本書の目的はわかりやすいローマの歴史を書くことである。
ローマ史にはギボン、モムゼン等有名なものがたくさんあるが、価格ではこの本が一番安い(1冊なので当然だが)。
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ロムルスとレムスは都市の礎を建てるが、兄弟げんかからロムルスは兄レムスを殺害する。こうしてローマがはじまった。数人の王による統治が続くが、専制によって人びとの不満が溜まり、共和制に移行する。
共和制においては執政官を立て、元老院(セナトゥス)が政治を決定した。
ローマは徐々に周辺民族と都市を併合していった。それに伴い貴族でも騎士でもない平民たちの要求が強まった。貴族(パトリキ)は建国者の末裔であり、騎士(エクイテス)は主にエトルリア系の商人、富豪だった。貴族と騎士だけが人民であり、そのほかは権利を認められなかった。このため社会闘争が始まり、やがて権利を獲得していった。
イタリア半島を征服し、ギリシア系の都市や多民族の都市に植民政策を敷き、中央集権化を進めた。この過程で国家の基礎が構築された。
――ローマは国家概念の発明者であった。知事、裁判所、警察、法典、税務署、この5つの礎石の上にローマは国家を築き、強力な軍によってそれを支えた。そして今も、国家はこれらの礎石の上に立っている。
元老院が実権を持ち、これを執政官に行使させた。議会は貴族たちによるクリア会議、人民によるケントゥリア会議、平民によるトリブス会議の3つがあった。ケントゥリア会議は保守勢力からなり、トリブス会議は社会進歩を標ぼうした。執政官はこうした勢力をうまく調停しなければならなかった。
――国家に深刻な危機がおとずれ、どうしようもなくなった時、元老院は伝家の宝刀を抜く。すなわち独裁官(ディクタトール)の指名である。政府内部の統一がなく、あるいは政府と民会の一致が得られず、大問題で事が紛糾すると、執政官の提議により、元老院は任期半年または1年の独裁官を任命し、国家の全権力を委託することができる。
共和制下のローマ人について……「この型に欠けているのは、個人の自由の感覚、学芸の愛好、会話と哲学的思索の喜び、さらになかんずくユーモア、等々である。だが、忠誠、質実、剛健、服従、実行力、等々の美徳に充ちみちていた。世界を理解し、楽しむようには生まれついていなかった。かれらの本領は世界を征服し統治することであった」。
カルタゴはセム系のフェニキア人によって建てられた都市であり、貿易と海軍力により地中海一帯を支配し、アフリカ沿岸、スペイン等に植民都市をつくった。彼らはローマとは異質な文明を持ち、派手好き、贅沢好きだった。現地のアフリカ人たちは奴隷や下層民として使役されていた。
第1次ポエニ戦争、第2次ポエニ戦争を通してカルタゴとローマは対決する。第2次ポエニ戦争では、カルタゴのハンニバルとローマのプブリウス・コルネリウス・スキピオがそれぞれ指揮をとり戦闘した。結果、ハンニバルは降伏し、自害する。ローマはカルタゴに対する勝利によって疲弊し、また、制服した諸都市からの財物によって年金生活者のような生活を始める。これによりローマ人は働かなくなり、風俗は退廃していった。
ギリシアはマケドニアの征服後もたびたび独立運動を続けていたが、第3次ポエニ戦争の間、ローマに征服され、以後は属州となる。カルタゴもカトー監察官の時代に亡ぼされた。
カトーは清廉潔白な政治家であり、ギリシアかぶれの退廃的な文化や、高官の汚職を嫌った。彼は英雄スキピオ・アフリカヌスを横領で告発しようと執拗に攻撃を加えた。
――かれが告発したのは個人崇拝の最初の兆候である。それが社会を腐敗させ、民主主義を破壊するに至る。その後のローマ史の歩みは、かれの洞察と危惧の正しさを十分に証明している。
征服した土地や植民地から、奴隷労働によって大量の穀物がローマに送られてきた。このためイタリアの農民は貧しくなり、大土地所有(ラティフンディア)がはじまる。グラックス兄弟は農地改革を実施しようとしたが元老院にはばまれ2人とも殺害される。
マリウス、スラという2人の独裁者が続く。スラはマリウスの親族を皆殺しにするが、その中で逃れた者のなかにガイウス・ユリウス・カエサルがいた。
スラは貴族による専制を復古させたが、それに続くポンペイウス、クラッススの2人の将軍は再び富豪を優遇した。かれらはスペインの反乱やスパルタクスの反乱を鎮圧し名声を手に入れた。その後、弁論術に秀でたキケロが権力を手に入れる。
カエサルは平民党の首領となり、ポンペイウス、クラッススとともに三頭政治を行った。カエサルがガリアを征服している間にクラッススは戦争に失敗して殺害され、ポンペイウスがローマを乗っ取った。前49年、カエサルは境界線であるルビコン河を渡り、ポンペイウスとの内戦がはじまった。
内戦に勝利したカエサルは、カッシウス、ブルートゥスらによって暗殺される。カエサルは後継者に18歳の甥、ガイウス・オクタヴィウスを指名していた。かれは後にアウグストゥス帝となった。
アウグストゥス以降、カリギュラやネロ、ドミティアヌス等、数々の異常な専制君主が現れた。その間にポンペイが亡び、イエスが処刑されペテロによるキリスト教組織が生まれた。
――同胞相食む殺し合いを楽しむ町人、すぐに暴徒と化す軍隊、昨日華やかに賛歌で包まれた身が今日は汚物にまみれて死んでいく皇帝――これがローマのありのままの姿だった。
ローマ帝国の経済は自由主義国に似ており、銀行が大きな役割を果たした。
ネルヴァに続くトラヤヌスは帝国の領土を最大化する。次のハドリアヌスは賢帝と言われ、膨張政策を中止し、皇帝がいなくとも機能する官僚組織の設立を試みた。
アントニヌスは善政を敷き、その統治の間は目立つ出来事がなかった。次のマルクス・アウレリウスはアントニヌスを参考に統治した。
以後、ほとんどの皇帝は異常者か無能者であり、たびたび殺された。東方での戦争に対処するため、ディオクレティアヌスは帝国を2分割し、ニコメディアを東ローマの首都とする。その後、コンスタンティヌスは内戦に勝利し、キリスト教を国教化した。
――ユダヤ人は倫理を、ギリシア人は哲学を、キリスト教に与えた。そしてローマ人は、言語、実務的組織精神、儀式、位階秩序を与えつつあった。
知事の事務はキリスト教の司教が行うようになっており、「教会が国家や政府の職務を代行するように」なっていた。
コンスタンティヌスは遺言で息子たちに帝国を5分割して与えたために、再び内乱が起こる。その後の、テオドシウス帝の時代には、俗権よりも教権が力を持ち始めた。アンブロシウス司教は度々皇帝に諫言し政治に介入した。
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道徳と倫理の崩壊がローマ帝国滅亡の第1の原因であると著者は考える。また、政治の問題や産業の問題も影響しているだろう。