『吉田健一著作集 Ⅸ』に収録されていたもの。英語学習のアドバイスや、英国人と英国文化についての漫談。
この本は英語を勉強するときの参考になった。
「英語と英国と英国人」
著者によれば、外国語は外国語と開き直って取り組むべきである。
「外国人は一般に語学が達者であるやうに言われていて、その上にこれは事実である……一般に外国人は、外国語もただのそういう言葉として考えることに馴れている」。
「或る道に深入りすればする程、解らないことばかりになるのは英語に限ったことではないので、英語でもそうであるからと言って英語の道は人間の一生では究めつくせないという風なことが普通の人間にまで適用されるとなると、可哀そうに、英国人やアメリカ人は満足に口が利けずにいるうちに墓場に運ばれることになる他ない」。
英語の道などということを考えれば、「口を利く道、ものを書く道などというものまで認めなければならなくなる」。
手紙を書いたり、本を読むのに英語学の出る幕はない。
「読むのは、或る国語でかいてある本を二十冊も読めば、馬鹿でもその国語で書いたものが読めるようになる」、「大概の国語は文法を一通り暗記して、字引を頼りに本を読むだけで覚えられるもの」であるという。
「一般に教育というのがこれに反抗することで実を結ぶものである」ことを示すのが、英語であると彼は言う。受験勉強と英語が使えるようになることとはまったく関係がない。教育でみなが勉強できるようになってしまっては大学で落とされる人間の数が足らなくなってしまう。
――最低十一年間、それも子供の時から英語をやらされて、これで大学を卒業する時までに英語を覚えるかと言うと、その数があまり少ないので、覚えたものは大概、英語の先生にさせられた。
彼は英語学には懐疑的である。読み方を習い、文法と単語を覚えて文章を読んでいればつかえるようになる。英語だけは、特別な言語であると彼は言う。自信がつくとは上達したということである。
ジョオジ・バロオのことば「外国語を一つ新たに習う時は、その国語の聖書と猥本を読め」。そこで吉田は、猥褻本は手に入りにくいから探偵小説を読め、という。読者を釣っていく本と、広く普及していて内容を把握している本(聖書)を読むこと。
「英語が得意な日本人」は、もし日本語だったらうるさいと思われるくらいよくしゃべくっているという著者の観察に笑った。
「少なくとも英語を習いたての人間はゆっくり、ゆっくり話す。当たり前であって、我々は軽薄才子でない限り、日本語を話している際にもそんな、落語に出てくる野太鼓のような口の利き方はしない」。
「二世の通訳風の人間が一番、英語が旨いのだという結果を生じ」ることになる。
「大体、自分が日本人であることと、その日本人である自分が英語を話しているということを対立させることから出発して」いる。
「それ故に、日本で英語が旨い人間は、皆どこか様子が変である」。
会話に横文字を混ぜる人間が吉田は嫌いらしい。英語が上手い、という上手いの実体を明確にすることが大切である。
「聞いていて、テケテンドンドン、テンドンドンと鳴り響く太鼓に似た音を、眼をきょろつかせながら出すことが、或る言語に上達したことなのだろうか」。あくまで外国語とは外国人と交渉する際に使うもの、外国語で書かれた本を読むにあたって使うものにすぎない。英語が上手いということを求めたければ山奥にこもって一人でしゃべっていればいい」
「英語は読むのにも、話すのにも、解る為に覚えるもので、解ればそれでいい筈である……文学では、言葉は手段ではないが、英国の作品を読んで理解する為には英語が日常の日本語と同様に、全く一つの手段に過ぎないことを先づ頭に入れて掛る必要がある」。
読めるだけでなく、発声も学ぶ必要がある。文学においては「理解することが楽しむことなのである」。言語の主体をなすものは文学であると彼は書く。
「文学が本質的には一対一、一人の著者対一人の読者のものである」という原則。
――つまり、始めて或る国語を習うものは、仮に他の国語でならば高級な文学愛好者でも、その国語では文学に対しても初心者と見做す方が無理をしないですむのである。
劇作品や会話の多い小説は、教材に適している。
「英語がやっと解り掛けた人間に少なくとも何か訴えるものがなければ、シェイクスピアが英国随一の詩人である訳がない」。
文章を書くのがそんなに簡単なことならば、「文士という職業も成立しなくなる。第一、誰でもが出来ることを十年も二十年も掛って、やっと出来るようになるのであるならば、文士というのは低脳の別名に過ぎない」。
「そして勿論、この頃は学校を出ると直ぐ作家になる即席文士なるものがあるが、これは少女歌手のようなもので話が少し違う」。
「英語は一つのそういう抽象的な存在ではなくて、過去から現在に掛けて英語で語られ、又書かれた個々の言葉の集成が英語なのである」。
英作文をするより、「立派な文章をもっと読んだ方がいい」。「なるべく原文で本を読め」。
英語は、フランス語とも日本語ともとくに頭の働き方が違っている。
日本語とフランス語が近いのは、われわれの文学がフランス小説に大きな影響を受けているからである。また考え方もフランス的である。英語で読む際には英語で理解することを心がけよ。とくに英語というのは厄介な言語であるらしい。
「英語は英国の法律と同様に、原則と呼べるものが殆どなくて例外ばかりの言語で」ある。
「こういう言語は、詰め込み主義で行くのに限るので、公認された僅かながらの文法を生徒の頭に叩き込み、文章の分解をみっちりやらせて、それと同時にシェイクスピアでも何でも、なるべく解り易い文章を丸暗記させれば、後は生徒の方で勝手に読み始める所まで行く」。
「語学を最も的確に習う方法は、文学を通してである」。
――それから、ユウモア小説がある。日本にもこの種類のものが一時はあったが、笑っては文学ではないかして、この頃では全く見掛けなくなった。
曰く、英国ではどんなに社交的な人間でも究極的にはひとりぼっちである。英国ほど孤独であることが身にしみる土地はない。リイジェンス・パークの動物園にいるコモドオオトカゲと鰐はともに恐竜時代の遺物である。
吉田が訪れたときのロンドンでは、庭付きの家をもつなどどんな上流階級でもかなわぬことだったという。そのぶん、大きな公園がいくつもあるというわけだ。
「英国人は骨の髄まで動物が好きなのである……誰も動物だの鳥だのをいぢめるとか、取って食うなどということもないから、リイジェンツ・パアクのみならず、どこの公園にも普通は都会で見られないような野鳥が群生していて、ハイド・パアクには鳥類学者のW・H・ハドソンの記念碑が立っている」。
コモンという共有広場。コックニーなまりのロンドン下町っ子はhの発音ができないという。イギリスの冬は寒く、家は暗く寒い冬を越すためにつくられる。炉辺の幸福というのはイギリスの不完全な暖炉にみなが寄り添うところから生まれたのかもしれないと吉田は書く。暖かい国土、南方の血を引くフランス人との生活の違い。英国ではクリスマスは家族親戚で楽しく過ごす。冬を越えるために料理は質より量を重視する。英国ではクリスマスはまず子供のための日である。
英国の冬は陰惨であり、だからこそ夏はすばらしいものだ。このことが、英国人が天気の話ばかりをする要因なのである。
「併し英国の冬を通して待っていることは、ただ堪えていることにもなり、冬にも等しい光がない世界で、ただそこに人間として生まれた為に生きて行く人間の記録がハアディイの文学である。ハアディイの思想の背景には、英国の冬があることを我々はいやでも感じさせられる。そしてこれが英国の自然から生れたものの見方であっても、人間の世界で始終浮かれてばかりいられない以上、遂にはただ生きている為に生きて行くことになるのが真実であることに変わりはない」。
――一般に英国では昔から下のものが上のものにひどい目に会わされるということが少なくて、或は会わされた場合、それを黙ってそのままにして置くには国民の自尊心が強過ぎた。清教徒が起こした大内乱が成功する国柄であって、この時、国民の大半が、貴族も含めて、清教徒側に付いたことを忘れてはならない。英国では、帝王神権説が真面目に信じられた験しがないのである。
英国人は登山、探検、航海が好きでありまた飲み食い、火に当たるということも好きである。
英国人は一年中ビールを飲み、その収入で海軍の建造費と維持費がまかなえる。気候風土もまた思考に大きく影響する。
英国料理はフランス料理から来た。フランスは悪政によりたびたび飢饉に見舞われており、「蝸牛だの、蛙だのの料理は、それが工夫された当時の食糧事情がどんなだったかを我々に思わせる」。
――英国には優れた文学があるが、同時に英国人の一部にはひどく文学を軽蔑する傾向がある。綺麗な詩を書いた所で何になるという態度であって、従ってシェイクスピアもこの傾向の対象にされることを免れてはいない。それだから優れた文学が生れるという見方も出来るので、本ものの作品を書かなければ通らず、そういう作品を愛読するものは、一方には文学などに眼もくれない人間がいるだけ、文学に対する理解と批評眼があって、作品を書くものにとっても仕事のやり甲斐がある反応を示す。
文学にまったく興味のない英国人もシェイクスピアはとりあえず天才だという。そして学校の教材になるのだが、「シェイクスピアは第一に、教材になっているということだけで読む興味が半減し、或は全く失われる」。