著者はオウム信者であり、地下鉄サリン事件その他の犯罪に関与したため無期懲役の判決を受けた。
本書では、生い立ちから、医者として働く生活、オウムへの入信、犯罪への加担までが書かれる。
全編にわたって、オウムの細かい教義や、ワーク(修行)の説明が続き、大変分量があり、読むのは大変である。
著者は、生きるとは何か、人生とは何か、世界に貢献するためには何ができるか、といったテーマを常に抱えていた。そのため、心臓外科医になったが、やがて阿含宗という新宗教に入信した。その後、オウムに移った。麻原も阿含宗にいたことがあったという。
治療や手術を通して人を助けることでは満足できず、修行や宗教的な活動をとおして、精神的な救済を達成しようとしたようだ。
しかし、決して無知ではない人物が、麻原のようなうさんくさい人物に帰依したのは不可解である。
オウムへの出家を決心した著者は、病院を辞め、家族と一緒に出家した。
その後、修行やオウム病院の経営(野方AHI)、選挙活動に励むうちに、組織が拡大していく。
坂本弁護士失踪事件や、信徒のリンチ殺人、信徒の家族の拉致、サティアンでの異臭騒ぎ、サリン検出など、オウムの正当性を疑わせるような出来事はいくつもあった。しかし、著者は自分に暗示をかけ、オウムの活動や麻原に対する疑念を打ち払おうとした。
著者が実際に関与したのは、野方AHIでの温熱治療(負傷者が出た)、ニュー・ナルコ(薬物を使った洗脳尋問?)、ポリグラフ検査(検査結果をもとに、スパイ容疑をかけられた信徒が殺害された)、假谷さん拉致への加担、地下鉄サリン事件でのサリン散布である。
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・著者は、オウム真理教を、「教祖とその弟子集団」のイメージで見ていた。また、不当な弾圧を加える国家権力を想定し、初期キリスト教にイメージを重ね合わせていたのかもしれない。
この本によれば、グルとその弟子とが個人的に奥義を授けるという形態は、チベット仏教ではよくあるものらしい。
・オウムの修行形態……麻原や教官たちが弟子を指導する形式から、手っ取り早く資格者(悟った者?)を増やすため、シールドルームでのヘッドギア電波・電気ショックによる悟り注入の形式へ(火傷が続発)。
・麻原たちは中国やチベットに研修旅行に行った。そのとき、麻原は自らを朱元璋の転生だ、等と告白した。
・麻原の武装組織方針……省庁制導入による指揮系統の整理、ロシアからの武器輸入、ロシアでの拠点構築、サリンやVXガスの製造など。
・オウム信徒は強烈な被害妄想にとらわれるようになった。
麻原や村井、遠藤、中川、青山ら、幹部たちはサリン製造や殺人の事実を知っていたが、かれらは、「サティアンの近隣からサリン攻撃をしかけられている」、「国家権力が弾圧しようとしている」、「阪神大震災はアメリカの兵器による可能性が高い」、「創価学会がオウムをつぶそうとしている」等の陰謀論を垂れ流し、著者もそれを信じていた。
・麻原が著者を地下鉄サリン実行犯に命じた理由は次のように推定される。
元々阿含宗での活動期間を合わせると、林は麻原よりも宗教的な造詣が深かった。また、医者としての知識を持っており、医学上のことについては麻原に反論した。
また、池田大作を罵倒し、一般人を拉致する麻原の行動は、林が抱くオウム真理教のイメージ……「修行を通して精神的に救済し、その教えを人びと全体に普及させる」というものとかけ離れていた。
麻原は、林に絶対的帰依が欠けていることを見抜き、過酷なテロを命じたという。
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地下鉄サリン事件後、自転車を盗んで逃亡したがすぐに捕まった。かれは当初、実行犯であるとは考えられていなかったようだ。麻原の黙秘指示や青山弁護士(オウム幹部)の組織論理に幻滅し、テロの全貌を自供した。
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◆メモ
ほかのオウム幹部と同じく、林もエリートの医師だった。
本書を読む限りでは、かれは精神的な空虚や孤独につけこまれたというよりは、自発的にオウムの教義に賛同し入信したように感じられる。
宗教的な過激派に入る者の多くは、社会で孤立しているか、個人的な問題を抱えている、という傾向がある
アルカイダやジハード団の構成員の多くが、高学歴や先進国出身者で占められていたのと似ている。
林は医師として勤務し、家族もいたが、外面からはわからない問題があったのだろうか。
あるいは、オウム信徒よりも、麻原とその組織に根本的な問題があったという考え方もある。
どんな人物であっても、多少非合理的な信仰を持つのはおかしいことではない。オウム幹部たちが信仰したのが、穏健な宗教ではなく、犯罪性を持つ武装組織だったことが決定的な違いだった。
それでも、麻原の風貌や、空中浮遊、尊師マーチ、オウムアニメ、幹部や信徒たちの映像を見て、何も思わなかったというのは理解が難しい。これらを真面目に受け取って、感動し、帰依する人も存在する。
世の中には自分とは考えの違う人たちもいるということを理解しなければならない。