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The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『古代ギリシアの歴史』伊藤貞夫 ――ポリス興亡の歴史を知る

 主にポリスの興亡を中心に歴史をたどる。

 アテネやスパルタ、テーベといった都市国家が政治的独立を保っていた期間はそう長くない。

 各ポリスは、それぞれ植民都市を従え、同盟諸国から富を吸収し繁栄を誇ったが、社会変動や国内対立によって疲弊し、また外部の巨大国家によって征服された。

 

 

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 1章 王宮の内と外

 エーゲ海文明発掘は、シュリーマンによるトロイア発掘、エヴァンスによるクレタ島クノッソス遺跡発掘、ヴェントリスによる線文字B解読などを通じて発展してきた。

 エーゲ文明の後、ギリシア人の先祖たちがバルカン半島を南下し定住した。ギリシア人の先祖は先住民から航海術や青銅器などの文化を学んだ。

 -thos, -ssosという語尾は、非印欧語、つまり先住民から継承したものである。

 

・ミケーネ時代(前1600年頃から)

 ミケーネ文書、クノッソス文書、ピュロス文書から解読できる事項は限られる――主に王国の行政文書、しかも粘土が再利用されず破棄された終末期のみ。

 強力な王の専制の下、各在地豪族が地域を統治し、自由民と奴隷との境界は後世の古代ギリシアよりもあいまいだった。

 クレタ文明の文化、線文字A(未解読)を参考に、先祖たちは線文字Bを作り、海外……ロードス、ミレトス、クレタ島小アジア西岸にも進出した。

 しかし、前13世紀後半のトロイア遠征(『イーリアス』の舞台)を最後に、ミケーネの諸王国は破壊され、消滅してしまう。

 

 

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 2章 ポリスの生誕

 前12世紀末におけるミケーネ文明の滅亡は、トゥキディデスによれば北方にいたドーリア人、ボイオティア人、テッサリア人などの侵入によるという。

 しかし近年ではドーリア人定住の前に、海の民(かれらはエジプト、シリア、ヒッタイトも攻撃した)がギリシア諸都市を攻撃し破壊したという仮説も有力である。

 

 前800年代まで、文字のない「暗黒時代」が続くが、この間に方言が固定化し、またポリスが形成された。アッティカ地方(アテネなど)に人口が流入し、そこから小アジア西岸のイオニア地方に植民が進んだ。

 バシレウス(有力者)からなる共同体連合がポリスをつくったため、そのほとんどは貴族制だった。

 多くのポリスは全く別個の政体だが、かれらはお互いに、生活習慣・言語・宗教を共通項として、ギリシア人としての強い意識を持っていた。

 

・古代オリンピアの開催

ホメロス叙事詩

ギリシアアルファベット(フェニキア文字を改良)

 ホメロスの詩は一部ではあるが当時の社会について知る材料となる。

 ポリスにおける平民と貴族の境界は曖昧であり、やがて民主政へと変化していく。

 

 

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 3章 民主政への歩み

 地中海交易と植民が拡大することで、ギリシア世界もまた変化した。植民や航海に関してはデルポイの神殿が情報センターとして機能した。

 小麦の栽培に適さないギリシアの諸都市にとって、三大穀倉地帯……黒海沿岸、シチリア、エジプトとの貿易は不可欠だった。

 貿易が栄えることで商人が台頭し、貴族制の基盤は揺らいでいった。

 各植民都市は、母都市とは独立したポリスとして運営された。

 前8世紀後半頃、ホプロン(大型の盾)と防具による重装歩兵戦術が普及したこともまた、政治形態に大きな影響を与えた。

 武具を自弁しファランクス(密集隊形)で戦うことにより、平民戦士の影響力が増大していった。

 

・スパルタ

 ラコニア、メッセニアという肥沃な土地を戦争によって征服したスパルタ人(侵入してきたドーリア人)は、ペリオイコイ(参政権を持たない民)やヘロット(農民)を統治するために特異な社会を発達させた。

 鎖国政策/ 貴金属貨幣の禁止……文化の発展はなし

 軍国主義・戦死教育

 青年の訓練……田園地帯に派遣し、ヘロット有力者を殺害させる

 市民と選出された5人のエフォロス(監督官)を中心とした高度の民主政

 

アテネ

 東地中海貿易の中心

 スパルタは陸軍大国であり、アテネは海軍大国

 貴族・平民間の対立から、ソロンの改革による平民の借金救済、地位向上、アテネ市民団の復興へ

 ペイシストラトスの僭主政治:農民の地位強化

 クレイステネスの登場……地域ごとの政治単位確立(十部族性)、陶片追放制度(オストラキスモス)

 

 

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 4章 ポリスの栄光と凋落

 アテネ、スパルタとオリエントは強く結びついていた。

 黒海西岸のイオニア諸都市は、当初、アケメネス朝ペルシアの緩やかな支配を受けていたが、反乱が発生するとアテネは援軍を送り込んだ。

 アテネは親ペルシア派と反ペルシア派とで分裂していたが、やがて反ペルシア派が台頭した。

 アテネの反ペルシア派……マラトンの英雄ミルティアデス、サラミス海戦の将軍テミストクレスなど。

 この報復のためペルシアのダリウス1世はギリシアに遠征した(ペルシア戦争)。戦争はマラトンの戦い、サラミス海戦、プラタイアイの戦いにより、ギリシア側の勝利で終結した。

 

 マラトンの戦い

 クセルクセス1世のギリシア遠征……テミストクレスの指導による防衛(アルテミシオンへの出撃)

 テルモピレーの戦い(スパルタのレオニダス王以下300人の全滅)

 サラミス海戦により、ギリシア海軍はペルシア海軍を打ち破った。

 

 ペルシア戦争後、スパルタに並びアテネギリシア世界において台頭した。

 その後、ペリクレス時代には市民の規定が厳格化(両親が市民でなければ市民になれない)され、民主政が強化された。同時に、デロス同盟を東地中海一帯に広め、帝国としてふるまった。

 アテネの繁栄は同盟諸都市からの貢納や、諸都市への内政干渉により成り立っていた。やがて、アテネの存在はスパルタを脅かすようになり、両都市は対立を深めていった。

 

 この時代の文化……アッティカ悲劇、建築の最盛期

 

 アテネとスパルタの対立は、デロス同盟ペロポネソス同盟を巻き込んだ大戦争ペロポネソス戦争)を引き起こした。

 ペリクレスが戦争半ばで死亡したため、アテネには下層市民の声を直接支持基盤とする指導者たちが残った。政治の主役は、貴族たちから、下層市民らに移っていた。かれらは思慮が浅く好戦的であり、引き際を誤り戦争を長期化させた。

 最終的にアテネはスパルタ・ペルシア連合に敗れ、降伏することになった。

 一連の出来事をトゥキディデスが『歴史』に残している。

 

 その後もアテネの民主政は繁栄を深めたが、デマゴーグ(扇動家)の続出など、直接民主政そのものの欠陥も表面化した。

 アテネは、特権的な市民による民主政であると同時に、最も発展した奴隷制国家でもあった。

 

 クセノフォン……ペロポネソス戦争後、貧困のため故郷を出て傭兵となったギリシア人の多くのギリシア人の中の一人。ペルシア王の弟キュロスの叛乱(本人の死により瓦解)に参加した傭兵たちの指揮官となり、黒海沿岸に向けて退避を指揮した。

 

 ソクラテスプラトンアリストテレス

 

・テーベの興亡(エパミノンダス、ペリピダス)

・フィリッポス率いるマケドニアによるギリシア統一と、各ポリスの政治的主権の消滅

 

 スパルタは衰退し、アテネの民主政も前301年にはほぼ消滅した。アテネは志願兵と傭兵が戦争を担うようになった。

 エジプト、シリア、マケドニアが地域の覇権を争う専制国家となった。そこに対抗できたのは、後進の連邦であるアカイア同盟、アイトリア同盟くらいだった。

 しかしいずれもローマに敗北・吸収された(マケドニアはそれより早く、前168年に征服されている)。

 

古代ギリシアの歴史 ポリスの興隆と衰退 (学術文庫)