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『ロシア宇宙開発史』冨田信之 その1

 気球の発明から有人宇宙船ヴォストーク(及びヴォスホート)までの、ロシアにおける宇宙開発の歴史を書く。

 

 1 気球からロケットへ

 気球は18世紀後半にフランスで発明された。これを受けて、ロシア科学アカデミーも有人気球の研究を推進し、限界高度や、上空の計測等を行った。気球に推進力を付けようと試みられたがうまくいかなかった。

 ロケット弾の起源は17世紀の中国軍だといわれている。

 ロシアにおいては、19世紀に軍人のザシャトコとコンスタンチノフが軍用ロケット弾を開発した。コンスタンチノフのロケット弾はクリミア戦争において用いられたが、元込め式線条銃の普及に伴い廃れた。

 キバリチチは帝政ロシア下で革命運動に従事し処刑されるが、一方でロケット推進で宇宙に行くアイデアを残した。ツィオルコフスキーは在野の科学者で、気球の設計を行っていた。かれはフョードロフの思想に影響を受け、人類が宇宙に進出し神と一体化するべきだと考えた。そのために、ロケット推進装置の構想を生み出した。

 1920年代には、ツァンデルらがロケット開発を行った。

 スターリンの時代になると、レニングラードの気体力学研究所とモスクワの反動推進運動研究グループの双方で、液体ロケット・エンジンの開発が進められた。それぞれ、グルシコ、ツァンデルがリーダーとして科学者たちを指揮した。

 モスクワの研究所はギルドと呼ばれていたが、設立後、セルゲイ・コロリョフが加入した。かれはグライダー研究家として有名であり、ギルドにおいてリーダーシップを発揮するようになる。

 1933年、トゥハチェフスキーによりロケット開発組織が一元化され、反動推進研究所となる。

 当該研究所は、固体ロケット、固体ロケット弾、液体ロケットエンジン、有翼ロケット、航空機補助ロケット、固体・液体推進薬の基礎実験等を担任した。

 しかし、1937年から始まる大粛清により、トゥハチェフスキーは処刑され、さらに反動推進研究所の幹部も多数が処刑されてしまう。

 グルシコとコロリョフも逮捕されるが、銃殺は免れた。グルシコは研究者向けの収容施設に送られ、コロリョフシベリアに送られた後モスクワに移送される。

 1944年、グルシコ、コロリョフを含むロケット開発関係者の刑期満了が認められた。かれらはカザン設計局で働いた。一方、反動推進研究所は、ロケットエンジン戦闘機の開発を行っていた。

 1944年、反動推進研究所は第1研究所と改称された。

 ドイツの宇宙開発がソ連に与えた影響について。

 ドイツでは、ヴェルサイユ条約の下で軍事力を強化するため、ベッカー将軍がロケット兵器の開発を推進し、将兵を大学に送り込んだ。

 同時期、民間の宇宙飛行協会には、後にアメリカでアポロ計画を成功させるフォン・ブラウンが加入した。

 1932年、フォン・ブラウンはベッカーの勧誘に応じ、陸軍兵器局職員となり、ベルリン工科大学で研究を続行する。

 ペーネミュンデに陸軍・空軍共同の試験場がつくられた。やがてヒムラーがA4ロケット開発の実権を握り、ミッテルヴェルクに生産拠点と発射場をつくった。

 ロケット生産と発射のために収容所の分所がつくられ、多くの囚人が労働に従事させられた。その大半は過酷な労働で死ぬか、終戦時に処刑された。

 A4ロケットの成果ははっきりしていないが、当該ロケットと、空軍がハインケル社と共同開発していたロケットエンジン戦闘機の設計は、ほぼすべてがソ連に持ち出されている。

 ドイツ敗戦にともない、米軍、ソ連軍の双方がロケット施設を占領し、資料を持ち帰った。

 

[つづく]

ロシア宇宙開発史: 気球からヴォストークまで

ロシア宇宙開発史: 気球からヴォストークまで