17 さまよえるコデックス
たとひわれ死のかげの谷を農王系 - 17 さまよえるコデックス
たとひわれ死のかげの谷を農王系
あらすじ……
石英の星の下に生まれたわたし、ナーナーが農王系に拉致され、教育戦を指揮し、敵を亡ぼす物語
たとひわれ死のかげの谷をあゆむとも禍害(わざはひ)をおそれじ
コデックスとともにあり
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たとひわれ死のかげの谷を農王系
あらすじ……
石英の星の下に生まれたわたし、ナーナーが農王系に拉致され、教育戦を指揮し、敵を亡ぼす物語
たとひわれ死のかげの谷をあゆむとも禍害(わざはひ)をおそれじ
コデックスとともにあり
4 戦後国家の様々な実験
チトーの社会主義は自主管理・非同盟・連邦制を特徴とする。
チトーの政策が最終的にユーゴ解体に至った原因について。
・連邦制の下、民族の平等が唱えられたが、あくまで理念であり紛争の種は残った。
・土地改革……対独協力者からの接収
・企業の国有化
48年、ソ連は、ユーゴをコミンフォルム(共産党・労働者党情報局)から追放した。これは、ソ連の方針にチトーらが従わなかったことが原因である。
ユーゴは労働者自主管理・非同盟を軸に独自の社会主義建設を始めた。東欧圏からの追放を受けて、ユーゴはアジア・アフリカ諸国との関係構築に努めた。
スターリン死後の雪解け時代には、ソ連との国交正常化が行われた(53年)。
60年代、経済自由化が地域・民族ごとの格差を深めた。また、秘密警察トップのセルビア人ランコヴィッチが失脚したことで、民族運動が活発化した。
・74年憲法による国家連邦体制
5 連邦解体
80年チトーが死亡し、以後、国家の分裂解体が進行した。
・セルビア共和国コソヴォ自治州において、住民の多数を占めるアルバニア人の暴動が発生した。
・ミロシェヴィッチはセルビア人の不満を吸い上げる形で台頭し、連邦制強化を目指した。コソヴォ問題は深刻化し、死者を伴う暴動や抗争が多発した。
・経済的に発展したスロヴェニアは、セルビアの統治に不満を持ち、コソヴォを支援し、独立を主張した。
91年、スロヴェニアとクロアチアがそれぞれ独立(自立)宣言を行った。
――……ユーゴ解体の引き金となったスロヴェニア、クロアチア両共和国の「独立宣言」は実際には、連邦あるいはセルビア共和国による民族的な抑圧が加えられた結果ではなく、むしろ自己の利益を優先させる先進共和国ゆえの経済的な要因が大きく作用したとものといえる。南北格差による経済的利害に民族自決が絡んでの連邦解体であった。
6 内戦の展開
スロヴェニア、クロアチアで共和国軍とユーゴ連邦人民軍との戦闘が発生した。スロヴェニアは91年6月には勝利し、独立を獲得した。
クロアチアにはセルビア人が住んでいたため、これが内戦長期化の原因となった。
92年、ボスニアヘルツェゴビナが独立すると同時に内戦が勃発した。
ドイツが、クロアチア独立を承認したことが、紛争を激化させた。
内戦の原因……マスメディアのプロパガンダ、政治指導者の政治戦略、当局による恐怖心の扇動と身近な人の逮捕、武力衝突。
ユーゴ時代から、国民全体での防衛体制が敷かれており、また各共和国や自治州に地域警察が整備されていたことが、民族集団の武装化を早めた。
ボスニア内戦におけるセルビア人勢力の指揮官は、ボスニア連邦人民軍のムラジッチである。ムラジッチは、ミロシェヴィッチの直接指揮下にあったわけではないが、マスメディアの報道によって、ミロシェヴィッチが侵略者であるという構図が作られた。
実際には内戦末期の段階で、ミロシェヴィッチはボスニア・セルビア人を制御できなくなっていた。カラジッチらは、和平をするよう促すミロシェヴィッチに対し、反旗を翻した。
(『Yugoslavia:Death of Nation』いわく「おもちゃが勝手に動き出した」)。
こうしたイメージ戦略は、クロアチアとバチカンによる影響が大きいという。
国際社会の動き……
・アメリカは国連の中心となりPKF、国連保護軍派遣等を行った。
・政治的解決を図る国連と、軍事的解決を図るNATOとの間で見解の相違が生じた。
・95年11月、アメリカの圧力のもと、領土分割と停戦を定めた「デイトン合意」により内戦が終結した。
・NATO中心の平和実施部隊が停戦監視を担当した。
終章
――……ユーゴ内戦が始まる時期も、始まってからも、「現地主義」に徹する姿勢が見られず、旧ユーゴに常駐するわが国の新聞記者がいなかったことによる部分が大きい。その結果、事実関係を十分に検証することができないままに、欧米諸国の政策に基づく情報操作や、通信社の流すニュースに全面的に依拠せざるを得なかったように思われる。アメリカ主導のもとに形成された「セルビア悪玉論」はその典型であった。
◆メモ
本書では詳しく言及されていないが、合衆国は当初内戦介入に消極的だった。また、デイトン合意により強制的にボスニアを二分割したことで「やったもの勝ち」の結果が生じた。
各地の追放行為や虐殺は、武装の不足した民族や集落が標的になった。なぜそのような不均衡が起こったかといえば、各地域で軍・警察を掌握する民族が偏っていたからである。
ユーゴ人民軍は実質セルビア軍となり、また混住地域では、軍・警察を掌握する民族が民間人迫害に加担した。
内戦の根本的な原因は、本土防衛のために武器を偏在させていたことにある。
武力を一機関(国軍)に独占させるのか、それとも民兵制・民間防衛のために分散させるのか……どちらにも致命的な問題点がある。
また、このような地域に対して、当事者たちに非武装を促すことはわたしには不可能である。
ユーゴスラヴィアとは「南スラヴ」の意味である。
ユーゴの歴史は、第1のユーゴ(1918年の成立からナチスドイツによる占領まで)と、第2のユーゴ(1945年の成立から92年の解体まで)とに分かれる。
ユーゴは、東西キリスト教圏の境目であり、またハプスブルク帝国とオスマン帝国との境目でもあった。
***
1 南スラヴ諸地域の近代
ユーゴは2つの帝国の支配を受けたが、どちらも、各民族ごとの自治を認める「柔らかい専制」であり、現代にいたるまで民族意識が保持された。
・オスマンからハプスブルクへ……ボスニア・ヘルツェゴビナ
1804年、ナポレオン戦争のさなか、オスマンの傭兵集団であるイェニチェリに対しセルビア人が蜂起した(第1次セルビア蜂起)。
その後1815年の第2次蜂起を経て、1830年にセルビア公国として自治権を獲得し、領土拡張を進めた。
モンテネグロはセルビアと分裂し、小さな山岳国としてオスマン帝国に抵抗した。1878年ベルリン条約により自治権を獲得した。
マケドニアは複雑な民族構成のために国家としての意識が芽生えず、セルビア、ブルガリア、ギリシアが、領有を主張する「東方問題」の焦点となった。1913年の第2次バルカン戦争により三分割された。
クロアチア……ハンガリー統治下にあったが16世紀にハプスブルク傘下に移った。このとき、東部スラヴォニアやアドリア海沿岸のダルマチア地方が、対オスマン防衛の拠点化された。
この地に国境警備兵として入植したセルビア人は、後代まで居住を続けた。
スロヴェニアは独自の国家を持たず、初めは神聖ローマ帝国の、次はハプスブルク帝国の領土(クライン州、ケルンテン州、シュタイアーマルク州)であり続けた。
12世紀後半、中世ボスニア王国が成立し、ボスニア人としての意識が生まれた。
15世紀にオスマン帝国に支配されたとき、多くのボスニア人がイスラームに改宗した。
1875年、キリスト教農民がムスリム地主に対し蜂起したことがきっかけに、露土戦争が始まった。オスマン帝国は大敗し、1878年、ベルリン条約によりボスニア・ヘルツェゴビナはハプスブルク帝国に移行した。
クロアチアにおいて、19世紀から20世紀初頭にかけて、反ハンガリー・南スラヴ独立を掲げるセルビア人・クロアチア人の協力政党が誕生した。こうした動きは、第1次世界大戦後のユーゴ独立の基盤となった。
2 ユーゴスラヴィアの形成
1913年、第2次バルカン紛争によってセルビア王国は南スラヴの旗手となった。セルビアは「大セルビア」実現のために領土拡張を目指した。
1918年、セルビア、クロアチア、スロヴェニアからなる王国が成立(29年にユーゴ王国と改称)。
ユーゴ王国は民族自決の原則のもと「南スラヴ人」という実在しない主体によってつくられた、擬制の国民国家だった。
1932年、ユーゴからのクロアチア独立を求めるファシスト団体「ウスタシャ」が結成された。以後、クロアチア問題はユーゴの課題となった。
3 パルチザン戦争
第2次世界大戦終結にともなう第2のユーゴ成立後、パルチザンは英雄として解釈されていた。
パルチザン戦争には、対占領軍ゲリラ戦、民族紛争、社会変革の3つの側面がある。
1941年、三国同盟に加入したパヴレ公に対し、新西欧派の軍がクーデタをおこした。6月、ドイツがユーゴに侵攻し、ユーゴはドイツ、イタリア、ハンガリーによって分割された。
ドイツと協力関係にあったクロアチアは、ボスニアを含む領土を手に入れて、ウスタシャ指導者パヴェリッチによる統治が始まった。
セルビアの民族主義団体チェトニクは、当初占領軍に抵抗したが、やがてドイツと協力し他民族との抗争を始めた。
英国とソ連は、チェトニクを支持しており、チェトニクに対し、パルチザンとの協力を差し控えるよう勧めた。ソ連とパルチザンとの関係は冷めており、それが戦後のユーゴ・ソ連対立の原因となった。
43年にはチトー率いるパルチザンが広範な支持を集め勢力を拡大するにいたり、英国もパルチザン支持を表明した。
・AVNOJ(ユーゴ人民解放反ファシスト会議)
[つづく]
7 クーデター前夜
馬子、聖徳太子が死亡後、推古天皇が死ぬと、後継者をめぐって抗争が起こった。馬子の息子蘇我蝦夷は田村皇子を立てて、皇子は舒明天皇となった。
8 改新断行
蝦夷の子である入鹿は傲慢な人間であり、山背大兄王を自害に追い込んで古人皇子を立てることで、権力を手に入れようとした。
しかし、朝廷はまだ氏族制が強く、各豪族の力がなくなったわけではなかった。
入鹿の横暴に反感を持った有力部族たちは、中臣鎌足(後の藤原鎌足)、中大兄皇子を中心にクーデタ計画を進めた。
かれらは刺客を送りこみ入鹿を殺害し、蝦夷を自殺に追い込んだ(大化の改新)。
中大兄皇子は皇太子となり、孝徳天皇の下、改新を実施した……中央集権化、公地公民制、改新の詔、難波への遷都。
・薄葬令……古墳時代の終焉
9 難波の都
難波長柄豊碕宮の所在地の特定について。
10 悲劇の皇子
孝徳天皇と中大兄は実権をめぐって不和になった。孝徳天皇の死後、子の有間皇子は即位できず、皇極上皇が再び即位し斉明天皇となった。
有間皇子が、不満分子を糾合する恐れがあると考えた中大兄は、使者を送り込み、皇子に謀反をそそのかした。罠にはまった有間皇子は捕らえられ、処刑された。
改新後、蝦夷(古代の読みは「えみし」)政策のため、主に日本海側を中心に「ぬたりの柵」、「磐舟の柵」が作られた。
粛慎(みしはせ)は、蝦夷とは別の種族である。
663年、百済救援軍は朝鮮半島に渡るが、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗北した。
12 額田女王と近江朝廷
天智天皇は近江(大津京)に遷都したが、間もなく荒廃してしまった。後継者である弟の大海人皇子とは協力していたものの、天智天皇には世継ぎがいなかった。
13 壬申の乱
後継をめぐって、天智天皇と大海人皇子の関係は悪化した。天智天皇には子である大友皇子がいたが、母の身分が低く継承者の可能性はあまりなかった。
やがて天智天皇は大友皇子を重んじるようになり、大海人皇子は先手を打って出家し、政治的野心がないことをアピールした。
天皇の死後、672年、大友皇子が即位すると、大海人皇子は吉野山から挙兵した(壬申の乱)。
14 「大君は神にましませば」
天武天皇の統治について。
・飛鳥浄御原宮への遷都
・大伴氏や藤原氏(不比等)を除く、畿内豪族の凋落と、天皇専制の強化
・「政の要は軍事なり」……衛士府(徴発され都にのぼってくる兵)、地方では国司による動員権。
・伊勢神宮復興……東国進出の拠点
15 二上山の歎き
天武天皇の後継をめぐって、草壁皇子と大津皇子との間に対立があった。天皇死後、皇后は自分の子でない大津皇子に謀反の疑いをかけて処刑し、自らは持統天皇に即位した。
しかし、草壁皇子が間もなく死んだため、持統天皇は自ら政治をとることにした。
16 藤原宮のさかえ
・飛鳥浄御原令の完成
・地方行政……国・郡・里の整備
律令国家の特質とは……
・天皇の権威のもと、有力氏族からなる官僚組織が国家を運営する。
・太政官制……左右大臣、大納言・中納言以上の高級官僚が合議により政策を決定する。
***
天智・天武・持統と、天皇による専制確立が進んだが、それでも国家の運営には氏族のコントロールが不可欠だった。
また、後継者争いは、政権不安定の根本原因だった。
・殯(もがり)の風習……葬儀儀礼