うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『公安警察スパイ養成所』島袋修

 昭和49年から59年にかけての、かなり古い時代の公安警察に関する暴露本。

 石垣島出身の沖縄県人であるということで、米軍、日本政府と県民の間に軋轢が存在する点が特殊である。

 

 ◆メモ

 現在でもなお共産党対策に莫大な予算と人員が使われているのは、果たして適正なのだろうか。一度予算を減らすと増やすのは非常に難しいため、そのまま現状維持を追求しがちである。

 公安警察の建前は「民主主義の擁護」だが、その手段は、主権者たる国民にはとても公表できないものである。

 情報機関や政治警察の根本問題は、主権者たる国民が実態を認識できないこと、予算の使い方が適切なのか判断できないこと、恣意的な運用に対する歯止めが困難な点にある。

 

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 著者は拓大卒業後、沖縄県警に採用された。

 

 ――警察に入った動機は、「正義」の二文字に魅かれたからである。学生時代、中核派の学生たちと衝突したことなどから、当時の私は、なんとか社会の秩序を守らねばならぬという使命感、正義感に燃えていた。

 

沖縄県警察本部警備部警備課調査一係の任務:共産党及び民青同(民主青年同盟)の監視、スパイの作成。

・スパイ養成……お金を工面する、見舞金を渡す、家賃を肩代わりする等。

 スパイを通じて共産党文書を入手したことで出世し、警察大学校警備専科教養講習へ入校することになった。

・教育内容……写真撮影、盗聴、尾行、張り込み、隠し撮り、

共産党への徹底的な敵意を植え付ける教育

 

 スパイ養成の過程:基礎調査、接触、身分開示(警察官であることを打ち明け、協力を要請する)

 身分開示、身分偽り、未成年者・女性・前科者との接触は、警察庁の事前承認が必要だった。

 工作のための謝礼は予算から出るが、しばしば自腹を切った。

 スパイ養成が第1課題だが、自ら党員となって潜入するという活動は本書では言及されていない。

 

 警備警察の思想教育……共産党は、国民のためにつぶさなければならない。公安はナショナルなもの、民主主義を守るためのものである。すべては国民のために行う。自分たちを評価するのは歴史である。

 

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 共産党は特に教育界に組織基盤を持っている。

 共産党は防衛委員会と調査委員会という独自の防諜組織を持ち、警察・公安調査庁のスパイ摘発に努めている。

 以下、共産党機関紙からの引用が続き、公安のスパイ工作に気を付けようという党の認識が示される。

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 警察の裏事情について。

 在職中に見聞きした警官の様子が書いてあるが、ほとんど引退老人の漫談である。

 

・興信所、暴力団、右翼とはつながりがあり、犯罪歴や個人情報の提供が行われている。

・沖縄の右翼には、住民の生活を守るため基地反対運動に対抗する組織もある。

 

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 ――正直者がバカを見た。正直者がバカを見ない職場環境をつくること、と前警備部長が言っていた。しかし現実はゴマすりのみ。ゴキブリ出世主義にはついていけない。

 

 著者は公安勤務がもとで借金をつくり、また精神的にもダウンし退職する。

 その後はうさんくさい興信所や芸能プロダクション設立などを経て、いまは歌手になっているという。

 

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新装版 公安警察スパイ養成所 (宝島SUGOI文庫)

新装版 公安警察スパイ養成所 (宝島SUGOI文庫)

 

 

『The Ghost of Freedom』Charles King その5

 ◆ソ連時代から現代、おわり

 

 第2次世界大戦では、グルジア人のソ連邦英雄も現れた。

 一方、北コーカサス部族(チェチェン、イングーシ、カラチャイ、メスへティア・トルコ、クルド)は、ドイツに協力したとして、カザフスタンシベリア強制移住させられた。同様の処分が、ウクライナのドイツ人やポーランド人にも科せられた。

 

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 5 厄介ごとの時代

 スターリン以後のコーカサスの政治家……アルメニアのデミルチアン(Demirchian)、アゼルバイジャンのヘイダル・アリエフ(Heydar Aliyev)、グルジアのシュワルナゼ(Shevardnadze)等は、独立後も国の指導者として力を保持した。

 

 兄弟とライバル

 革命に伴う飢饉や、物資の欠乏した社会主義経済下においては、個人のコネがものをいう。このため、伝統的な部族社会や地域共同体が、ソ連時代を通して強化されることになった。

 汚職、賄賂、縁故は深刻な問題だった。

 また、ソ連時代を通じて、各共和国における民族の純粋化が進行した。戦後の大規模な暴動3つは、すべてコーカサスで発生している。

 

 土地と闘争

 南コーカサスにおける、独立後の紛争について……ナゴルノ=カラバフ(Nagorniy Karabakh)、アブハジア南オセチア

 民族紛争の原因の多くは、ソ連時代につくられた民族意識と、当時の政治家たちの強硬姿勢や、社会構造にある。

 回避できたはずの戦争は、いまでは、民族対立の歴史の一部、歴史の必然として書き換えられている。

 ロシアが承認したコーカサス諸国の独立を、コーカサス諸国は国内地域に対しては承認しなかった(グルジア領内のアブハジア南オセチアや、アゼルバイジャン領内のナゴルノ・カラバフ)。

 

 だれの国、だれの国家か?

アルメニア……ソ連時代のエリートと、亡命者たちとの間に溝があり、またアルメニア国民も出身によって分裂している。シリア出身のテル・ペトロシャン(Ter-Petrosyan)からナゴルノ・カラバフ出身のコチャリャン(Kocharyan)へ。

アゼルバイジャン……ソ連時代の指導者ヘイダル・アリエフが、共産党KGBのコネクションを活用し長期政権を築いた。かれは2003年に、息子のイルハム(Ilham)に権限を委譲した。

グルジア……理想主義者・夢想家の言語学者ガムサフルディア(Zviad Gamsakhurdia)が退陣し、元ソ連外相シュワルナゼが政権につき、国家安定に努めた。

 ここでも、アゼルバイジャンと同様、シュワルナゼ個人に忠誠を誓うコネクションが支持基盤となった。

 グルジアソ連でもトップクラスの腐敗国家だった。シュワルナゼ退陣後、欧米派のサカシヴィリ(Saakashvili)が大統領となり、汚職の一掃を唱えた。

 

 悲劇的な北部

 1994年と1999年のチェチェン紛争について。

 エリツィンは分離主義の動きを阻止しようと軍を派遣したが失敗した。一方プーチンは、いくつかの方策をとることで戦争を有利に進めた。

 

・志願兵を中心に構成し、世論の反対を抑える。

テロとの戦い、国際ジハード主義との戦いを強調する。

・地域勢力の懐柔を行い、チェチェン人対チェチェン人の紛争に変質させる。

 

 二度の紛争により、チェチェンの若者たちは犯罪や戦争に頼って生きるようになった。また、ロシア軍、チェチェン人双方による誘拐や不正な金儲けが蔓延した。

 北コーカサス諸国は依然不安定である。しかしその原因は、古代から続く宗教・民族対立ではなく、ソ連の政策である。

 チェチェン独立派の指導者たち……ジョハル・ドゥダエフ(Dzhokhar Musayevich Dudaev)、ヤンダルビエフ(Yandarbiev)、マスハドフ(Maskhadov)、シャミル・バサエフ(Shamil Salmanovich Basayev)、アフマドとラムザン・カディロフ(Kadyrov)

 

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 結論:大陸変動

 終章:友、敵、パトロン

 

南コーカサス三国は、地理的な障壁を越えて、ヨーロッパの枠組みに入ろうとしている。ヨーロッパとは、いまや単に地域を指すのではなく、民主主義、市民の自由、人権といった価値を重視する考え方を含む。

・ロシアは自分たちの勢力圏を守るために、北コーカサスの分離主義を弾圧するだろう。また、南コーカサスに欧米が介入することも許さないだろう。

・ロシアは、国連を合衆国と欧州の隠れ蓑とみなしている。そのため、2008年のグルジア紛争の際も、国連勧告を無視した。

 コーカサスは地域対立と、帝国主義、国外の介入勢力(ロシア・合衆国)が交錯した世界でありつづけるだろう。

 

The Ghost of Freedom: A History of the Caucasus

The Ghost of Freedom: A History of the Caucasus

 

 

『The Ghost of Freedom』Charles King その4

 ◆近代化からロシア革命を経て、ソ連の時代へ

 

 19世紀後半から始まったグルジア人のナショナリズムは、地方エリート、ブルジョワ・リベラルに分かれ、いずれも西洋からの影響が強かった。

 20世紀初頭、より過激な若者たちがマルクス主義から影響を受け、第3の派閥をつくった。かれらの多くはティフリスの神学校出身だった。

 ロシア化に対する抵抗という点で、グルジアナショナリズム社会主義運動との親和性が高かった。

 

 アゼルバイジャンの首都バクーは、ゾロアスター教徒天然ガスからのぼる火を崇めたのが起源である。

 19世紀には、外資による油井開発が進み栄えていた。カジノやクラブなどがつくられ、ムスリム文化も興隆した。

 一方で労働争議の頻発に併せて、ムスリムアルメニア人との対立が深刻化した。かれらはお互いにポグロムを行った。

 

 戦争の利用

 第1次世界大戦はコーカサスの民族紛争を激化させ、後々まで大きな爪痕を残した。

 クリミア戦争と1877年からの露土戦争によって、コーカサスはロシア支配が優勢となっていた。

 第1次大戦が始まると、ドイツはオスマン帝国と協調し、ロシアを攻撃しようとした。しかしオスマン帝国軍の攻勢は失敗したため、トルコ人たちは原因を敵対的な異教徒……アルメニア人、アッシリア人(Assyrian)に求めた。

 こうして、東アナトリアにおけるアルメニア人虐殺(アッシリア人も含む)が始まった。

 19世紀末から、オスマン皇帝の指示により、クルド人(Kurds)非正規兵やコーカサス部族がアルメニア人を虐殺していた。

 第1次世界大戦ではオスマン帝国軍もこれに加わった。大戦を通じて80万人から150万人のアルメニア人が殺害された。虐殺は処刑、強制移住等により行われた。

 一連のジェノサイドにより、アルメニア人はエレバン、シリア、イラク、ロシアに逃れ、一方、ロシア領やギリシアからはムスリムが逃げ出した。

 

 幻の共和国

 1917年の2月革命とその後の10月革命により、ロシアではボリシェヴィキ(Bolsheviks)政権が成立した。コーカサス社会主義者(多数はメンシェヴィキ(Mensheviks))によるトランスコーカサス政府は、ボリシェヴィキ政権に対立し独立を宣言した(ザカフカース民主連邦共和国Democratic Federal Republic of Caucasus)。

 レーニン(Lenin)らは、ブレスト・リトフスク条約によって、コーカサス領土をトルコに売り渡そうとしていたため、コーカサス共和国はトルコとの戦争を継続した。

 しかし、民族ごとの意見の違いにより1918年内に共和国はグルジアアルメニアアゼルバイジャンに分裂した。

 

・ノエ・ジョルダニア(Noe Zhordania)……メンシェヴィキグルジア民主共和国の創設メンバー

・ダシュナク党(Dashnak)……アルメニア革命連盟

・ミュサバト党(Musavat)……アゼルバイジャン共和国

 

 グルジア民主共和国では、メンシェヴィキが多数だったものの、権力は民族・宗派ごとに分裂していたため、統一の原動力とはならなかった。ボリシェヴィキは活発な地下活動を続けた。

 白軍のデニーキン(Denikin)将軍がグルジアを攻撃したため、共和国は国家予算の半分を使い、白軍、トルコ、ボリシェヴィキと戦わなければならなかった。

 グルジアでは一時期、穏健な社会主義政権が生まれた。アゼルバイジャンは民族対立がやまず、アルメニア人を中心としたボリシェヴィキムスリム政党を追放した。アルメニアでもボリシェヴィキが権力を掌握した。

 1921年までに3ヶ国ともボリシェヴィキに制圧され、ソ連に編入された。

 

 追放

 コーカサス諸国のナショナリストや活動家は亡命し、祖国奪還を目指したが成功しなかった。

 アゼルバイジャンアルメニアの国家意識は近代以降のものである。

 

 アルメニア人が元々、東アナトリア――トルコ人の虐殺等により追放された――に住んでいたのに対し、今日のアルメニア領土は、ムスリム住民が多数を占めていた。

 かれらは中世以来、商業に秀でており、国外で活躍してきた。
 亡命者たちは絶えず暗殺の危険にさらされた。メンシェヴィキたちもソ連の刺客によって多数が暗殺された。また、アルメニア人テロ組織は、1970年代、80年代にトルコに対しテロを行った。

 

 浄化

 スターリンはノエ・ジョルダニアより若干後に生まれた。

 スターリン自体には、コーカサス人という特性を想起させる要素はない。かれは友人や家族に対しても冷酷であり、責任感がなく、コーカサスに貢献しようともしなかった。

 かれはコーカサスには民族自決を適用せず、ロシア帝国と同様に分割統治を行い、共産党員を総督として据えた。

 ソ連の歴史において、民族問題は矛盾をはらんでいる。それは、同化と民族意識の発揚が並存する歴史である。

 民族分布に基づかない分割は、ソ連崩壊後に致命的な紛争・対立を引き起こした(ナゴルノ=カラバフ、ナヒチェヴァン、アブハジア南オセチア)。

 

 1930年代の粛清に加担したラヴレンチー・ベリヤ(Lavrenti Beria)は、グルジア出身の少数民族ミングレル人(Mingrelian)であり、スターリンを賛美することで出世した。

 かれはグルジア共産党指導者となり、大多数の政治的ライバルや地方エリート、社会主義者を抹殺した。かれの個人的寵愛を受けた共産党員も、同様に政敵を抹殺した。

 [つづく]

 

The Ghost of Freedom: A History of the Caucasus

The Ghost of Freedom: A History of the Caucasus

 

 

『The Ghost of Freedom』Charles King その3

 イマーム(Imam)と総督(Viceroy)

 アヴァール人の王族、ガジ・ムハンマドの子孫であるシャミール(Shamil)は、ダゲスタン・チェチェンにおいて、ロシアに対し長期の抵抗戦を行った。

 シャミールはイマームを名乗り、スーフィー教団を基盤として、蜂起した。しかし、かれの影響力は限定的である。敵対する部族や、シーア派、ロシアに帰順する人びとは、シャミールには従わなかった。

 

 1820年代、ノヴォロシア(New Russia, 黒海沿岸部)の総督(Governer-General)を務めたヴォロンツォフ(Vorontsov)将軍が、1844年、コーカサス副王(Viceroy)に任命された。

 かれは組織的なシャミール軍鎮圧作戦を行った。ティフリスを基盤に、対反乱作戦(Counter Insurgency)を行うとともに、コーカサスのインフラ整備、文明化を行った。諸部族をうまく懐柔し、シャミールの切り崩しを狙った。

・シャミールはオスマン帝国に支援を求めたが成果はなかった。

・1854年、クリミア戦争(Crimean War)が始まり、ヴォロンツォフの戦力は縮減された。オスマン帝国の弱体ぶりが目につき、コーカサスの反乱には寄与しなかった。

・シャミールは1859年に降伏し、モスクワで余生を送った。かれはコーカサスの英雄として伝説となったが、以後も、山岳部族の抵抗が終わったわけではなかった。

 

 残る部族

・北西部のチェルケス人たちは独立心が強く、オスマン帝国からロシアに領土が移譲された後も、支配者に対し抵抗を続けた。

・イギリスはグレート・ゲームの一環からチェルケス人たちの支援を目論んだ。

 ロシアによるチェルケス人の強制移住により、多数の山岳部族が黒海沿岸、東アナトリア(Anatolia)に移った。その過程で大量死や、虐殺が発生した。

・戦争相ミリューチン(Milyutin)、コーカサス総督バリアチンスキー(Baryatinsky)。

 

  ***

 3 想像のコーカサス

 コーカサスがロシアや欧州諸国に与えた文化的影響について言及する章。

 

 高地人(the Highlander)の創出

・18世紀、サンクトペテルブルクを出発した2人のドイツ人……ギュルテンシュタット(Guldenstadt)とクラップロート(Klaproth)はコーカサスの研究を出版した。ギュルテンシュタットの研究は、チェチェン、ダゲスタン、カバルダ等の地名と領域を後世に残した。

・ロシア人ブロネフスキ(Bronevskii)は、1823年、様々な研究をまとめ、ロシア人向けの地理学誌を出版した。その著作はコーカサスのイメージに影響を与えた。

 囚人、余計者(Superfluous Men)、陰気者(Mopingers)

・19世紀になり、ロシア、西欧から多くの旅行者がコーカサス地方を訪れた。ピャチゴルスク(Pyatigorsk)は温泉として人気を集めた。

プーシキン(Pushikin)の「コーカサスのとりこ」について。

レールモントフトルストイの描くコーカサス

 ティフリスへの護送(Convoy)

 1820年には、ピャチゴルスク北コーカサスの一部は温泉として栄え、またティフリスへ向かうグルジア軍道(Georgian military highway)沿いには、友好的なオセチア人らが住まわされ、危険が除去された。

・テレク川(Terek River)沿いのモズドク(Mozdok)要塞……現在の北オセチア(North Ossetia)北部にある。

 

 戦争が行われる一方、コーカサスの一部は観光地、安全な道路に変貌した。

 19世紀末には鉄道が敷かれ、野蛮な部族の跋扈する危険な地帯というイメージは徐々に失われたものとなった。

 

 「高地から得られるものがある」

 コーカサスの山々……エルブルス(Elbrus)、ウシュバ(Ushba)、シハラ(Shkhara)、カズベキ(Kazbek)と、登山家について。

 イギリスの登山クラブによる山の踏破と、遭難事故について(Victorian Alpine Club)。

 

 エロスとチェルケス人

 特にチェルケス人は、性的なイメージの象徴として扱われることが多かった。

 「アラビアのロレンス」でロレンスをレイプするトルコ人は、かれに「チェルケス人か」と尋ねている。

 19世紀後半には、コーカサス地方の研究や理解が深まり、「高地人」というくくりは消滅した。

  ***

 

 4 国家と革命

 バザール(Bazaar)と新興都市(Boomtown)

 コーカサスは3つの帝国の緩衝地帯にあり、地形により分断されていたため、大都市が生まれなかった。

 今日の都市のほとんどは、ロシア帝国の前哨基地である(ウラジカフカス、グロズヌイ等)。

 例外的に古くから発展した都市が、ティフリス、バクー(Baku)である。ティフリスはロシア帝国の行政の中心として、バクーは油井開発によって急成長した。

 ティフリスにはロシア帝国領から様々な民族が移住し、人口は激増した。特に、人口比では3位のアルメニア人が経済的な覇権を握った。

 

 [つづく]

 

The Ghost of Freedom: A History of the Caucasus

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