うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『The Ghost of Freedom』Charles King その4

 ◆近代化からロシア革命を経て、ソ連の時代へ

 

 19世紀後半から始まったグルジア人のナショナリズムは、地方エリート、ブルジョワ・リベラルに分かれ、いずれも西洋からの影響が強かった。

 20世紀初頭、より過激な若者たちがマルクス主義から影響を受け、第3の派閥をつくった。かれらの多くはティフリスの神学校出身だった。

 ロシア化に対する抵抗という点で、グルジアナショナリズム社会主義運動との親和性が高かった。

 

 アゼルバイジャンの首都バクーは、ゾロアスター教徒天然ガスからのぼる火を崇めたのが起源である。

 19世紀には、外資による油井開発が進み栄えていた。カジノやクラブなどがつくられ、ムスリム文化も興隆した。

 一方で労働争議の頻発に併せて、ムスリムアルメニア人との対立が深刻化した。かれらはお互いにポグロムを行った。

 

 戦争の利用

 第1次世界大戦はコーカサスの民族紛争を激化させ、後々まで大きな爪痕を残した。

 クリミア戦争と1877年からの露土戦争によって、コーカサスはロシア支配が優勢となっていた。

 第1次大戦が始まると、ドイツはオスマン帝国と協調し、ロシアを攻撃しようとした。しかしオスマン帝国軍の攻勢は失敗したため、トルコ人たちは原因を敵対的な異教徒……アルメニア人、アッシリア人(Assyrian)に求めた。

 こうして、東アナトリアにおけるアルメニア人虐殺(アッシリア人も含む)が始まった。

 19世紀末から、オスマン皇帝の指示により、クルド人(Kurds)非正規兵やコーカサス部族がアルメニア人を虐殺していた。

 第1次世界大戦ではオスマン帝国軍もこれに加わった。大戦を通じて80万人から150万人のアルメニア人が殺害された。虐殺は処刑、強制移住等により行われた。

 一連のジェノサイドにより、アルメニア人はエレバン、シリア、イラク、ロシアに逃れ、一方、ロシア領やギリシアからはムスリムが逃げ出した。

 

 幻の共和国

 1917年の2月革命とその後の10月革命により、ロシアではボリシェヴィキ(Bolsheviks)政権が成立した。コーカサス社会主義者(多数はメンシェヴィキ(Mensheviks))によるトランスコーカサス政府は、ボリシェヴィキ政権に対立し独立を宣言した(ザカフカース民主連邦共和国Democratic Federal Republic of Caucasus)。

 レーニン(Lenin)らは、ブレスト・リトフスク条約によって、コーカサス領土をトルコに売り渡そうとしていたため、コーカサス共和国はトルコとの戦争を継続した。

 しかし、民族ごとの意見の違いにより1918年内に共和国はグルジアアルメニアアゼルバイジャンに分裂した。

 

・ノエ・ジョルダニア(Noe Zhordania)……メンシェヴィキグルジア民主共和国の創設メンバー

・ダシュナク党(Dashnak)……アルメニア革命連盟

・ミュサバト党(Musavat)……アゼルバイジャン共和国

 

 グルジア民主共和国では、メンシェヴィキが多数だったものの、権力は民族・宗派ごとに分裂していたため、統一の原動力とはならなかった。ボリシェヴィキは活発な地下活動を続けた。

 白軍のデニーキン(Denikin)将軍がグルジアを攻撃したため、共和国は国家予算の半分を使い、白軍、トルコ、ボリシェヴィキと戦わなければならなかった。

 グルジアでは一時期、穏健な社会主義政権が生まれた。アゼルバイジャンは民族対立がやまず、アルメニア人を中心としたボリシェヴィキムスリム政党を追放した。アルメニアでもボリシェヴィキが権力を掌握した。

 1921年までに3ヶ国ともボリシェヴィキに制圧され、ソ連に編入された。

 

 追放

 コーカサス諸国のナショナリストや活動家は亡命し、祖国奪還を目指したが成功しなかった。

 アゼルバイジャンアルメニアの国家意識は近代以降のものである。

 

 アルメニア人が元々、東アナトリア――トルコ人の虐殺等により追放された――に住んでいたのに対し、今日のアルメニア領土は、ムスリム住民が多数を占めていた。

 かれらは中世以来、商業に秀でており、国外で活躍してきた。
 亡命者たちは絶えず暗殺の危険にさらされた。メンシェヴィキたちもソ連の刺客によって多数が暗殺された。また、アルメニア人テロ組織は、1970年代、80年代にトルコに対しテロを行った。

 

 浄化

 スターリンはノエ・ジョルダニアより若干後に生まれた。

 スターリン自体には、コーカサス人という特性を想起させる要素はない。かれは友人や家族に対しても冷酷であり、責任感がなく、コーカサスに貢献しようともしなかった。

 かれはコーカサスには民族自決を適用せず、ロシア帝国と同様に分割統治を行い、共産党員を総督として据えた。

 ソ連の歴史において、民族問題は矛盾をはらんでいる。それは、同化と民族意識の発揚が並存する歴史である。

 民族分布に基づかない分割は、ソ連崩壊後に致命的な紛争・対立を引き起こした(ナゴルノ=カラバフ、ナヒチェヴァン、アブハジア南オセチア)。

 

 1930年代の粛清に加担したラヴレンチー・ベリヤ(Lavrenti Beria)は、グルジア出身の少数民族ミングレル人(Mingrelian)であり、スターリンを賛美することで出世した。

 かれはグルジア共産党指導者となり、大多数の政治的ライバルや地方エリート、社会主義者を抹殺した。かれの個人的寵愛を受けた共産党員も、同様に政敵を抹殺した。

 [つづく]

 

The Ghost of Freedom: A History of the Caucasus

The Ghost of Freedom: A History of the Caucasus

 

 

『The Ghost of Freedom』Charles King その3

 イマーム(Imam)と総督(Viceroy)

 アヴァール人の王族、ガジ・ムハンマドの子孫であるシャミール(Shamil)は、ダゲスタン・チェチェンにおいて、ロシアに対し長期の抵抗戦を行った。

 シャミールはイマームを名乗り、スーフィー教団を基盤として、蜂起した。しかし、かれの影響力は限定的である。敵対する部族や、シーア派、ロシアに帰順する人びとは、シャミールには従わなかった。

 

 1820年代、ノヴォロシア(New Russia, 黒海沿岸部)の総督(Governer-General)を務めたヴォロンツォフ(Vorontsov)将軍が、1844年、コーカサス副王(Viceroy)に任命された。

 かれは組織的なシャミール軍鎮圧作戦を行った。ティフリスを基盤に、対反乱作戦(Counter Insurgency)を行うとともに、コーカサスのインフラ整備、文明化を行った。諸部族をうまく懐柔し、シャミールの切り崩しを狙った。

・シャミールはオスマン帝国に支援を求めたが成果はなかった。

・1854年、クリミア戦争(Crimean War)が始まり、ヴォロンツォフの戦力は縮減された。オスマン帝国の弱体ぶりが目につき、コーカサスの反乱には寄与しなかった。

・シャミールは1859年に降伏し、モスクワで余生を送った。かれはコーカサスの英雄として伝説となったが、以後も、山岳部族の抵抗が終わったわけではなかった。

 

 残る部族

・北西部のチェルケス人たちは独立心が強く、オスマン帝国からロシアに領土が移譲された後も、支配者に対し抵抗を続けた。

・イギリスはグレート・ゲームの一環からチェルケス人たちの支援を目論んだ。

 ロシアによるチェルケス人の強制移住により、多数の山岳部族が黒海沿岸、東アナトリア(Anatolia)に移った。その過程で大量死や、虐殺が発生した。

・戦争相ミリューチン(Milyutin)、コーカサス総督バリアチンスキー(Baryatinsky)。

 

  ***

 3 想像のコーカサス

 コーカサスがロシアや欧州諸国に与えた文化的影響について言及する章。

 

 高地人(the Highlander)の創出

・18世紀、サンクトペテルブルクを出発した2人のドイツ人……ギュルテンシュタット(Guldenstadt)とクラップロート(Klaproth)はコーカサスの研究を出版した。ギュルテンシュタットの研究は、チェチェン、ダゲスタン、カバルダ等の地名と領域を後世に残した。

・ロシア人ブロネフスキ(Bronevskii)は、1823年、様々な研究をまとめ、ロシア人向けの地理学誌を出版した。その著作はコーカサスのイメージに影響を与えた。

 囚人、余計者(Superfluous Men)、陰気者(Mopingers)

・19世紀になり、ロシア、西欧から多くの旅行者がコーカサス地方を訪れた。ピャチゴルスク(Pyatigorsk)は温泉として人気を集めた。

プーシキン(Pushikin)の「コーカサスのとりこ」について。

レールモントフトルストイの描くコーカサス

 ティフリスへの護送(Convoy)

 1820年には、ピャチゴルスク北コーカサスの一部は温泉として栄え、またティフリスへ向かうグルジア軍道(Georgian military highway)沿いには、友好的なオセチア人らが住まわされ、危険が除去された。

・テレク川(Terek River)沿いのモズドク(Mozdok)要塞……現在の北オセチア(North Ossetia)北部にある。

 

 戦争が行われる一方、コーカサスの一部は観光地、安全な道路に変貌した。

 19世紀末には鉄道が敷かれ、野蛮な部族の跋扈する危険な地帯というイメージは徐々に失われたものとなった。

 

 「高地から得られるものがある」

 コーカサスの山々……エルブルス(Elbrus)、ウシュバ(Ushba)、シハラ(Shkhara)、カズベキ(Kazbek)と、登山家について。

 イギリスの登山クラブによる山の踏破と、遭難事故について(Victorian Alpine Club)。

 

 エロスとチェルケス人

 特にチェルケス人は、性的なイメージの象徴として扱われることが多かった。

 「アラビアのロレンス」でロレンスをレイプするトルコ人は、かれに「チェルケス人か」と尋ねている。

 19世紀後半には、コーカサス地方の研究や理解が深まり、「高地人」というくくりは消滅した。

  ***

 

 4 国家と革命

 バザール(Bazaar)と新興都市(Boomtown)

 コーカサスは3つの帝国の緩衝地帯にあり、地形により分断されていたため、大都市が生まれなかった。

 今日の都市のほとんどは、ロシア帝国の前哨基地である(ウラジカフカス、グロズヌイ等)。

 例外的に古くから発展した都市が、ティフリス、バクー(Baku)である。ティフリスはロシア帝国の行政の中心として、バクーは油井開発によって急成長した。

 ティフリスにはロシア帝国領から様々な民族が移住し、人口は激増した。特に、人口比では3位のアルメニア人が経済的な覇権を握った。

 

 [つづく]

 

The Ghost of Freedom: A History of the Caucasus

The Ghost of Freedom: A History of the Caucasus

 

 

『The Ghost of Freedom』Charles King その2

 防衛線(the Line)での生活

 

・19世紀初頭までのロシアの辺境統治政策は、コサックを住まわせ砦を拠点として防衛させるというものだった(防衛線政策)。

・実際には、コサックたちは辺境の民、山岳部族(the Mountaineers, the Highlanders)と交流していた。

 戦闘のあった次の日には、チェルケス人が砦のなかをうろつく風景が見られた。

・コサックと部族たちは、宗教、言語、習俗の点で交わり、また結婚や脱走(Desertion)による移動もあった。かれらを明確に区別するのは難しかった。

・加えて、ロシア兵たちもコサック、コーカサス人と交流し、国境に溶け込んでいった。

 

 「エルモーロフが来る!」

・エルモーロフ将軍(Aleksey Petrovich Yermolov)は無慈悲で容赦ない征服者として有名である。

 かれはコーカサス戦争を指揮し、文明化という名の虐殺、破壊、追放(Deportation)……一連の国家テロを遂行した。

・かれは1816年、グルジア行政長官に任命された。近代兵器を使いコーカサス征服を行い、1818年に前進基地グロズヌイ(Groznyi, 恐怖)を建造した。その後も砦の建設を続けた。

・かれは砦を越えてさらにコサックを前進させる作戦をとった。

・全面的な征服のため、暗殺、誘拐、強制移住、虐殺といった手段が用いられた。

 

 ――エルモーロフは次のように反論した。情けは弱さのしるしととられるだろう。ロシア軍は、あらゆる種類の残虐行為によってのみ、山のムスリムたちからの、尊敬のまなざしを得られるだろう。

 

・1820年代後半、ペルシアとの戦争、直後のオスマン帝国との戦争が行われた。しかし、エルモーロフは、1825年のデカブリストの乱(Decembrist revolt)への関与を疑われ、1827年、皇帝によって更迭されていた。代わって、パシュキエヴィチ(Ivan Paskevich)が戦争を指揮した。

・大国同士の戦争の間、コーカサスの諸民族たちも内紛に明け暮れ、ロシアに対して組織的な抵抗をしなかった。

 

 捕虜

・捕虜(Captive)はコーカサスにおける特徴的な風習である。

・諸民族は、身代金(ransom)や、抵抗の一環として捕虜をとった。コサックたちも、対抗するために捕虜をとった。

コーカサス人は捕虜や誘拐したロシア人を奴隷商人(Slave trader)に売り、資金を得た。奴隷は主にオスマン帝国で売買された。

コンスタンティノープル(Constantinople)には大きな奴隷市場があった。

オスマン帝国の野蛮な文化である点、また、コーカサス諸部族の資金源になっている点から、ロシアは奴隷制に反対した。

ロシア海軍黒海沿岸をパトロールし、奴隷船を見つけては拿捕した。しかし、奴隷たちは故郷へは帰れず、シベリア(Siberia)へ送られたり、売春宿へ送られたりした。

 このため、「ロシア人によって自由の身になるより、オスマン帝国や富豪の家で奴隷になるほうがいい」という言葉もささやかれた。

コーカサスの女性のなかには、山での貧困や飢えよりも、富豪や権力者の奴隷になることを望むものもあった。

・捕虜は改宗(Renegade)することもあれば、抵抗し、自分の信仰を守ることもあった。また、脱走を繰り返すもの、安楽に暮らすものとがいた。

 

  ***

 2 支配と抵抗

 コーカサスイスラームは一様ではなく、近代以前には、宗教的な反乱はあまり例がない。西部はトルコ・スンニ派の、東部はペルシア・シーア派の影響が長く残った。また、北コーカサスにおいては、スーフィーが普及した。

 中世以来、ナクシュバンディ教団が政治的連帯の単位となり、18世紀には、政治的・軍事的活動に重点を置いたミュリディズム(Murid)がチェチェン、ダゲスタンで広まった。

 

 ミュリディズム(Murid)

 18世紀後半の、マンスール(Mansur)によるミュリディズムを基盤とした反乱、1830年代、ガジ・ムハンマド(Ghazi Muhammad)の蜂起について。

 ガジはイマーム(Imam)を名乗ったが、その後継者は当時のアヴァーリスタン(Avaristan)の女王とその一族を殺害し権力を奪取したため、周辺部族から王位簒奪者とみなされ殺害された。

 イスラームにおける部族同士の戦いは、常に皆殺し・無差別殺戮(Fratricide)を伴った。

 

 襲撃と報復

 ロシアによる侵略には3つの方法があった。

・懲罰作戦……敵を殺害する。要塞への襲撃に対する反撃、報復。

・集落の襲撃……村を焼き、畑を破壊し、家畜や作物を奪うか破壊する。これは住民を敵に回すことが多かった。しかし、山岳部族たちも、お互いに、敵対する部族や集落に対して同様のことを行った。

・地形作戦……ロシアの新しい作戦として実行された。森を焼き、茂みを焼き払い、道路をつくる。これによりコーカサス人たちの地の利を奪う。

 ロシア遠征隊の編成……前後に軽野砲、中央に兵站、重砲、周囲に歩兵、さらに分散し狙撃手がつく。

 コサックやコーカサスの戦士に比べ、ロシアの正規軍は、赤色の目立つ軍服を着ており、格好の標的となった。

 [つづく]

 

The Ghost of Freedom: A History of the Caucasus

The Ghost of Freedom: A History of the Caucasus

 

 

『The Ghost of Freedom』Charles King その1

 ◆紹介

 政治権力、民族、宗教、言語が複雑に入り乱れるコーカサス地方について、歴史をたどりながら概説する。

 歴史上のエピソードや、各民族ごとの違いなどが書かれており、コーカサス世界の多様性を知ることができる。

 以前ジョージア共和国を旅行したときは、この本で身に着けた事前知識が参考になった。スヴァン人――あまりに僻地に住んでいたために、チェチェン人やダゲスタン人よりも後代、最後にロシアに降伏した――の居住地域にも行くことができた。

 いずれ北コーカサスにも行ってみたいという気持ちが強くなった。

 

 著者のチャールズ・キングはアーカンソー出身の国際関係学者で、オックスフォード大で博士号を取得した。現在はジョージタウン大学の教授である。コーカサスや東欧情勢に関連してニュース番組やヒストリー・チャンネルに出演することがあるという。

 

 ◆コーカサスの民族分布

File:Caucasus-ethnic ja.svg - Wikimedia Commons

 

  ***

 概観

 

・北西部、クバーニ川流域(Kuban)にはアディガ(Adyga)またはチェルケス(Circassian)と呼ばれる農耕牧畜民が、トルコ人とともに住んでいた。かれらは概ねイスラム化された。

コーカサスの中央に南北オセチア(Ossetia)がある。オセット人は、ロシア帝国によって、イスラム教徒との緩衝にされたキリスト教徒である。

・その東方に、チェチェン人(Chechenya)、イングーシ人(Ingushi)が住んでいた。かれらはイスラムと折衷主義、またスーフィズム(Sufi)を信仰した。

・スヴァン人(the Svans)やカハル人(the Khevsureti)は、チェチェン人よりも強硬な抵抗を続けた。

・19世紀の反乱の中心は、チェチェン東方のダゲスタン(Dagestan)である。

・ダゲスタンの南にアゼルバイジャン(Azerbaijan)があり、ペルシア隷下のハーン(the Khanates)たちによって統治されていた。

アゼルバイジャンの西は、カルトヴェリ語(Kartveli)を話す人々……グルジア人(Georgian)、ミングレル(Mingrelian)人、スヴァン人、ラズ人(Raz)の土地である。

・中世グルジアの王国……東部のカヘティ(Kakheti)、中部のカルトリ(Kartuli)、西部のイメレティ(Imereti)

グルジアの南にアルメニア(Armenia)がある。

コーカサスの人びとは、ロシア帝国のコサック(Cossack)たちとも混交した。

 

 文化、生活様式、言語、宗教など、あらゆるアイデンティティは流動的である。

・地理的には、南北よりも東西の分断の方が大きい。ロシア帝国の進入以前は、西部はトルコの、東部はアラブとペルシアの影響下にあった。

ナショナリズム国民意識の変動……アルメニア人はオスマン帝国内でも最も特権的なキリスト教徒だったが、19世紀末以降の虐殺を経て、共和国として独立した。

グルジアという領域は中世以後消滅していたが、やがて統一した国家として復活した。

アゼルバイジャンという名は20世紀までアイデンティティとして認識されていなかった。

・チェルケス人はいまはロシアに忠実だが、チェチェン人は今日、もっとも血塗られた闘争を展開している。

・ロシアに帰属し、スターリンら多くの政治家を輩出したグルジアは、いまは反露国家である。

アゼルバイジャンシーア派(Shia)だがトルコとは友好的である。正教国家アルメニアもまたイランと友好関係にある。

・アジアの3つの帝国……ロシア、トルコ、ペルシアがコーカサスの政治を支配した。

・多くのロシア人、ヨーロッパ人芸術家・学者たちが、コーカサスに関心を持った。

 

  ***

 1 帝国と境界

 帝国の夢

・前近代において、国境は地図のような明確な線を持っていなかった。

 領土とは、橋や川、峠などの要衝であり、支配者は外国人の侵入ではなく、領民の流出を警戒した。

・18世紀には、ペルシアの影響力が弱まった。それまではトルコが力を持っていたが、16世紀以降、ロシアが強大化しつつあった。

・18世紀……ペルシアはサファヴィー朝(Safavd)からカージャール朝(Qajar)へ

・1801年、ロシアのアレクサンドル1世(Alexander 1)がグルジアを併合すると、各地で反乱がおきた。しかし併合は進み、1810年代にはグルジアアルメニアがロシア領となった。ロシアはウラジカフカス(Vladikavkaz)からティフリス(Tiflis)までをつなぐグルジア軍道を整備し、ペルシアと、その背後にいるイギリスに備えた。

・ロシア、トルコ、ペルシアの戦争

 

 王とハーン(Khan)

コーカサスには多数の王、ハーン、地方ボスが割拠していた。

北コーカサスの人びとは、生活様式、衣服、慣習では共通点を持っていた。しかし、部族社会にはそれぞれ相違点がある……ダゲスタンはイスラームであり、チェチェンアブハジア(Abkhaz)は伝統的なアニミズムの要素を保持していた。

・社会構造の違いが、ロシアの征服戦争に大きく影響した。

 カバルダ(Kabardian)やグルジアには、中央集権的な権力者が存在した。一方、ダゲスタンの支配者の力は弱く、またアヴァール(Avar)やチェルケス、チェチェンでは、権力は分散していた。

・封建構造の強い地域では、ロシアの侵略は、中枢を抑えることでうまくいった。ロシアの貴族制度は柔軟であり、占領した諸国の貴族階級をうまく吸収することができた。

 一方、分散した権力構造の地域、部族社会では、全方位にわたって制圧をしなければならなかった。

 [つづく]

 

The Ghost of Freedom: A History of the Caucasus

The Ghost of Freedom: A History of the Caucasus