・追加と削除
――……キリスト教のテクストは、それが誕生した最初の100年間は、いわばテクストの入れ替えと書き直しの戦場のようなものだった。
――こうした問題はたしかに、ある人たちを除けばそれほど重要ではないのかもしれない。ある人たちとはどんな人たちなのかというと、聖書は神の言葉であるために、そこには一点のあやまちもないとなお言い張っている人たちである。
しかし、中には信仰そのものに関わる例もある。
イエスは本来「新約聖書」のなかで、一度も「神」と呼ばれたことがないのではないか。
・巻物から書物へ
ユダヤ教における巻物(スクロール)の使用に対抗し、キリスト教徒ははじめパピルスを、その後写本(コデックス)の使用を進めた。
「新約聖書」の正典が定められたのは3、4世紀以降とされる。「旧約聖書」に至ってはさらに後世である。
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3
・歴史
ヘロドトス、トゥキディデスは、本人は意識していなかったが、事実の相互関係を明らかにするという歴史学者の姿勢を持っていた。
旧約聖書の「事実」には、そういった観点はあるのだろうか。
編纂される前の伝承部分には、当時のユダヤ人王朝の歩みを批判的に記述した箇所がみられる。しかし、モーセ五書編纂者(D)によって、このような歴史的な視点は消されてしまった。
Dの記述する「列王記」から、ダビデは理想化され、事実は後退していく。
――われわれの目に映るユダヤ人は、あやまった歴史をたくさん書いたほどには、それほど頻繁に正確な歴史は書かなかった。しかし、事実ではないその物語が圧倒的な効力をもったのだ。
「使徒言行録」の作者もまた、神のはからいという世界観に従って物語を作り上げている。
・発掘と探査
イエスの死後、ペトロ、ヨハネ、パウロが布教を進めた時代には既に、聖地の名所旧跡を巡る旅行が行われていた。
ただし、福音書には洞窟の記載は存在せず、イエスもベツレヘム出身ではない。当時の人びとはカフィー(頭巾)をかぶっていなかった。
聖書考古学の進展により、聖書の物語を証明することはできなかったが、聖書の起源や成立を検証することが可能になった。
・第五の福音書
聖書の物語と現実に発掘された遺物との交点はごくわずかである(一部の都市の移転や、下水道整備の記述など)。
ソロモン王の財宝や、黄金神殿の証拠は探しても見つからない。
新約聖書はギリシア語で書かれているが、イエスやその信徒たち、ユダヤ人たちがギリシア語を話したという記録は残っていない。
・異教徒たち
「列王記」等のユダヤ人史と、同時代の他民族の歴史(アッシリア人、バビロニア人、ペルシア人)とを比較することで、聖書がどの程度史実に基づいているかを判断できる。
「列王記」は、史料をもとに編纂しているだろうが、事実は「神の恩と報復」という世界観によって歪められている。
「エズラ記」、「ネヘミヤ記」は、ほぼ同時代人が書いたため史実に近いが、編纂者は2書の前後を間違った。
「エステル記」はペルシアの慣習や文化に詳しいが、内容は完全なフィクションである。
・イエス
イエスが実在の人物である限り、それは史学、考古学の対象となる。
屍体の埋葬場所はこれまでに何度も探索されてきたが見つかっていない。トリノの聖骸布は、14世紀につくられたものである。
ローマの歴史資料(ヨセフス)によれば、人心を惑わしたとして磔刑にされた人物の記録が残っている。
イエスはユダヤ人によって死に追いやられたとされているが、史料ではユダヤ教のサンヘドリン(最高法院)がイエスを罰した可能性は低い。また、ポンティウス・ピラトは実際は粗暴な人物だった。
マルコ、マタイ、ルカの福音書は、ユダヤ人がイエスを殺そうとしてピラトに圧力をかけたことが強調されている。一方、ヨハネの福音書では、イエスは捕らえられる前から既にお尋ね者である。
ヨハネはもっとも事実に近いだろうが、それでもイエス処刑の原因を明らかにはしてくれないという。
・預言者
預言者は当時の中東のあらゆる宗教において存在した。
現在、我々は預言者のことを急進主義者、反体制派とみなしがちだが、実際は、体制側……祭祀階級や律法・伝統に近い位置に立っていた。
・「旧約」と「新約」との照応
「旧約聖書」がイエスの出現を予言しているという考えは広く支持されているが、多くはこじつけである。
「ヨハネの黙示録」は、成立当時のネロやドミティアヌス帝治世を描いたものであるという。黙示録は、「堕落した現世の権力と天の完全なイメージ」を表そうとしている。
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4
・物語としての聖書
――したがって聖書は、実際に起きた出来事をならべて記したものではない。しかしそれはなお書物の形態をしていて、読む人びとに深い影響を与え、新しい読者をさらに獲得していく。事実の問題として、聖書が真実であろうとなかろうとそれにかかわりなくである。
聖書は、イスラエルの作者とその自称後継者である教会が、神についての信念を書き記したものだった。
果たして、聖書はつくり話と歴史と文学が混ざったものなのだろうか。
――物語のもつ力はその神性にあるのではなく、むしろ人間性にあるといってよいのではないだろうか。
沈黙……説明・描写の省略が、聖書の物語に力を与えている。読者は、書かれなかった空白について深く考えるようになる。
聖書の多くは物語でありフィクションだが、そこから人びとの物の見方を知ることができる。
物語の中では、多くの人間が神の幻を見たり、声を聴いたりする。
神の顕現……アブラハムは神に食事をふるまった。ソドムの挿話では、付き人を連れた神の姿が目撃される。一部の高位の人間が神に会うことがあった。
神の御使い=天使は様々な場面で登場する。
旧約から新約まで、「あらゆるところで神と出会える」世界観が貫かれている。
・神の文書
古代には、聖書と文学(ラテン語による異教徒たちの古典)とが峻別されていた。聖書のスタイルはあまりに粗野でぶっきらぼうに思われた。
文学として聖書を読むこともまた解釈の1つである。
・人間の真実
聖書において、女性は明らかに低い地位に置かれている。当時のユダヤ教における認識を反映したものである(そしてこれは後世の教会が原始キリスト教の男女平等志向を改変したものである)。
神の名のもとに、異民族を虐殺することがよしとされている。異教徒の作品であるギリシア悲劇やホメーロスにはない感覚である。
聖書の出来事はほぼすべてが必然であり、神の意志・意図である。
律法と、律法では解決できない事柄に関する善悪を提示する(タマルと義父ユダの話)。
ヘブライ聖書において、人びとは自分たちの神が必ずしも正義を行うわけではないこと、攻撃性を持っていることを認識していた。
聖書は、人間のあやまちと邪悪さを記した本である。そして、神はジェノサイドを推進する存在である。
――(聖書の真理とは)……イスラエルの人びとや最初のキリスト教徒たちが、あれやこれやをこんなふうに信じていたのだという真理である。