2世紀のローマ皇帝によるメモ。マルクス・アウレーリウスの治下は戦争が絶えなかった。
エピクテトスのストア哲学から強い影響を受けている。セネカ、エピクテトス、マルクス・アウレーリウスらの後期ストア派は、宗教的色彩を帯びており、「哲学は初期の人びとの場合のごとくなんの欠乏も感じない精神の自由な活動にあらずして、道徳的感情的渇望を満足させる方法」との傾向を持つ。
宇宙はひとつであり神も物質もひとつである。また人間は肉体、霊魂、叡智(指導理性)からなる。指導理性は宇宙を支配する理性、つまり神の一部であって、これをダイモーンという。
この信念から導かれる義務観念……敬虔、社会性、自律
◆メモ
・神は漠然とした存在であり複数なのだろうか。
・ダイモーンは、人間のなかに宿った神の一部であり、人間を導く指導理性(ト・ヘーゲモニコン)である。
指導理性……人間を正しく導くもの。人間の自然に備わっているもの。
善……他のギリシア思想家と同じく、善とは何か、善の追求に対し執着する。
職業……哲学者は、マルクス・アウレリウスにとって理想の生き方である。かれはそれを実現できなかったが、哲学者にならって善く生きようと努めた。
◆所見
無宗教者としての読み方:マルクス・アウレーリウスの価値観は、現在でも通用する概念からなる……節制、誠実、嘘をつかない、恩着せがましくしない、寛容、平静その他。
こうした徳目は神という存在から由来しているものだが、その神はキリストや仏陀ではなく古代ローマの神である。ではだれかといえば明確な神があるわけではないようだ。
キリスト教徒やイスラム教徒、仏教徒でなくとも、徳目や価値を定め、信条を持つことは可能である。
古代ローマ・ギリシアの思想家を指して、信仰がないから道徳観念がない、ということは正しくない。
社会……世間体以外に一切の基準を持たない場合、または見栄や体裁を善悪の唯一の基準にした場合、自分の価値観は常に周囲に左右されることになる。これは芯のない、信念のない人間と判断されても仕方がない。
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1
模範となった人物たちとその項目を並べる。
――道に精進する人間、善行にはげむ人間として人の目をみはらせるようなポーズをとらぬこと。
――……腹を立てて自分に無礼をくわえた人びとにたいしては和解的な態度をとり、かれらが元へ戻ろうとするときには即座に寛大にしてやること。
――また怒りやその他の激情の兆候をゆめにも色にもあらわさず、このうえもなくものに動ぜぬ人間であると同時に、このうえもなく愛情にみちた人間であったこと。
――優しいところと厳格なところがうまく混ざり合った性質。
2
心の平静、神への信仰を忘れないこと。感情や怒り、快楽に流されてはならないこと。
ダイモーンとはなにか。
――なによりもみじめな人間は……隣人の心の中まで推量せんとしておきながら、しかも自分としては自己の内なるダイモーンの前に出てこれに真実に仕えさえすればよいのだということを自覚せぬ者である。
仏教的な諦念について。
――ひと言にしていえば、肉体に関するすべては流れであり、霊魂に関するすべては夢であり煙である。人生は戦いであり、旅のやどりであり、死後の名声は忘却にすぎない。
われわれを導くものはただ哲学であり、すなわち内なるダイモーンを守ることにあるという。
3
――何かするときいやいやながらするな、利己的な気持ちからするな、無思慮にするな、心にさからってするな。着物考えを美辞麗句で飾り立てるな。余計な言葉やおこないをつつしめ。
――しかしより善いものとは有利なもののことだ。
避けるべきこと。
――……たとえば信をうらぎること、自己の節操を放棄すること、他人を憎むこと、疑うこと、呪うこと、偽善者になること、壁やカーテンを必要とするものを欲すること、等。
われわれは過去も未来も持つことはできず、ただ「この一瞬間にすぎない現在のみを生きる」。
自らの信条をもとに神のこと、人間のことを理解すべきである。いかなる人間的な事柄も、神的なことに関係づけなければうまくおこなえない。
4
――君自身の内なるこの小さな土地に隠退することをおぼえよ。……事物は魂に触れることなく外側に静かに立っており、わずらわしいのはただ内心の主観からくるものにすぎないということ。もう1つは、すべて君の見るところのものは瞬く間に変化して存在しなくなるであろうということ。
――宇宙即変化。人生即主観。
――君に害を与える人間がいだいている意見や、その人間が君にいだかせたいと思っている意見をいだくな。あるがままの姿で物事を見よ。
――あたかも一万年も生きるかのように行動するな。不可避のものが君の上にかかっている。生きているうちに、許されている間に、善き人たれ。
[つづく]