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『東本願寺三十年紛争』田原由紀雄 ――寺の内部抗争について

 東本願寺紛争とは、1969年ごろから表面化した、「宗門の天皇家」大谷家――親鸞の血を引く一族であるーーを中心とする伝統擁護派と、「同朋会運動」を中心とする改革派との争いである。

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 本願寺は、親鸞没後、関東の有力門弟が京都東山・大谷に寺を建てたのが起こりである。親鸞以後、3世覚如から代々血脈信仰が受け継がれてきた。

 秀吉と和睦した顕如教如に跡を継がせたが、母に退けられ代わって准如法主となった。これが西本願寺である。一方、隠退させられた教如徳川家康に請願し開いたのが東本願寺である。

 設立の経緯から、西本願寺は朝廷・長州藩石山合戦の際に毛利水軍の支援を受けていた。また、禁門の変では志士たちを寺に匿った)との、東本願寺は幕府との結びつきが強かった。

 

 明治以降、東西両家ともに、天皇家や皇族との婚姻に成功し、権威を強化させた。

 本願寺では、親鸞の血をひく「法主」(現在は門主)が絶大な権力を持つため、天皇制にたとえられている。

 

 本書では、東本願寺紛争を、戦前の法主、光暢時代までさかのぼって説明する。

 

 

 ◆メモ

・血脈信仰は仏教にもその起源を持っている。

・本書における法主の位置づけは、ミニ天皇・ミニ専制君主である。「法主と内局は対等ではないから対話は生じない」、「法主は超法規的な存在である」等、教団が特異な組織であることを浮き彫りにする。このような絶対的人間に服従する宗教には違和感を覚える。

・敗戦後まもなく、本願寺の宗憲が新憲法にならい、より民主的なものに改正された。天皇制と本願寺における法主制との対比は、事実に基づくものである。

・仏教集団という非常に保守的な団体のなかでもこのような改革運動と紛争が存在した。しかし、根本的な問題は、そもそも仏教に接する人びとが減り続けている事実である。高齢者が減っていき、若い人びとが宗教に無関心になれば、仏教そのものがやがては滅亡するだろう。

 

 

  ***

 1

 1969年、法主光暢は、内局(実務を統括する内閣相当の部署)に協議せず、独断で管長(門下の寺の統括役)職を長男の光紹に譲った。これまで、法主は、法主東本願寺住職・管長の三役を兼務し、「三位一体」を不文律としていた。

 光紹は京大卒・米留学経験ありの華々しい人物だったが、吹原詐欺事件の吹原被告をブレーンに抱え、その人物が頻繁に寺に出入りしていた。

 内局は、光紹の管長就任を拒否し、一族と内局との抗争が始まった。

 

 腐敗した教団に対する内部の改革運動は明治期からあったが(清沢満之など)、戦後、同朋会運動が中心となって、教団の改革を提唱した。同朋会は、改革派の代表的人物である訓覇(くるべ)が内局宗務総長に就任してから創始された。訓覇は、徳川による支配の道具となった寺請制度・本末制度・檀家制を批判し、清沢教学を範として本願寺を改革しようとした。

 ところが同朋会の隆盛にともなって、法主がお礼(現金)を受け取る機会などが減り、地位が低下していった。これに、大谷家、保守派が反発し、管長譲位事件(開申事件)で対立が表面化した。

 大谷大学にいたっては、学生たちが「真宗の教えと相容れない法主制の廃止」を訴える事態となった。

 

 血脈(けつみゃく、けちみゃく)信仰は仏教界で広く行われている。

 本願寺では、蓮如による組織拡大以降、代々の法主がカリスマ的な運営を行ってきたため、こうした改革派の反発は教団に衝撃を与えた。

 

 

 2

 法主ら保守派と改革派との対立は、本願寺所有地での霊園建設問題をめぐってさらに深まった。この問題には詐欺容疑の吹原被告が関与していた。

 法主による親政か、内局による民主的運営かをめぐって東本願寺は二分された。この争いはマスコミの話題になり、結局、旧態依然とした法主側が譲歩し、「君臨すれども統治せず」の立憲君主的役割になることで決着した。

 

 戦前には、新門光紹が道を歩くと、「親鸞の子孫、皇族の親類」ということで市電が停止した。

 しかし、光紹は親との折り合いが悪く、代わって四男の暢道が台頭したが、かれは遊び癖があり金銭問題に悩んでいるようだった。

 

 

 3

・光暢法主と息子暢道による5億円手形払い出し事件は東本願寺の金銭スキャンダルを再燃させた。戦前には句仏法主が営利事業を展開し借金を抱えるなどの事件が起きていた。

・峯藤宗務総長と光暢法主・暢道側は激しく対立し、寺務所ロックアウト等が発生した。

本願寺の敷地や施設が差し押さえされ、人の手に渡ってしまった。

法主の独断専行により保守派は徐々に議会で劣勢になっていった。

 

 ――保守派の議員たちには何の相談もなしに、宗政上の重要決定を下し、いきなり記者会見で発表することなど日常茶飯事。それに加えて、相次いで表面化した法主本願寺財産をめぐるスキャンダル。

 

 法主・暢道側は、本願寺真宗大谷派から離脱させるという通告を出した。これによって、本願寺の財産を、教団に制約されることなく処分でき、また末寺を引き入れることで教団を無力化することができるはずだった。

 

 光暢法主・暢道たちは、詐欺師や悪徳会社に次々とたぶらかされ、巨額の借財に苦しんでいるようだった。

 

 

 4

 法主の、教団からの離脱宣言後まもなく、本願寺の土地である「枳殻邸」(きこくてい)を第三者に権利委譲しようとしていることが発覚した。

 内局は抗議したが、光暢法主は、これは本願寺の財産であり、既に無関係の教団が関知できることではないと反論した。

 このときには、保守派も大谷家を見放していた。

 峯藤宗務総長ら内局側と法主側は、法廷で争った……光暢らによる背任容疑による告訴。

 

 

 5

 検察が光暢・暢道氏の側近を背任・横領容疑で逮捕し、本人たちも事情聴取を受けるようになり、内紛の行く末は決まった。

 法主側は、逮捕されるという恐れに屈し、内局に和解を申し入れた。結果、法主の権限は大幅に縮小され、象徴天皇的な地位となった。

 

 司法は宗教問題に介入することに及び腰であり、また大谷家は天皇の縁戚でもあったため、国は消極的だった。

 

 

 6

 光暢門主とその裏方が死に、紛争は内局側が勝利しつつあった。しかし、長男光紹氏が独立させた東京別院東本願寺浄土真宗東本願寺派として分裂した。

 新しい門主として業成氏が選ばれたが、内局と、業成門主の父暢順(光暢の次男)との間で再び確執が生じた。

 

 

 7

 門主の父暢順氏が理事を務める本願寺維持財団が、内局に断りなく京都駅前の敷地を近鉄百貨店に売却したため、問題になった。それ以前から、暢順氏がワンマン経営を行う財団と、内局との関係は、険悪なものだった。

 96年、暢順・業政、その次男の父子3人はそろって(彼ら個人の)宗派離脱を宣言した。

 

 

 8

 宗派に残った大谷家の継承者は、三男暢顕氏だけだった。かれは象徴としての門首の地位を受け入れた。

 

 東本願寺の内紛は、戦後の社会変化と連動していた。

・家単位の宗教から、個人の自覚による宗教へ

・農村を基盤にした社会から、都市部への人口集中へ

・家制度が崩壊し、兄弟は皆平等となり、子は家長から独立する

・戦前の特権……華族爵位の無力化

 

東本願寺三十年紛争

東本願寺三十年紛争