国家神道は、従来の土着信仰と地続きの神道が国家信仰と統合され、明治時代に神社や学校によって広められた宗教である。
敗戦とともに国家神道は公的には解体されたが、完全に消滅したわけではない。
本書は国家神道とは何かを検討し、日本人の思想史・宗教史を考える。
国家神道を無視した日本人論はあまり意味がないが、戦後にはそうした日本人論がもてはやされた。
国家神道の核である皇室祭祀は戦後も温存されたが、これは宗教ではない公的行事、国事行為として、あいまいな地位を保っている。
一方、神社本庁などの民間団体は、国家神道を軸にした国家再建を強く望んでいる。
◆所感
本書を読んだ2019年10月当時、即位礼が行われていた。
- 皇室祭祀が宗教なのか、国事行為なのか、文化なのかというのは非常にあいまいである。
- わたしは、天皇が天候を左右したり、人生に恩寵をもたらしたりするとは考えていない。
- 天皇家に生まれたために自由を制限されあれこれ悪くいわれる人びと、また天皇家に嫁いだために誹謗中傷を受ける人に対しては何と理不尽かと思う。
1 国家神道の位置
戦前には、仏教やその他の宗教の信心と、国家神道の祭政一致思想が併存していた。私的領域では各宗教の信心が認められる一方、国家神道は宗教というより、公的領域における祭祀に属するととらえられていた。
その意味で、戦前日本には祭政一致と政教分離が両立していたといえる。
明治維新後とられた政策は強力な神道国教化を推進するものであり、以後、他宗教に対する扱いは紆余曲折あったが、神道優遇策は続いた。
信教の自由はある程度認められたものの、「神道は宗教ではない国家的機関として、国民の精神生活に強い影響力を及ぼす存在になっていった」。
祭政一致の国家制度において最も重視されたのが皇室祭祀だった。天皇が自ら親祭を行う皇室祭祀13個のうち、明治以前からあったのは新嘗祭と伊勢神宮の神嘗祭(かんなめさい)のみである。その他は、明治政府によって創設された。
皇室祭祀は、伝統的な祭祀と異なり、学校行事、マスコミなどを通じて国民全体が参加するものとなった。また、天皇皇族の結婚・葬儀も、国民的行事となった。
近代国家の統治に資する儀礼体系の形成は、どの国でも重大な課題だった。19世紀後半、西洋諸国は互いに競い合いながら、新しい「伝統の創造」を追求していった。日本では皇室祭祀を基軸とし、各地の神社の祭祀をも組み込みつつ、「伝統の創造」が行われていったのだ。
近世に入り、従来の仏教に代わって、神道や儒教が影響力を増大させた。やがて、神道は国家神道と教派神道(天理教や金光教などの救済宗教、民衆宗教)とに分かれた。
著者は、日本の祭政一致と政教分離制度設立を、公文書を通じて検討する。
大日本帝国憲法では、天皇の神聖不可侵や万世一系を否定しない限りでの、信教の自由が認められた。また、教育勅語では、普遍的な道徳を説くとともに、天皇と臣民との関係、重大事態にあれば天皇のために臣民が身をささげるべきという信念が掲げられた。
建前上、信教の自由があるとされたが、実際にはしばしば信仰と皇室祭祀が衝突した。
この事件によって、記紀の天孫降臨や三種の神器の由来などを事実でないとする立場から、日本古代史や記紀神話を論ずることが難しくなった。
……平時の国家神道の側からすると、この二重構造という前提の下で諸宗教が存在することは、むしろ必要なことでもあった。国家神道は…「私」の領域での倫理や死生観という点については言葉や実践の資源をあまりもちあわせていない
日本におけるこうした公私の分離は、やがて公の力の拡大にいたる。
なお他の研究者の説とは異なり、著者は、国家神道が、天皇のために命を投げ出すことも辞さぬ強力な崇拝に至ったのは1930年代後半、戦時中だとする。
2 どのようにとらえられてきたか
著者は、混乱しがちな国家神道を以下の定義で用いる。
ポイントは、皇室祭祀、天皇崇敬という国家の推進したシステムである。
国家神道は……皇室祭祀や天皇崇敬のシステムと神社神道とが組み合わさって形作られ、日本の大多数の国民の精神生活に大きな影響を及ぼすようになったものである。
天皇は天照大神という神的な起源と系譜をもつ存在であり、そのような天皇が統治する国家の祭祀は尊ばれるべきだ。とりわけ皇室祭祀は、日本の国家統合の中核に位置すべきものだ。全国の神々は伊勢神宮および宮中三殿に鎮座する天照大神を頂点にした神々の体系として一体性をもつ。全国の神社に鎮座する神々は、伊勢神宮と皇室の祭祀を核として組織化され、国家の祭祀の体系に組み込まれる。
神的起源をもつ天皇と国民の間には通常の国家とは異なる深い神聖な絆があり、古来、この絆に基づき王朝交代のない国家体制が守られてきた。これを「万世一系の国体」とよび無比の尊い伝統だ。
国民は皇室祭祀に参与し国体思想に基づく道徳を身に着け、天皇への崇敬心を育んでいくべきだ。
また国体思想は「日本の自国認識に関する思想で、とりわけ万世一系の天皇統治を根拠にして、日本の伝統的特殊性と優越性を唱える思想」である。
国家神道と国体思想は、完全に同一ではない点に注意が必要である。
GHQが発した神道指令は、国家神道と神社神道を同一のものとみなしているが、これは誤りである。
アメリカ人は、宗教を「独立した信仰者によって構成される組織」と考えたが、神道はそのような宗教ではない。神道指令には、国家神道の核である皇室祭祀への言及がない。
戦後の神道を支えてきた研究者や論者には、国家神道と皇室祭祀を意図的に切り離そうとするものが多い。
皇室祭祀は「宗教」ではないものとみなすことによって、「公」領域での機能を保持し、拡張しようとする意図が背後にある。
GHQ的な理解、またマルクス主義的な「天皇制イデオロギー」理解は、国家神道の実践的な面、つまり皇室祭祀の実態を見落としている。
……しかし、宗教や思想の歴史を考えるには、何よりも観念や実践の流布・習得について調べてみなくてはならない。
国家神道の歴史において学校や祝祭日システムやメディアが重要なのは、それこそが天皇崇敬やそれに関わる神道的な観念と実践の流布・習得において決定的に重要な役割を果たしたからだ。
3 国家神道の誕生
現在、国家神道と呼ばれている概念は、明治維新期には大教、皇道と呼ばれ、新政府の統治方針に組み込まれていた。
その後皇道という語は熱心な天皇崇敬主義者が主に用いるようになったが、政府はどのように大教宣布を行うか考え、結果、「教育勅語」の普及を開始した。
教育勅語はどのような宗教をもとうと、また宗教をもつともたないとにかかわらず、国民が守るべき包容的な「教」として提示された。この包容性は「皇道」の理念の核心をなすものでもあった。
明治初期の祭政教一致路線に一致したのは、後期水戸学や大国派(津和野派)といわれる学派であり、草の根の信仰に傾いた平田篤胤等などとは異質だった。
教育勅語の成立によって、学校を主軸とした天皇崇敬の方向性が確立した。
興味深いことに、伊藤博文や井上毅といった現実主義的な政治家は、新たに特定の国教を定めることには消極的だった。
4 国家神道の普及
学校での普及……1890年の教育勅語発布以後、各学校に教育勅語と御真影が配布され、これを保存するための規定が定められるようになった。
また靖国神社は対外戦争が増えるにつれて重要性を増していった。
国家神道は仏教やキリスト教や天理教のような救済宗教と異なり、個人の運命に関わり死後の救いを約束したり、苦悩する個々人の魂に訴えかけるというような実存的深みの次元はさほどもっていない。……ところが若くして死んでいく兵士の運命に関わる靖国神社の場合は、避けがたく実存的な苦悩や癒し・慰めの次元が入り込まざるをえない。人びとの心の奥深い部分を揺り動かす力をもっているという点で、靖国神社は国家神道の中で特別の重みをもつ施設となった。
伊勢神宮を中心とした神社による国体論教育機関として、皇學館、皇典講究所が、また関東では神宮皇學館が作られた。また、新宗教のうち、田中智学の国柱会と、出口なお・王仁三郎の大本教は、強い天皇崇敬とナショナリズムを伴うものだった。
下からの国家神道ナショナリズム運動は、このように神社や若手神職、新宗教が担い手だった。
このように、「政教分離」と「祭政一致」とを掲げる日本の統治システムは徐々に後者に傾いていった。
久野収・鶴見俊輔によれば、一方では天皇崇敬を「顕教」として掲げ、他方エリート層は天皇をシンボル・名目的存在として据え置く「密教」を利用したという。顕教に固執した軍部は、天皇機関説を排撃し、超国家主義による統治を達成し、伊藤博文らが建設した国家を崩壊させた。
国家神道ナショナリズムは、建国者たちの思惑を超えて日本の歴史を動かすことになった。
5 国家神道は崩壊したのか
戦後、国家神道は解体されたと考えられているがこれは誤りである。
GHQは神道指令において、皇室祭祀にまったく手を付けなかった。このため天皇家の行事は、グレーゾーンの国事行為として温存された。
戦後、神社神道を統括する組織となった神社本庁は、天皇崇敬を明確に掲げ、戦前の国家神道体制を標榜している。
神社本庁の右派的な政治運動は、個々の神社の地域活動とは乖離している。
それは神社本庁が戦前の国家的神社組織からの落差に苦しみ、当初から国家統合的な機能の回復に関心を集中してきたことによるだろう。
戦後、国家神道は皇室祭祀という形で残ったが、それは非常に見えにくくなっている。
日本人が「日本人論」を好み自らのアイデンティティを定めようとするのもこのためだと著者は考える。