うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『The cold war』Johon Lewis Gaddis

 冷戦についての概説本。

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 1 恐怖ふたたび

 冷戦の起源について。

 第二次大戦における連合国は、お互いが既に対立状態にある国同士の連合だった。戦争中は互いに協力したが、まもなく自然な状態に戻る。合衆国とソ連には多くの共通点があった。どちらも革命によって生まれ、ひとつのイデオロギーを信奉し、それを世界に広めようという野心の持ち主だった。両国とも広大な領土を持ち、それぞれ日本とドイツの奇襲によって参戦した。

 合衆国は英国の中央集権への抵抗から生まれ、地政学的有利を武器に孤立政策のなかで発展した。

 ソ連の戦死者は米国の九十倍に達した。

 対戦終結時、ソ連社会主義は資本主義と同じくらい、未来への魅力をもっていた。また、ソ連が明確な主義をもっていたのにたいし、ルーズベルトの急死によって大統領になったトゥルーマンや、選挙に負けたチャーチルに替わり首相となったアトリーには、明確な目標が欠けていた。

 スターリンの戦後の目的は自国の保存だった。また犠牲の量によって報酬は決まると考え、東欧を手に入れた。ドイツに関しては西側に三分の二を許した。彼には、いずれドイツは社会主義に傾きソ連支配下となるだろうという確信があった。

 一方アメリカは元来孤立政策の国であり、ウィルソン時代を除いては、その国力にふさわしい影響を及ぼそうと考えなかった。ルーズベルトの戦争目的は連合国の維持、集団安全保障の確立、最後に、国際連盟の二の舞にならぬようアメリカ国民を納得させることだった。イギリスはたとえソ連と手を組んででも生き残ることを唯一の目標とした。

 連合国は戦争中からすでに対立しており、冷戦の根はここにあるといえる。この対立問題は以下のようなものである。米英は独ソの単独講和を恐れたので、ソ連にできる限りの援助を与えた。また独ソ戦の継続中に第二戦線を開くことも不可欠だった。第二戦線をつくることは、米英がヨーロッパの戦後処理に介入する根拠となるからである。スターリンは、ノルマンディ上陸はソ連を疲弊させるために意図的に遅延されたのではないかという疑いを抱いた。

 次の対立は影響圏spheres of influenceである。連合国によるヨーロッパ分割は欧州諸国にほとんど決定の余地を残さなかった。スターリンヤルタ会談の内容を破り、ソ連は西へ膨張した。

 敗戦国処理もまた争いの種となった。ドイツは三分の二が西側のものとなったが、スターリンはやがて赤化すると自信を崩さなかった。日本について、米英はソ連の戦後処理介入を阻止するために原爆を落とした。ドイツの場合には、完成前に降伏したが、日本への原爆投下は大きな影響を与えた。

 原爆の誕生をスターリンは「野蛮を超える超野蛮」と賞賛した。スターリンは戦時中にスパイを送り込み原爆開発の情報を得ようとしていたから、驚くことはなかった。

 西側と東側の「安全保障のジレンマ」は戦後まもなくはじまった。駐ソ大使ケナンは本国に電報を送った。その内容は「米国に必要なのは戦争ではなく、ソ連の膨張政策の阻止、すなわち封じ込め政策である」というもので、冷戦終結までの基本戦略となった。

 米ソの対立はまず赤軍のイラン駐留で顕在化した。つづくマーシャル・プランは欧州復興の大規模援助により、共産化を防ぐものだった。チェコスロヴァキアスターリンの工作によってソ連の支配下におさまった。この際、外相ジャン・マサリクは殺害された。ユーゴスラヴィアの場合、戦時中も主導権を握っていたティトーがソ連の衛星になることを拒んだため、対立した。米国はこれを見てすかさずティトーを援助した。一九四九年までにベルリンの壁建設が進行し、米ソ対立は明白となった。

 一九四九年、ソ連は原爆開発に成功する。マンハッタン計画ソ連のスパイが潜んでいたことが後にわかった。スパイ合戦に恐慌をきたした米国では赤狩りがおこる。同年中華人民共和国が成立すると、米ソはティトーにつづく例になるのではと予測したがはずれた。毛沢東ソ連との協調を唱え、スターリンは喜んだ。

 朝鮮の米ソ占領は偶発的なものだった。ソ連は対日参戦のため、米国は本土上陸のためにそれぞれ朝鮮に軍を駐留させていたが、終戦を迎えると38度線を境に分割がはじまる。ソ連の許可が出たことで、北朝鮮金日成は韓国に侵略を開始する。アメリカは国連軍の名目で韓国を支援するが、一時は南端にまで追い詰められる。マッカーサーのInChong上陸によって巻き返すが、まもなく中国が「義勇軍派遣」をおこなう。

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 救命艇と死の舟

 とくに核兵器の生み出した影響について。

 中国の人海戦術で戦況は一変した。マッカーサーNATOの許可を得ず独断で原爆投下の命令を出すが、トゥルーマンに止められる。その後朝鮮戦争は限定戦争となり、一九五三年までつづいた。境界線はほとんど変わらなかった。

 核は大量の兵隊を駐留させるよりも安価だったので、ソ連のヨーロッパ駐留軍に対抗するためには不可欠だった。しかし、お互いに戦力を秘密にする以上、軍拡競争がはじまるのは必死だった。

 トゥルーマンは凡人といわれるが、核を発明してそれを使わなかったという点で功績がある。核以前に使われなくなったものは、能力に問題がある毒ガスだけだった。クラウゼヴィッツは「戦争は政治の延長である」と説いたが、トゥルーマンはこのクラウゼヴィッツの「文民統制」に回帰した人間というべきである。戦争の際にある武器を使うか使わないかを決めるのはこれまで参謀の仕事だったが、原爆が生まれるとトゥルーマンがその使用・不使用を定めるようになった。

 一方、スターリンたちは、「米国民は核を用いるような大統領を選ばないだろう」と考えていた。米ソ両国とも、核の使用は実際にはありえないはずだと予測していたことになる。

 最近の研究から、朝鮮戦争において米ソの戦闘があったことが明らかになっている。ソ連戦闘機と米国戦闘機が交戦したが、両国とも問題が大きくなるのを恐れ事実を隠した。

 米ではアイゼンハワーが大統領につき、ソ連ではスターリンに代わりマレンコフが総書記になる。アイゼンハワークラウゼヴィッツ主義者だが、常に「戦争の際は核を使う」と主張した。彼は、このことによって戦争自体を回避しようと意図したのだった。

 一九五七年スプートニク打ち上げに成功し、また労働者出身のニキータ・フルシチョフソ連のリーダーとなる。彼は自国のミサイル配備の規模を誇張した。一九五六年、ハンガリー動乱がおこり、またアメリカに相談することなく、英仏イスラエルがナセルに対抗してスエズ運河を封鎖する。フルシチョフもまた戦争回避、「平和共存」を是とした。一九五九年彼はアメリカを訪問する。

 一九五六年七月、米国の偵察機U2ソ連上空から写真撮影を行った結果、フルシチョフの主張する軍備より大幅に少ないことが判明した。フルシチョフは対策として地対空ミサイルを強化し、一九六〇年、二回目のU2を撃墜した。

 六二年のキューバ危機に見られる、フルシチョフの攻撃的なミサイル配備は、彼の秘密政策が失敗したためにおこなわれたのではないかと歴史家は推測している。この危機は、核兵器が戦争のみならず世界の様相を根本的に変えてしまったことを示した。

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 指令対自発性

 東西双方のイデオロギーおよび米ソの他国支配政策について。

 マルクスレーニン主義も、ウィルソンの理想主義も、双方とも希望に基づいている。希望のために人びとはイデオロギーをもつのである。カーの"20 years' crisis" では批判されていたウィルソンだが、今日では民主主義に基づいた集団安全保障の提唱者として、レーニンとは対極の評価を得ている。

 トゥルーマンは戦後処理の際、対共産主義とは言わず「民主主義対権威主義」という言葉を使った。彼のドクトリンとつづくマーシャル・プランによって、民主主義、産業資本主義の復興がおこなわれた。

 社会主義と民主主義的資本主義との差は、恐怖をその運営のために用いたかどうかである、と著者は述べている。自発的に発生するとおもわれたプロレタリア革命が、願望に基づいていることがわかると、スターリンは自ら手をふるって衛星国を支配するようになった。衛星国や敗戦国にたいしての振る舞いは、彼が国内で行ったことの延長にすぎない。

 アメリカが自発性に基づいて西側諸国を援助し、ソ連が恐怖と抑圧に基づいて諸国を支配した、と対比させているが、アメリカが本当に自発性を促していたかどうかは疑問が残る。

 スターリンの死後ベリヤらが後継者となるが、まもなくフルシチョフの工作により逮捕され、銃殺される。ベリヤはスターリン体制の担い手であり、連続殺人者およびレイパーであると酷評されているが、彼自身はスターリンの築いた制度のいくつかを打破しようと試みていた。

 ※東ドイツの初代首相はウルブリヒト。

 フルシチョフはつづいてマレンコフとモロトフを追放し、ソ連のリーダーとなった。彼は共産主義を信奉し、共産主義を守るためにスターリンを批判した(一九五六年)。

 彼は本質的にスターリンと異なり人間的だったので、先代のときおこなわれた悪行をスターリンにかぶせようとしたのだった。ほとんどの共産国はフルシチョフの発言に動揺し、ハンガリーではソ連そのものに対する動乱がおこった。フルシチョフはこれを制圧するためにスターリニズムに頼らざるを得なかった。このことから、共産主義社会主義スターリニズムが不可分のものであることがわかる。

 個人崇拝に基づいた支配体制を進めていた毛沢東もフルシチョフを批判した。毛は大躍進政策によって、二〇世紀の大厄災の記録を更新した。このことは中国の秘密主義のためほとんど明らかにならなかった。

 共産主義の矛盾はベルリンにおいてもっとも明らかだった。西ドイツとの格差を目の当たりにして、東ドイツから大量の移民が発生した。駐独大使ミコヤンは、共産主義はドイツで勝利しなければならないはずだと危惧した。フルシチョフは六一年、ベルリンの壁を築き、西側への経路を封じることでこの問題を処理した。

 ホブズボームは最後のマルクス主義歴史家だが、彼は終戦直後を黄金時代と定義した。その後資本主義は栄え、マルクスの理論ははずれた。

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 自治の発生

 おもに第三世界非同盟諸国について

 戦後、脱植民地化がはじまったが、冷戦においてこれが重要な意味をもつのは朝鮮戦争後である。アイゼンハワーの「ドミノ理論」が示すように、米国にとって韓国の保護は重大な意味をもった。

 非同盟諸国とはインドや中国、ユーゴスラヴィアを指すが、もっとも効果的な振る舞いをしたのがナセル率いるエジプトである。米ソは中台対立や朝鮮対立、東西ドイツをめぐって争ったが、核を使うこともできず、かといって撤退することもできない状況に、双方とも追い込まれた。二極支配には限界があり、すべての国の行動を操ることは不可能だと判明した。

 米ソにとってもっとも厄介だったのはフランスと中国である。自由フランスの盟主ドゴールは第五共和政を発足させると、これまで援助を受けていたアメリカにたいし、手のひらを返して自国の増強をはじめた。彼はNATOを信用せず、単独で核実験をおこない、中国に接近した。一方の中国は、成立まもなくソ連と齟齬をきたすようになった。毛沢東はあるときはスターリンを擁護し、あるときはスターリンの行動を指してソ連を指弾した。中国やフランスにはかつてのような侵略の恐怖がなかったため、大国のあいだで綱渡りを演じることができたのだった。

 中ソが一九六九年局地戦をはじめると、両国の維持を望むアメリカは中国に接近する。一九七二年、ニクソン訪中が達成される。一方ソ連は動揺し、また衛星国への介入もうまくいかなかった。

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 平等の復興

 ウォーターゲート事件によって、数々の訪中やベトナム撤退など功績を立てたにもかかわらずニクソンは辞職に追い込まれる。このことは、冷戦においても、最低限の人間的ふるまいが為政者に必要とされる段階に達したことを意味する。目的が手段を正当化する時代はおわった。

 冷戦初期、アメリカはCIAを設置し、世界各地で隠密行動や工作活動を展開する。アメリカが正直であることをやめ、大統領がマキャヴェリ主義者になったはじまりだった。CIAは各国の反共勢力を助け、左翼政府を転覆させる。キューバやイランでの工作によって、アメリカの関与のうわさが早くも南米や中東で広まりだす。

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 役者

 ブレジネフの時代からはじまったデタントは実際にはなにもなさなかった。東西冷戦の現状維持を認めることで、かえって第三世界での紛争は進行した。法王パウロはポーランド出身だが、彼の存在はポーランド国民を励ました。彼は聡明であり、その発言はソ連でさえもさえぎることができなかった。

 中東やアフリカで次々と反米政権が誕生することで、ソ連は味方を得たと考えた。一方、エジプトは駐留ソ連軍を追い出しサダトが親米主義をとった。アフガニスタンでは親米政権を覆すクーデターがおこる。成立した反米政権を維持するためにソ連は派兵する。ソマリアとエチオピアの戦争においてもソ連は介入をおこなう。

 SALT(Strategic Arms Limitation Talks)は不完全であり、情勢はソ連に有利に進んでいるようにおもわれた。合衆国はデタントの実体に不満を抱いていた。

 法王パウロのように、役者はおもわぬところから登場する。中国においてあらたにリーダーとなった鄧小平は改革・開放を推進し、ソ連と比較にならぬ経済成長を達成させた。一方サッチャーもそれまでの社会民主主義を批判し、より新自由主義的な政策を推し進めた。レーガンは著者によればかつてない賢い戦略的大統領であり、デタントを「共産主義と核戦争という人類への恐怖を維持させるもの」にすぎないと非難し、強攻策を進めた。

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 希望の勝利

 著者はレーガンのSDI(戦略防衛構想、通称スターウォーズ)や、反デタント政策を高く評価し、これらが西側の勝利につながったと考えている。

 レーガンは米大統領唯一の核廃絶主義者だった。

 パウロ二世とレーガンの暗殺未遂が同時に起こり、大統領は父ブッシュに変わる。一方ブレジネフも去り、後任のアンドロポフは病気ですぐに死ぬ。替わって総書記についたのがゴルバチョフである。

 ゴルバチョフはなにもしないことによってソ連解体を推進した。ソ連はもはや軍事力を行使することができなくなっていた。一九八九年、ハンガリーは動乱の国葬の際、オーストリアとの境界の壁を廃止する決定を表明する。東独はこれをソ連に言いつけたが、ソ連はなにもできないと返事した。脱共産主義ポーランド、東ドイツでもつづく。一方、この波に乗るかとおもわれた中国では天安門事件がおこる。

 ゴルバチョフ社会主義を守りたかったが、武力を使いたくなかった。この二つは不可分だったので、結果的に彼はソ連を解体してしまった。ほかの指導者と異なり、ゴルバチョフには方向性がなかった。しかしそのために平和的に冷戦を終わらせることができたのである。クーデターを打ち壊し、ソ連解体を表明したエリツィンが、やがてロシア大統領となる。

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 大国間の戦争が以前より非現実的になったこと、軍事力=影響力でなくなったこと、情報における透明度が上がったこと、独裁がいまだなくならないこと、民主化が進行したことなど、冷戦の残した影響をまとめておわる。

 あくまで冷戦をおおまかになぞった本であり、より細かい内容は別の本にあたらなければならない。

 

 

The Cold War: A New History

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