関ヶ原の合戦以後も徳川方の領地は全国の3分の1にとどまり、京都以西は旧族系または豊臣系外様が占めていた。関ヶ原合戦は徳川体制の盤石の基ではない。
合戦は豊臣体制内部の分裂により生じた。それは以下のとおり。
1 正室北の政所と秀頼生母淀殿との対立
3 三成ら五奉行(中央集権派)と諸大名との対立
こうした要因がもととなり合戦が起こった。徳川政権が安定するのは、これ以後の大坂の陣が終わってからである。
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関ヶ原合戦の後、家康は譜代大名や徳川系大名を東国に、旧豊臣系武将や外様大名を西国に配置した。これは東国を徳川が、西国を秀頼が統治するという二元体制を敷いていたからである。位階官職の上ではあくまで豊臣関白家が上であり、家康もこの秩序を重んじた。この体制を著者は二重公儀体制と呼んでいる。
家康は天皇家―豊臣家―徳川家の混血を進めることにより、軍事的にも倫理的にも正統性を持つ覇権を手に入れようと試みた。
しかし、家康は自分が死んだ後に徳川家の安定が失われるのではないかと考えた。そこで家康は方広寺鐘銘事件を利用し豊臣家を亡ぼした。
大坂の陣により秀頼に味方した大名、武将は壊滅し、徳川体制が盤石のものとなった。大坂夏の陣は関ヶ原を超える人員が動員されているが戦闘は一方的なものである。
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本の最後にこれまでの通説と異なる点がまとめてあるため便利である。
1 関ヶ原合戦の直接の原因は朝鮮出兵における現地武将と三成ら奉行衆との対立である。
2 三成襲撃事件の決起人は加藤清正、福島正則、浅野幸長、細川忠興、黒田長政、蜂須賀家政、藤堂高虎である。
3 反家康決起行動……家康が上杉討伐に向かった際、三成は始め大谷吉継をかたらった。その後奉行衆の説得にも成功し、豊臣公儀の名をもって宣戦布告することに成功した。
4 家康は上杉と佐竹を警戒するために即座に西国には向かわなかった。
5 徳川方の主力部隊は秀忠隊であり、最大人数を抱える家康軍は寄せ集めの防御専門部隊だった。
6 関ヶ原合戦……家康は自らの軍功を確立するため福島らが攻撃を開始した直後に自らも進軍した。また、三成隊が善戦したためあらかじめ内通していた小早川は始め前進をしぶった。
7 大仏鐘銘事件は家康のでっち上げではなく外部から舞い込んできた事件であり、当時の規範から照らしても無礼なもの(諱をそのまま用いる)だった。