うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『島原の乱』神田千里

 著者によれば、飢饉と苛政に対する抵抗として、きりしたんが立ちあがったという「島原の乱」の解釈は一面的である。同様に、一部の不平牢人が天草四郎をかかげて蜂起した、という見方も、乱の全貌を説明できていない。島原の乱は現代からは想像しにくい宗教的な反乱であり、われわれが考える以上に信仰が深くかかわっている。

 戦国時代には、島原および天草はきりしたん大名有馬晴信の領地であり、大名の統制のもとキリスト教への帰依が推奨されていた。民衆はほとんどきりしたんとなり、大名のもといくさに参加した。やがてキリスト教が弾圧されるようになると、領民の大部分は棄教した。

 徳川政権が生まれてまもなく、島原および天草地方を飢饉がおそい、同時に領主はきびしい取り立てをおこなった。領民たちがきりしたん大名の支配下で生活していたとき、「信仰を捨てるものはわざわいに襲われる、この世の終わりでさばかれる」という教義を司祭や宣教師たちが説いてまわっていた。幕府から派遣されたあたらしい領主のもとで、この教えが百姓たちの頭によぎり、きりしたん信仰の再興を求めて蜂起した、というのが著者の考えである。

 審判の日にさばかれる、という終末的なことばとともに、「おさない子供、天使、神の使いがあらわれる」という予言も広まっていた。有馬家家臣の子供である天草四郎が、その天使として祭り上げられたのも、こうした信仰が背景にあったからである。

 『一揆』という本に書いてあったように、当時の農民は強力な力を持っており、「一揆」というかたちで団結し、戦乱における重要な単位として存在した。島原の乱はまず村々がきりしたんに「立ち返」り、藩にたいして反旗を翻すことからはじまった。村が一揆を組んできりしたんになるからには、村びとは全員したがわなければならない。このため嫌々ながらきりしたんとなり、乱に参加する者も多数いた。キリスト教への帰依を拒むものは、舟に乗って熊本方面に逃げた。

 戦国大名の軍隊は村を単位として編成されており、百姓の協力を得ることが不可欠であるばかりか、村一揆の支持を失えばみずからの基盤も危うくなった。きりしたんの村が役人を殺害して城にむかって侵攻をはじめたとき、領内の村は、城方につくか、一揆方につくかの判断を迫られた。一揆方は神仏を破壊し、となりの集落にきりしたんになることを迫った。当初、戦況は一揆方に有利に進み、きりしたん王国が生まれるかのようにおもわれた。

 近隣の藩からの援軍と、中央から派遣された松平信綱の指揮活動によって、一揆方は追いつめられ、最終的に原城にたてこもり殲滅させられる。このあいだ、一揆方からは落人が絶えず、また城方からきりしたんに寝返るものもいた。

 戦国時代および江戸初期の宗教観を検討すると、きりしたんとそれ以外の信仰がさほど異なっているわけではないことがわかる。戦国時代の人びとは、飢饉やいくさによって常に死にさらされており、この世ははかなかった。こうした環境では、天の摂理がすべてを支配する、という思想がみなの心を占めるようになる。著者はこれを「天道」信仰と呼んでいる。天道にかなうように公正な政治をすることで、国が守られる、という「神国思想」を、当時のほとんどの武将がもっていた。

 きりしたんと、在来の「日本宗」との違いは、この「天道」が、伊勢の神であるか、仏教であるか、もしくはでうすであるかの違いだった。

 きりしたん大名の大友宗麟は、軍事的な観点からきりしたんに帰依し、日向を攻めたときにはこの地の仏教施設を破壊し、ポルトガルの法律にのっとった都市を建設しようとこころみた。一見、異質にみえる行動だが、戦国時代にはどの大名も天道にのっとり、天道に奉仕することでみずからの国を繁栄させようと考えていたのである。

 よって、島原の乱は、戦国時代の一揆に大変よく似た構造をもっており、戦国時代の気風がまだ残っていた江戸開府期だからおこったといえる。従来の、悪どい役人と弱者をたすけるキリスト教という見方が、いかに一面的かがよくわかった。

 ほか、印象に残った点……きりしたんは独特の宗教観をもっており、たとえば現世利益を重視する一方で、来世をも重んじていた。ある村が蜂起に参加する際には、天国ですぐに再会できるから、と女子供を殺してからいくさに参加した。

 一揆方は、戦国時代を生き抜いた牢人たちが指揮官として動いていたため、城方ははじめかなりの苦戦を強いられ、板倉重政が戦死するという事態まで招いた。

 

島原の乱 (中公新書)

島原の乱 (中公新書)