うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『ロシア宇宙開発史』冨田信之 その2

 2 ロケット開発

 ソ連はペーネミュンデとミッテルヴェルク、その他のロケット関連施設を捜索し、A4ロケットと技術資料、設計図等を持ち帰った。また、スターリンの政令によりロケット開発体制が作られ、ドイツの技術者もソ連に移送された。

 コロリョフを開発の主任とする体制が、ソ連宇宙開発の基盤となった。

 なお、航空機とロケットは似て非なるものであり、ソ連では大砲技術関係者や大砲関連の部署がロケット開発を受け持った。

 コロリョフ、グルシコ、ヤンゲリ、ミーシンといった技術者は互いに敵愾心をもやしながらも、相乗効果によって多くの改善がなされた。

 R1ロケットからR7ロケットまで開発が行われ、R7は後の宇宙船ソユーズ等の原型となった。この間、燃料の改善や、低振動の修正が行われた。

 当初ロケットは核弾頭搭載用に用いられた。

 飛行場は近隣の村の名前をとってバイコヌール飛行場(現カザフスタン領内)と呼ばれ、位置情報は名目上秘密にされたが、アメリカは見破っていたという。

 

 3 夢の実現

 フルシチョフは新しい物好きで、アメリカの人工衛星射出計画に対して対抗しようと思いついた。

 それまで、核兵器開発に専念していたロケット技術者たちは、宇宙開発の夢を口に出せる状況ではなかった。それがフルシチョフの意向によって一片し、オブエクト計画およびスプートニク計画が始動した。

 米ソの宇宙競争に際しては、平和外交を強調するため、開発の大部分を軍の組織と技術者に依存していることを隠ぺいした。また、宇宙活動の初期から、ソ連においては失敗が隠ぺいされた。それは「宇宙のうそ」の伝統として知られている。

 1958年から、スプートニク、犬のライカを乗せたスプートニク2号打ち上げが成功した。その後、月への打ちあてにも成功し、次は有人飛行の段階となった。

 宇宙飛行士の選抜が行われる一方、有人飛行機の開発が行われた。

 1960年末には、アメリカもマーキュリー計画を進行させていた。どちらが先に有人宇宙飛行を行うかは予測できない状況にあった。

 1961年、ガガーリン宇宙線ヴォストークに乗りこみ、世界初の有人宇宙飛行に成功した。続いて複数有人飛行機によるヴォスホート計画が実行され、2回の軌道周回に成功した。

 1964年にフルシチョフはクーデタにより失脚、宇宙計画は節目を迎える。

 

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 ソ連・ロシアは、パイオニアの描いた筋書に沿って宇宙活動を発展させてきた。その根底には、ロシアに根付くコスミズムの影響があるのではないかと著者は指摘する。

 ――コスミズムは、「すべての生物の宇宙的・全的統一をその研究の中心に据えた哲学的・宗教的思潮の総体」とロシアの百科事典では説明されているが、その背後には、神と人との一体化を説くロシア正教がある。

 その具体的な思想家はソロヴィヨフ、ヴェルナツキーらである。

 

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 技術的な説明については把握しきれない点があった。また、ロシアにおける思想と宇宙との関係については今後調べていきたい。

 宇宙を目指す技術者たちが政府や権力に翻弄されながら夢を実現させていく過程は興味深い。

 一方で、宇宙開発事業の裏で、多くの囚人が殺害、処刑されてきたことも認識しなければならない。

  科学者や研究者は、たとえ望まなくとも、現実――無慈悲な政治や戦争――と常に関わっていくしか道はない。

ロシア宇宙開発史: 気球からヴォストークまで

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