うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『セクサス』ヘンリー・ミラー その2

 

 ユートピア的政治組織はいつも人間を自由にすると約束する。

 ウルリック曰く芸術家はよろこびを手に入れるために食事や金を抑制する。いったい金持ちが貧乏人のように食事を楽しむだろうか? 芸術家はふだんは働かないがもっともゆたかである……そしてミラーこそは真の芸術家であるという。曰く自己に閉じこもっていない人間は他人の幸福を見ると自分も幸福になるのだ。さもしい輩がやっかむ。幸福というのもいやらしいニュアンスをおびてしまったが、ウルリックは言った、本来幸福とは人間がその生涯をかけて追求すべきものである。

 ――困ったことに、ぼくは自分が一個の屑みたいな人間だという事実がのみこめないらしいんだ。

 読み飛ばしても差し支えない箇所がたくさんある。彼はぶしつけで乱暴なアイルランド人が嫌いだったが、モナハンというアイルランド人の警官と会話をする。生活にスポイルされていない点をモナハンは気に入る。インド人のゴンパール、医学博士であることだけがとりえのクロンスキ。狭いニューヨークのアパートで暮らす人間がなぜインドを理解することができようか?

 ――ぼくがもっともきらっていたのは、彼らのうわべだけのまじめさだった。ほんとうにまじめな人間は陽気なものだ。のんきといってもいいくらいだ。腹の底からの安定を欠いているがゆえに、この世のいろんな問題を引きうけるやつらを、ぼくは軽蔑した。いつまでも人類の状態になやんでいるやつは、自分自身の問題を一つももたないか、ないしは、それと対決するのを拒んでいるのだ。

 「もう一つぼくが心からその価値を信じないものがある――労働だ。労働、こいつは人生のほんの門口にいるぼくにとっても、愚鈍な人間のためにとっておかれた活動であるとしかおもえない。それは創造とは正反対のものだ。創造は遊びであり、それ以外に何の存在理由もないがゆえに人生における最高の原動力なのだ」。

 人生とは埃をかぶった分厚い本のなかにあるのであって、「毎日あくせく働いている駑馬ども」にはそんなものはない。

 ミラーは書く、人生に参与し、人生を形成し、人生そのものであった人間は、何も所有しなかった。

 「彼らは義務について、なんの迷いももっていなかったし、一族一門の永続とか国家の保全とかについて、なんの幻想ももっていなかった」。

 

 自動筆記風芸術論がつづく……「人は宇宙の秘密については何も発見していない。せいぜい運命の性質について何かを学ぶくらいのところである」。「ぼくの文学的実験は、ヴァンダル人によって掠奪された古代都市のように、廃墟のなかに横たわっていた」。台風や地震といった災害は災害でしかないが、「生きのび、それを研究する人間にとっては啓発的たりうるのだ」。

 ――うしなわれた戦場の光景が肉眼にあたえるたんなる「災害」の彼方を見ることだ……

 人間が、おのれをたんなる闘争の座とみなすことをやめるまでは、世界の光景はたんなる「あさましい戦場」にすぎない。「彼の私の私」his eye of eye自我の自我になる仕事にとりかかるとはいったいなにごとか。330pからつづく長大な文学論、芸術論はまた読み直す機会があるだろう。

 「メラニーは善人と悪人との区別を認めていないようであったが、ただひとつの指導的原則、親切には直接的な反応を示した」。

 自分が臆病だとみとめ、それを人間に打ち明けたものには英雄の道が待っている。服従こそ君臨するための最良の方法である。東洋人はいつも「不可解な微笑」をする。ジャップのミスター・Tは、ミラーと女たちに「チビ助」とこけにされる。

 ――古い型をたたき壊せ! すり切れた関係をたたき切れ……そうだ、ぼくはいま、非常に強烈なよろこびを感じつつ、ぼくの思考が火花を散らして四方八方に光を放射しているさまを観察した。

 彼は机に向かってこの瞬間をまったがやってこなかった。「霊感の洪水」を待つ。


 ――街はまたしてもすべてが灰色で平常な外観を見せていた。極度に重苦しい平常さだ。人々は細長く茎の伸びた野菜のようにころがっていた。彼らは、彼らの食うものに似ていた。そして、彼らは、その食ったものを糞にする。ただそれだけのことなのだ。なんということだ!

 日常生活の記憶と、言葉の爆発と、文学や芸術、人生についての瞑想が交互に入れ替わりして成り立っているようだ。

 「ぼくの仕事は霊感の地図に対する記憶増進的な索引を発展させることだった」。

 「裏切りと、それに対する恐怖は、人格の喪失という普遍的恐怖にもとづいている」。

 ――嘘も歴史もひっくるめて、歴史(イストワール)は物語であるべきだということは、ばかにできない重要性をふくんでいる……嘘は真実のなかにのみはめこまれうるのである。それは孤隔した存在ではなくて真実と共生的関係をもっているのだ。よき嘘は真実が顕示しうる以上のものを顕示する。

 彼は宇宙悪魔電信会社をやめようとしていた。

 「文明と似ている。あらゆることが、なめらかに動くように仕組まれているくせに、ちょっとした篝火ですぐ破壊される文明……もし恐慌も戦争も革命も起こらなかったら、おべっかの利点を利用して、だんだんと昇進してゆき、ついには自分の頭を吹きとばして自殺するまで出世して、大物にのしあがるのだ」。

 ダンスホール複数経営する、素性の知れぬハーコート氏についての企業探偵オラークの話。同僚のオラークはミラーにとって驚嘆すべき人物だった。彼は仕事に打ち込み野心をまったくもっていなかった。下層社会に触れて精神は柔軟であり、またあらゆる人間に同情と関心を抱いていた。彼は法を象徴していた……「人が自分だけの目的のために利用するケチな精神の法ではなく、決して働くことをやめぬ計り知れぬ広大無辺な法であり、容赦なく厳正で、そうであるがゆえに究極的にはもっとも慈悲深い法だ」。

 「奴には少しもいいところがなかった。真っ黒な膿汁でいっぱいの奴だった」。

 小男のアーサー・レイモンド――意気地なしの男の子として育てられてきたので、自分の性質の野蛮な一面を伸ばす必要が絶対にあると彼は思い込んでいた……多くの小男どもが、つねにやりたいと空想することを、彼はやっていたのである――つまりジュウジュツの達人みたいなものだ。彼はそれを、小男たちが恐怖する暴力の世界をつくりあげている威嚇的な大男どもを侮辱する快感を味わうために敢行した。

 「きみは、ちんぴらの乱暴者だ。ちんぴらの乱暴者は、大物よりも、なお鼻つまみだ。そのうち、いつかきみは、相手にしたら困るような奴と取っ組みあうことになるぜ……」。

 小男の武力路線は頓挫したのだ。ミラー曰く行動から離れた知識はなんの意味ももたない。

 ドクター・クロンスキとの精神分析をはじめる。このころはフロイトやランクがはやっていたようだ。自己は周囲に防衛工事をほどこす。クロンスキは知識をもちながらその知識がくだらないことを証明しようとしていた。若き日のセリーヌ

 ――生命の道! 偉大なる言葉だ。「真理」と言ってもおなじことだ。これ以上のものはない……これにつきるのだ。だから精神分析家はいう、「自己を順応せしめよ! と。それは、一部の人が思いたがるように、この腐敗せる世の中に順応せよという意味ではない。生命に順応せよと言っているのだ。達観者になれ! それが最高の順応なのだ――自己を達観者にすることが。

 花は風で折れ、巨人は投石器で打ち倒され、臆病者は自分の要塞の下敷きになる。鎖帷子、無敵艦隊マジノ線、スパイの宣伝工作、あらゆる安全保障はやがてほろびる。

 「たとえ心のなかででも絶対安全を求める人は、みずから手足を切り落として、痛みや不安をあたえることのない義肢をつけたいと願う人と同断だ」。

 ――あらゆる危険に自己をさらしうるということこそ、取りも直さず人間の強みなのだ……自由自在にあらゆる次元を動いて生命と一体になったものが神なのだろう。

 天国も地獄も共産主義ユートピアも死んだ。

 「道具だてをかえて、別のちがった場面を楽しもうなどということは不可能なのだ」。

 

 ユダヤ人のレベッカ、「彼らの弱点は、支那人の場合と同様、文字に書かれた言葉に対する異常な畏敬だった」。ミラーはハムスンに手紙を出したが、帰ってきたのはアメリカの出版社にたいする呪詛と、あなたの力で本の売り上げをのばしてくれ、という懇願だけだった。彼はハムスンに失望した。「偉人崇拝」癖へのしっぺ返しのようにおもわれた。

 「本当に何かに熱中すると、邪悪で醜いものなんて何もないんだが、それを人に理解させるのはむつかしい。とにかく、これが空想の世界と常識の世界のちがいなんだ――もっとも、常識の世界なんて、じつは常識どころではなく、ただの愚劣な気違いざたの世界なんだがね」

 この本のなかで、ミラーはモードという女と離婚して、モナという女と結婚する。が、ほとんど読み飛ばしているのであまり印象に残らない。さいごは、さらに過去の思い出の、クレオというよくわからんストリッパーと、オスマンリという男の話。予型論的なことば――オスマンリーが歩道でうつぶせに倒れたとき、彼はぼくの人生の一場面を前もって演じていたにすぎなかった。

 「道路がなかったら、この地球はどうなるだろう? 道のない大洋。ジャングル。最初に荒野を貫通した道路は、さだめしものすごい大事業に思われたことだろう」。

 妻に家を追い出されて夜ぶらついていると、当然のように強盗に襲われてしまう。

 

 ヘンリー・ミラーの翻訳はほとんど読んだが、影響を受けたのは生活様式や芸術についての文言である。 

セクサス―薔薇色の十字架刑〈1〉 (ヘンリー・ミラー・コレクション)

セクサス―薔薇色の十字架刑〈1〉 (ヘンリー・ミラー・コレクション)