文学は生を改善すべきか
表題のようなことがよく叫ばれるが生活水準の改善という点から見れば国会議員や経済学や技術、医学などが十分やってくれているから文学の入る余地はない。そもそも文学とは……「今日もはや吟遊詩人は存在しないし、現にこのわたしどもにしてもそうではないから、文学とはある種の書籍、文学をもった、文学にあふれた書籍です」。
そしてそもそも「生」とはなんなのか。生はヨーロッパにおいて過剰な畏敬をうけてきた。命が極度に尊重されるこの態度は普遍のものではない。
――生は、ただわれわれのあいだでだけ、この一定緯度内のヨーロッパにおいてだけ秩序の根本概念となっているにすぎません。
前世紀の英国労働者はその数世紀前の大貴族よりも快適な暮らしをしていた。こういう生活の向上はすでに「人間社会という事実のひとつの機能として作動している」。悩みや不安が人間の値打ちである。ラインホルト・シュナイダー曰く「芸術の本質には、諸問題を未解決のまま放置し、薄明のなかを低徊しつづけ、かたくなに固執するという一面がある」。
ドイツは芸術家を偉大な改善者として考えがちだが、ドストエフスキーやヴェルレーヌ、ワイルドのいる国ではこんな命題は口にされることがない。
――カフカになるとこんな言葉さえ聞かれます。「文学とかかわりのない一切のことを僕は嫌う。ただ退屈なだけだ」。
コンラッド曰く「詩作とは挫折において存在を経験することである」。彼らから社会改革の気概はみじんも感じとれない。
――芸術のための芸術家というわけか、だが因果律は? インドシナ問題は? などと反問を重ね、考えこんでおられるはずです。ところがこのタイプの詩人にはそれが出来ない……自己の道を最後まで進み、自己の限界を体験するほかない。
全的人間などはディレッタントの夢想である。
「今日の詩人は無慈悲なまでの空虚さのなかで生きています」。
詩は独白だ。絶対詩をニヒリズムと淫蕩性の結果だと考えるのはあやまりである。
「われわれを魅惑するフォルムのなかには、情熱、自然、悲劇的体験などの実体がなまなましく息づいている」。
かれは芸術の形式に運命をたくした。これは人間の力をこえる運命のことでユンガーの考える占星術などと同様のものである。ベンの思想もアフリカからすれば行き詰った文学であろう。しかし近代化の文学がおわればやがてここにたどりつくはずだ。逸話のパターンは対戦表のようにすべて出尽くし、書くべき問題や社会改革の動機もなくなる。われわれはバベルの塔が建ってから生まれた。
小説
医師レンネ
レンネは病理研究所に勤めていたが休暇をとり北ドイツへ向かう。断片的な生活の記録と妄想がつづく。人称がころころ変化する。彼の心境は牧歌的な・田園のドイツとは程遠い。話の脈絡はまったくない。いつのまにか言葉の暴走がはじまりおわった。
根源の顔
奇異なことばを駆使して世界文明を論じる。人間の寿命は遺伝で決められており病気はほとんど関係がないというアメリカ民族学者の仮説。
――ちっぽけな大陸にぎっしり詰めこまれた四億の個人、二十五の民族、三十の国語、七十五の方言、根絶の危機をもたらすまでに激しい国内的および国際的緊張、一方に二ペニッヒの時間給の賃上げ闘争、他方に花々に満ちあふれたカンヌでカートン・クラブのゴルフ・マッチ、零落した王侯、独裁者になりあがった浮浪者、垂直トラストの乱飲乱舞、かぎられた大陸の富を経済的に、つまり競売で、売りはらおうという利潤追求熱。
これが末期ヨーロッパの姿であり、一方アメリカは「フィラデルフィアに発生した神話をもつ大陸」である。文明評論というよりは文明の表現で遊ぶといったほうが適切だろう。
酒場「おおかみ」
酒場の話かとおもいきやいつものベン節になっていく。解説によるとベンは「絶対散文」なるものを考案しようとしていたという。これは小説でもないし厳密には評論・批評でもない。ベンの言を借りれば表現そのものらしい。白人の植民地支配へのやましさはたびたび文章にあらわれる。
「歴史をもたぬ偉大性も存在したのだ」。
――人間の本質とは造形の領域のことである。人間を識別しうるのは、この領域においてのみである……平面を深味に移し変え、連関と配列的な使用によって言葉を精神的世界へと開き、音声が自己を保持して不滅のものを歌うにいたるまで、これを連鎖する。
「精神を、単に歴史の勝利や国境侵犯の成功においてのみ、認めようとするのは低級な人種だ」。「芸術とは、疥癬治療薬ではなく、人間宣言である……人間の資本は病気、この不治性こそ彼の本質である」。
――この世の秩序に、私は文句はありません――だって、生についてとやかくいう者は、もう裁かれているも同然……
芸術は不自然で人為的なものであり必然性とは自然を解体したところにある。「行動とは、資本主義、軍需産業、マルプラク――ボロディフ――大連――すなわち死者十五万人――死者二十万人――死者二十五万人――歴史は、大量殺人の根拠づけとしてしか見ることはできない」。歴史にたいする批判が目立つ。歴史・伝統・記憶というものがヨーロッパでは大きな権威をもっていた。歴史は民族固有の記憶ではなく「諸国の漫画本」を記載する。
――このうすっぺらな金箔の巨人族の末裔には、ヘロイズムよりヘロインの方が似合っている。
「現代に何も提供するものをもちあわせぬ者が歴史を口にする。すべてローマ、万事がルビコン河。面だけはローマ皇帝、頭脳は穴居人、これが歴史のタイプだ」。行動・歴史と深遠・芸術という白人の二つの世界。生か精神かという問題である。
――そして人間という被造物において、自然はまさに不自然へとつっぱしる。バクテリアを叩きだして抹殺し、自然の嗅覚を低下させ、聴覚を弱め、視覚は眼鏡によって変質させるこの人間の未来は、純粋に抽象である
創造的活動はすべてニヒリズムを掩蔽するためにおこなわれた。創造性とはベンによれば「空虚、無成果、冷徹なもの、非人間性」である。十九世紀から精神は絶望状況にある。「認識が大きくなればなるほど、苦悩は果てしなくなる」。
精神を重んじよとベンは最後に叫ぶ。表現主義の特質たる訥弁が発揮されている小説だ。
現象型の小説
これは各テーマごとにエッセイ形式で書かれているが若干堅すぎる。哲学のことはよくわからないので流し読みした。
***
「ゴットフリート・ベンは、「世界」の廃墟から出発した詩人である」。しかし現実はなおも「世界」や「進歩」を盲信していた。ニーチェ曰くニヒリズムとは人間生活を方向付けてきた最高の価値が無効となり「なぜ」に対する答えが消滅することである。
解説者はベンの「絶対散文」、「モノローグ芸術」、表現主義には懐疑的のようである。たしかに小説群のほとんどは読みにくい。