。それは弱さである……愚行の上に愚行を重ねてはならぬきたるべき悪に弱さを加えてはならぬ……。強くあれ!』……ところが世の中の連中は正反対のことをやる。彼の言葉に拍手を送った連中が、話の終わったとたんにもう教えにそむき始める……大家についての話を聞くのはいいが、ではさて大家になるかといわれると、とんでもないとばかり逃げ腰だ。
すでに共通点を持たなくなったかつての親友マクレガーを追い払ったあと、彼は独演劇をはじめる、「おまえは他人と違うとうぬぼれているが、実際はおまえが口をきわめてけなす連中とすこしもえらぶところはないのだ……罪はただ一つしかない。それは弱さだ」。
彼はヨーロッパにたいしてコンプレックスを抱いていた。厖大な歴史をもつヨーロッパに比べて、ブルックリン生まれの若者の苦しみがなにか?
「アメリカの精神的痔疾など、古きヨーロッパのラスコーリニコフやカラマーゾフたちにとってなんであろう?」、「平和と豊穣と安全の雰囲気に育った人間が、殉教者の子孫に何を言い得ようか? 彼らの運命の記憶は、もはやぼくたちの中に燃えてはいない……忘却の川の水にはぐくまれ、ぼくたちはへその緒をなくし、合成品の流行にうつつをぬかす忘恩の民となってしまったのだ」。
ヤコブ・ベーメ。ロシアに自動車があったら、ホメロスがロールスロイスに乗っていたら、はたしてあんなものが書けただろうか? ハムスンは渡米して市電の運転手をしたあと、ノルウェーに戻って『飢え』を書いた。ミラーはよく多幸症ぎみになる。
「偉大なるエホバと大陸会議」、独立戦争。最後、いろんなアメリカ人に別れをつげて彼はパリに向かう。こうして『薔薇色の十字架』三部作は終わった。
暗い春
――わたしが育ったブルックリン第十四地区がわたしの祖国である。米国の他の部分は、わたしにとっては観念、歴史、あるいは文学としてしか存在しない。
彼はニューヨークで生まれたので、彼の記憶や経験はすべてこの町のなかでのものである。シュルレアリスム風のことばが満載だが、いま読んでもおもしろい。
「スウィフトの名は、世界にかぶされたブリキの蓋にだれかがいい音をたてて小便しているのを思わせた」、「卵の白味のように禿げた世界よ、おまえはどんな光が消えた月の下で冷たく輝きながら横たわっているのだ」。
記憶はむかでのように町を覆い、飲み込んでしまう。
「わたしはもう過去も未来もない人間になっている。わたしは存在し、――ただそれだけなのである」、「われわれはこの地上でけっして終わることがなく、過去はけっして消え去らず、未来はけっして始まらず、現在はいつまでもつづくのだ」。
観念のために死んだ人をおもうとき、彼はこうおもう、「逃げ道をすべて塞いでしまえ……新しいエルサレムにしっかり蓋をしろ」。
――十字軍の帰還とともに黒死病がやってきて、コロンブスがもどってきたときは梅毒がヨーロッパに持ち込まれた。そしていずれは現実もやってくる。
「ここがわたしのからだや魂の風土で、ここには活気と腐敗がある。わたしは今世紀の人間でないことを誇りに思っている」。
時代に同化しないというのは、時間を見ないということとはちがう。
「まちがったことを書くのを気にかける必要はない。伝記作者がそういうまちがいを全部説明してくれる」。
時間を絶対に受け入れるとホイットマンが言った。
ロビンソン・クルーソーは、キリスト教文明の頂点において、無人島と原始的な道具だけで「比較的な幸福」を見つけ出すことに成功した。
「それからというものはもう無人島などはなくて、だれであっても自分が生まれたその場所が無人島だった」。
みな無人島をもとめては挫折した。
――現代の進歩は病気ばかりなのだ。無人島もなければ、天国もないし、比較的な幸福さえもない。そして人は自分というものから逃げるのに熱中するあまりに、浮氷群の下や熱帯の沼沢地帯に救いを求め、でなければヒマラヤ山脈を登ったり、成層圏で窒息したりしている。……
「便所ですごす休憩時間は千人のウェルギリウスに値し、昔からそうで、これからもそうだと断言する」。
これは学校の思い出のようだ。
奇妙な言葉で絵を描くことや不動産経営のジャバウォールのことが書かれる。文学を食べるものと、鷲鳥のつるこけももソースあえを食うもの。ジャバウォールは自動筆記風にしゃべる。これはおもしろいが、こういう文章はふるい文学全集と小さいフォントと一体化している。しかし文庫の『暗い春』はとくに古風には感じなかった。百年前に生まれたアメリカ人によって書かれたということがわかっているからだ。
「わたしの標語は、なんでもいいから、陽気にしていようじゃないか、というのである」。
舞台俳優のしゃべる英国英語……「あまったるくて、なめらかで、にちゃにちゃした英語で、どんなつまらないことをいっても、それが何か深い意味があるように聞こえた」。「しかしトム・モファットはほんとうの貴族で、値段について何も言いもしなければ、金を払いもしなかった」。
バーのモファットとミラーのおやじの喧嘩。仕立て屋の息子なら、小さい頃から父親が客とけんかしたりののしられたりする場面を見ているにちがいない。彼はところがそれを生きることの厳しさだとか試練だとかは考えなかった。そうしてプー太郎になった。支那語を勉強しろ、プロヴァンス語を勉強しろ。
「自動詞で歌え……他動詞で歌え」。
表現的文章がつづいて、おわった。これは重要な泉となるだろう。
読書の自由の擁護
ノルウェイで『セクサス』が発禁になったときのミラーの声明。本を発禁にすることによってミラーに害がおよぶのではなく発禁にした人間たちがどうかなってしまうのだ、と彼はいう。
「わたしは自分を罪人だとみなすことができないのです。わたしはただ「調和を欠いて」いるだけです」。
教えを請うふりをして相手の無知を暴露するのがソクラテス式問答法である。セクサスにおける不道徳箇所の列挙は「中世的様相を呈している」。ある人間たちは法律のためにつくられる。暇をつぶすのではなく暇につぶされる。
「良い本と同様に悪い本も――つまり、単に無害な本をも読む自由」を主張する。
解説
吉田健一による。ミラーはアメリカ文学のなかでは異端で、これは「文学上の教養がいちじるしくヨーロッパ的であることからきているとも考えられる」。彼はアメリカの文明を否定しつづけた。エリオットやヘンリー・ジェイムズが典型的な無国籍教養人・知識人であるのにたいし、ミラーは独学で、根無し蔓である。ミラーの生まれた二十世紀初頭のアメリカは、「われわれが今日、アメリカということで考えている国とはだいぶ違ったものだった」。
当時のニューヨークは「ヨーロッパ人がヨーロッパからきて作った町というものの感じだった」。
ハムスンやドストエフスキーの世界は彼の下町と地続きだったが、第一次大戦がおわり、超大国となると彼の故郷は失われた。ミラーの文体は、現実をうつすために使われた点においてダダとは似て非なるものである。
――われわれが現実という名で親しんでいるものがいかに多くの、われわれが普通は非現実と考えている各種の観念が混入してできあがっているかをミラーが超現実派の画家たちよりもはるかに正確に知っているのは、一つには生来の放浪者である彼の性格による。
『マルーシの巨像』も読んでみよう。
この全集だったかどうかは忘れました。