「旧約聖書」および「新約聖書」を歴史家の視点から検証した本。
聖書の成り立ちや、そこに含まれる事実誤認、フィクション、改変の要素について大変細かく説明する。聖書を通読したことがないと、個々のエピソードの検討を完全に把握するのは難しい。
元々、聖書の内容に詳しい人間であればもっと理解できるだろう。
本書の結論は次のようなものである。
聖書は正確な歴史や事実を並べたものではなく、その多くの出来事や言行はフィクションか、後世の追加である。しかし、聖書を読むことで、ユダヤ人と原始キリスト教の世界観を知ることができる。
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1
・創世記と、キリスト生誕について
創世記は複数の異なるテクストから成り立つ。
7日間の天地創造物語は紀元前6世紀に書かれたが、その焦点は安息日の存在である。アダムとイブの物語はより古い紀元前8世紀由来である。
創世記をめぐる言説の多くは、後世に定着したものである。アダムと原罪を結び付けたのはアウグストゥスである。
アダムとイブは性欲を認識したためではなく、生命の実(永遠の命)から遠ざけるために追放された。元々、土から生まれた人間は死にゆく存在だった。
創世記とエデンとの矛盾を解消するため、アダムとイブの子孫がユダヤ人、それ以外は別の人間の子孫であるという説が流行した。
キリスト生誕の物語は4つの福音書で差異があり、生誕年と歴史的事実が食い違っている。おそらくヘロデ王は既に死んでいた。
イエスはおそらく定説よりも年をとっており、50歳手前で布教を始めた。
東方三博士はおそらく創作された存在である。正確には占星術師(マギ)の人数は定かではない。
――聖書とは、ふたつの相矛盾する物語や、ときと場所を偽った物語ではじまる異常な本といってよいだろう。何百年のあいだ、この本は信仰の源泉、信仰の基準、それに「聖典」として読まれてきた。
聖書を「精霊が書いたもの」と考える見方はかつて主流であった。内容の矛盾を無視できない人びと……オリゲネス等は、聖書は何かを象徴していると考えた。
聖書が科学的・歴史的に事実に他ならないと主張する人びと……ファンダメンタリストが、現代の西洋において増加している。
著者は、こうした聖書理解を歴史家の観点から評価することを義務と考える。
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2
・旧約聖書の起源
聖書は、紀元前8世紀から2世紀のあいだに作られたテクストをつなぎ合わせたものである。また、各テクストは後世の改変を受けている。
われわれは「正典」、すなわち、聖書は特別な本であるという概念から脱して、個別のテクストを歴史的事実によって検討していかなければならない。
最初のモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)は、J(「ヤハウェ」という言葉を使う者)やE(「エロヒム」という言葉を使う者)等、別人たちの制作物がまとめられて成立した。
※ 文書仮説(Documentary hypothesis)
モーセ五書の4種の原資料は、J(ヤハウィスト資料)、E(エロヒスト資料)、D(申命記史家)、P(祭司資料)からなるとする説。
聖書の時代には、ヤハウェは唯一の神ではなく、ユダヤ人たちは実際には他の神をも信仰していた。
「旧約聖書」の特徴……ヤハウェによる約束、契約、選択といった概念。一神教の特徴である「契約」……ヤハウェに忠誠を誓い、ほかの神を認めないこと……の概念が登場するのは、紀元前7世紀になってからである。
北のイスラエル王国が滅亡したことで、ヤハウェの信徒たちは危機感を抱いた。間もなく、神からイスラエル人への戒律である「申命記」(=律法)の元となる資料が生まれた。
――自分が選んだ神からすべての愛を要求する、この嫉妬深い唯一の神学は、はっきりとした現世的な価値観をもっていた。……自分の民を愛するヤハウェは不信心な隣人に対して皆殺しの指令を発した。
――神は気まぐれで身勝手である。
紀元前539年、ペルシア王キュロスがバビロニアを攻略し、ユダヤ人たちのバビロン捕囚が終わった。亡命していた過激な司祭たちは、ユダヤ人を他の民族から分離する強力な教義を広めようとした。
ユダヤ人の教義や生活様式を強く規定したのは「レビ記」である。
食べ物に関する禁忌は、現在と同じく、かれらの文化的な好みや嫌悪感に基づく(蹄があり、反芻する動物は食べていい。豚は汚い。鳥は、死肉や禁忌動物を食べないものなら食べてよい。虫はイナゴだけは食べてよい)。
モーセ五書(「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」)はばらばらの作者によって作られたものであるため、首尾一貫していない。
紀元前4世紀から、「ヨブ記」、「コヘレトの言葉」、「ダニエル書」等が徐々に書かれた。その過程で除外された書物が多数あり、聖書の整理が行われていた。
・匿名の作者
ユダヤ教の展開……パリサイ派、エッセネ派、サドカイ派の成立。
ヤハウェはエルサレムの神殿でのみ犠牲を捧げて礼拝されなければならなかった。このため、紀元前250年ごろから、エジプト在住ユダヤ人たちはシナゴーグををつくりそこで祈りの礼拝を始めた。
紀元前2世紀頃、最古のヘブライ聖書のギリシア語訳である「七十人訳聖書」(セプトゥアギンタ、LXX)が成立した。
物語や預言の作者は長い間伏せられてきたが、これは偽予言が当時は死罪とされていたからである。書物に権威を与えるため、偽りの作者名が与えられた。
イザヤ書の後半部分はイザヤより数世紀後の無名の作者によってつくられている。「雅歌」、「コヘレトの言葉」は、ソロモン王の手によるように偽装された。
かつては、1000年ごろ成立した「レニングラード写本」……「マソラ(伝統)本」が最も権威あるヘブライ聖書であるとされていた。
しかし、死海文書の発見から始まる研究によって、聖書のテクストは多様性をもっていたことが明らかになった。ギリシア語訳聖書は、翻訳によって歪められたのではなく、そもそも当時から無数のヘブライ語文書が存在していた。
ユダヤ人たちはギリシア哲学とは反対の方向、つまり、テクストを批判的に検討するのではなく、より宗教的な方向を選んだ。かれらは解釈や発見を行ったが「ほとんどすべては完全ないつわり」だった。
――(こうした行為は)ユダヤ人たちの、テクストを聖なるものとして尊敬する心からなされたことだった。
イエスの生まれる前には、22(ヘブライ文字の数)の特別な文書が定められ、それぞれ「律法(モーセ五書)」、「預言者」、「諸書」に分類された。
しかし、この時代にはまだ「正典」、「公認版」という概念はなかった。
・イエスと聖書
イエス自身や、その弟子たち、またイエスの死後……紀元100年以降の人びとは、皆好き好きに「旧約聖書」を引用した。そのときは、ユダヤ人が定めた22の特別文書という概念は考慮されず、偽書や外典も引用された。
・偽名のキリスト教徒
4つの福音書はいずれもその当人が書いたものではない。
偽の手紙の出現は、パウロの生きていた時代から認識されていた。
「テモテへの手紙」の作者がパウロであるというのは疑わしい。「ペトロの手紙1、2」はおそらくペトロ作ではないだろう。
手紙の作者が伝承どおりなのか、そうでないのかは、ギリシア語の文体、歴史観、史実との比較等により検討される。
[つづく]