うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『The Ghost of Freedom』Charles King その2

 防衛線(the Line)での生活

 

・19世紀初頭までのロシアの辺境統治政策は、コサックを住まわせ砦を拠点として防衛させるというものだった(防衛線政策)。

・実際には、コサックたちは辺境の民、山岳部族(the Mountaineers, the Highlanders)と交流していた。

 戦闘のあった次の日には、チェルケス人が砦のなかをうろつく風景が見られた。

・コサックと部族たちは、宗教、言語、習俗の点で交わり、また結婚や脱走(Desertion)による移動もあった。かれらを明確に区別するのは難しかった。

・加えて、ロシア兵たちもコサック、コーカサス人と交流し、国境に溶け込んでいった。

 

 「エルモーロフが来る!」

・エルモーロフ将軍(Aleksey Petrovich Yermolov)は無慈悲で容赦ない征服者として有名である。

 かれはコーカサス戦争を指揮し、文明化という名の虐殺、破壊、追放(Deportation)……一連の国家テロを遂行した。

・かれは1816年、グルジア行政長官に任命された。近代兵器を使いコーカサス征服を行い、1818年に前進基地グロズヌイ(Groznyi, 恐怖)を建造した。その後も砦の建設を続けた。

・かれは砦を越えてさらにコサックを前進させる作戦をとった。

・全面的な征服のため、暗殺、誘拐、強制移住、虐殺といった手段が用いられた。

 

 ――エルモーロフは次のように反論した。情けは弱さのしるしととられるだろう。ロシア軍は、あらゆる種類の残虐行為によってのみ、山のムスリムたちからの、尊敬のまなざしを得られるだろう。

 

・1820年代後半、ペルシアとの戦争、直後のオスマン帝国との戦争が行われた。しかし、エルモーロフは、1825年のデカブリストの乱(Decembrist revolt)への関与を疑われ、1827年、皇帝によって更迭されていた。代わって、パシュキエヴィチ(Ivan Paskevich)が戦争を指揮した。

・大国同士の戦争の間、コーカサスの諸民族たちも内紛に明け暮れ、ロシアに対して組織的な抵抗をしなかった。

 

 捕虜

・捕虜(Captive)はコーカサスにおける特徴的な風習である。

・諸民族は、身代金(ransom)や、抵抗の一環として捕虜をとった。コサックたちも、対抗するために捕虜をとった。

コーカサス人は捕虜や誘拐したロシア人を奴隷商人(Slave trader)に売り、資金を得た。奴隷は主にオスマン帝国で売買された。

コンスタンティノープル(Constantinople)には大きな奴隷市場があった。

オスマン帝国の野蛮な文化である点、また、コーカサス諸部族の資金源になっている点から、ロシアは奴隷制に反対した。

ロシア海軍黒海沿岸をパトロールし、奴隷船を見つけては拿捕した。しかし、奴隷たちは故郷へは帰れず、シベリア(Siberia)へ送られたり、売春宿へ送られたりした。

 このため、「ロシア人によって自由の身になるより、オスマン帝国や富豪の家で奴隷になるほうがいい」という言葉もささやかれた。

コーカサスの女性のなかには、山での貧困や飢えよりも、富豪や権力者の奴隷になることを望むものもあった。

・捕虜は改宗(Renegade)することもあれば、抵抗し、自分の信仰を守ることもあった。また、脱走を繰り返すもの、安楽に暮らすものとがいた。

 

  ***

 2 支配と抵抗

 コーカサスイスラームは一様ではなく、近代以前には、宗教的な反乱はあまり例がない。西部はトルコ・スンニ派の、東部はペルシア・シーア派の影響が長く残った。また、北コーカサスにおいては、スーフィーが普及した。

 中世以来、ナクシュバンディ教団が政治的連帯の単位となり、18世紀には、政治的・軍事的活動に重点を置いたミュリディズム(Murid)がチェチェン、ダゲスタンで広まった。

 

 ミュリディズム(Murid)

 18世紀後半の、マンスール(Mansur)によるミュリディズムを基盤とした反乱、1830年代、ガジ・ムハンマド(Ghazi Muhammad)の蜂起について。

 ガジはイマーム(Imam)を名乗ったが、その後継者は当時のアヴァーリスタン(Avaristan)の女王とその一族を殺害し権力を奪取したため、周辺部族から王位簒奪者とみなされ殺害された。

 イスラームにおける部族同士の戦いは、常に皆殺し・無差別殺戮(Fratricide)を伴った。

 

 襲撃と報復

 ロシアによる侵略には3つの方法があった。

・懲罰作戦……敵を殺害する。要塞への襲撃に対する反撃、報復。

・集落の襲撃……村を焼き、畑を破壊し、家畜や作物を奪うか破壊する。これは住民を敵に回すことが多かった。しかし、山岳部族たちも、お互いに、敵対する部族や集落に対して同様のことを行った。

・地形作戦……ロシアの新しい作戦として実行された。森を焼き、茂みを焼き払い、道路をつくる。これによりコーカサス人たちの地の利を奪う。

 ロシア遠征隊の編成……前後に軽野砲、中央に兵站、重砲、周囲に歩兵、さらに分散し狙撃手がつく。

 コサックやコーカサスの戦士に比べ、ロシアの正規軍は、赤色の目立つ軍服を着ており、格好の標的となった。

 [つづく]

 

The Ghost of Freedom: A History of the Caucasus

The Ghost of Freedom: A History of the Caucasus

 

 

『The Ghost of Freedom』Charles King その1

 ◆紹介

 政治権力、民族、宗教、言語が複雑に入り乱れるコーカサス地方について、歴史をたどりながら概説する。

 歴史上のエピソードや、各民族ごとの違いなどが書かれており、コーカサス世界の多様性を知ることができる。

 以前ジョージア共和国を旅行したときは、この本で身に着けた事前知識が参考になった。スヴァン人――あまりに僻地に住んでいたために、チェチェン人やダゲスタン人よりも後代、最後にロシアに降伏した――の居住地域にも行くことができた。

 いずれ北コーカサスにも行ってみたいという気持ちが強くなった。

 

 著者のチャールズ・キングはアーカンソー出身の国際関係学者で、オックスフォード大で博士号を取得した。現在はジョージタウン大学の教授である。コーカサスや東欧情勢に関連してニュース番組やヒストリー・チャンネルに出演することがあるという。

 

 ◆コーカサスの民族分布

File:Caucasus-ethnic ja.svg - Wikimedia Commons

 

  ***

 概観

 

・北西部、クバーニ川流域(Kuban)にはアディガ(Adyga)またはチェルケス(Circassian)と呼ばれる農耕牧畜民が、トルコ人とともに住んでいた。かれらは概ねイスラム化された。

コーカサスの中央に南北オセチア(Ossetia)がある。オセット人は、ロシア帝国によって、イスラム教徒との緩衝にされたキリスト教徒である。

・その東方に、チェチェン人(Chechenya)、イングーシ人(Ingushi)が住んでいた。かれらはイスラムと折衷主義、またスーフィズム(Sufi)を信仰した。

・スヴァン人(the Svans)やカハル人(the Khevsureti)は、チェチェン人よりも強硬な抵抗を続けた。

・19世紀の反乱の中心は、チェチェン東方のダゲスタン(Dagestan)である。

・ダゲスタンの南にアゼルバイジャン(Azerbaijan)があり、ペルシア隷下のハーン(the Khanates)たちによって統治されていた。

アゼルバイジャンの西は、カルトヴェリ語(Kartveli)を話す人々……グルジア人(Georgian)、ミングレル(Mingrelian)人、スヴァン人、ラズ人(Raz)の土地である。

・中世グルジアの王国……東部のカヘティ(Kakheti)、中部のカルトリ(Kartuli)、西部のイメレティ(Imereti)

グルジアの南にアルメニア(Armenia)がある。

コーカサスの人びとは、ロシア帝国のコサック(Cossack)たちとも混交した。

 

 文化、生活様式、言語、宗教など、あらゆるアイデンティティは流動的である。

・地理的には、南北よりも東西の分断の方が大きい。ロシア帝国の進入以前は、西部はトルコの、東部はアラブとペルシアの影響下にあった。

ナショナリズム国民意識の変動……アルメニア人はオスマン帝国内でも最も特権的なキリスト教徒だったが、19世紀末以降の虐殺を経て、共和国として独立した。

グルジアという領域は中世以後消滅していたが、やがて統一した国家として復活した。

アゼルバイジャンという名は20世紀までアイデンティティとして認識されていなかった。

・チェルケス人はいまはロシアに忠実だが、チェチェン人は今日、もっとも血塗られた闘争を展開している。

・ロシアに帰属し、スターリンら多くの政治家を輩出したグルジアは、いまは反露国家である。

アゼルバイジャンシーア派(Shia)だがトルコとは友好的である。正教国家アルメニアもまたイランと友好関係にある。

・アジアの3つの帝国……ロシア、トルコ、ペルシアがコーカサスの政治を支配した。

・多くのロシア人、ヨーロッパ人芸術家・学者たちが、コーカサスに関心を持った。

 

  ***

 1 帝国と境界

 帝国の夢

・前近代において、国境は地図のような明確な線を持っていなかった。

 領土とは、橋や川、峠などの要衝であり、支配者は外国人の侵入ではなく、領民の流出を警戒した。

・18世紀には、ペルシアの影響力が弱まった。それまではトルコが力を持っていたが、16世紀以降、ロシアが強大化しつつあった。

・18世紀……ペルシアはサファヴィー朝(Safavd)からカージャール朝(Qajar)へ

・1801年、ロシアのアレクサンドル1世(Alexander 1)がグルジアを併合すると、各地で反乱がおきた。しかし併合は進み、1810年代にはグルジアアルメニアがロシア領となった。ロシアはウラジカフカス(Vladikavkaz)からティフリス(Tiflis)までをつなぐグルジア軍道を整備し、ペルシアと、その背後にいるイギリスに備えた。

・ロシア、トルコ、ペルシアの戦争

 

 王とハーン(Khan)

コーカサスには多数の王、ハーン、地方ボスが割拠していた。

北コーカサスの人びとは、生活様式、衣服、慣習では共通点を持っていた。しかし、部族社会にはそれぞれ相違点がある……ダゲスタンはイスラームであり、チェチェンアブハジア(Abkhaz)は伝統的なアニミズムの要素を保持していた。

・社会構造の違いが、ロシアの征服戦争に大きく影響した。

 カバルダ(Kabardian)やグルジアには、中央集権的な権力者が存在した。一方、ダゲスタンの支配者の力は弱く、またアヴァール(Avar)やチェルケス、チェチェンでは、権力は分散していた。

・封建構造の強い地域では、ロシアの侵略は、中枢を抑えることでうまくいった。ロシアの貴族制度は柔軟であり、占領した諸国の貴族階級をうまく吸収することができた。

 一方、分散した権力構造の地域、部族社会では、全方位にわたって制圧をしなければならなかった。

 [つづく]

 

The Ghost of Freedom: A History of the Caucasus

The Ghost of Freedom: A History of the Caucasus

 

 

『ユーゴスラヴィア現代史』柴宜弘 その2

 4 戦後国家の様々な実験

 チトーの社会主義は自主管理・非同盟・連邦制を特徴とする。

 チトーの政策が最終的にユーゴ解体に至った原因について。

 

・連邦制の下、民族の平等が唱えられたが、あくまで理念であり紛争の種は残った。

・土地改革……対独協力者からの接収

・企業の国有化

 

 48年、ソ連は、ユーゴをコミンフォルム共産党・労働者党情報局)から追放した。これは、ソ連の方針にチトーらが従わなかったことが原因である。

 ユーゴは労働者自主管理・非同盟を軸に独自の社会主義建設を始めた。東欧圏からの追放を受けて、ユーゴはアジア・アフリカ諸国との関係構築に努めた。

 スターリン死後の雪解け時代には、ソ連との国交正常化が行われた(53年)。

 60年代、経済自由化が地域・民族ごとの格差を深めた。また、秘密警察トップのセルビア人ランコヴィッチが失脚したことで、民族運動が活発化した。

・74年憲法による国家連邦体制

 

 5 連邦解体

 80年チトーが死亡し、以後、国家の分裂解体が進行した。

セルビア共和国コソヴォ自治州において、住民の多数を占めるアルバニア人の暴動が発生した。

ミロシェヴィッチセルビア人の不満を吸い上げる形で台頭し、連邦制強化を目指した。コソヴォ問題は深刻化し、死者を伴う暴動や抗争が多発した。

・経済的に発展したスロヴェニアは、セルビアの統治に不満を持ち、コソヴォを支援し、独立を主張した。

 

 91年、スロヴェニアクロアチアがそれぞれ独立(自立)宣言を行った。

 ――……ユーゴ解体の引き金となったスロヴェニアクロアチア両共和国の「独立宣言」は実際には、連邦あるいはセルビア共和国による民族的な抑圧が加えられた結果ではなく、むしろ自己の利益を優先させる先進共和国ゆえの経済的な要因が大きく作用したとものといえる。南北格差による経済的利害に民族自決が絡んでの連邦解体であった。

 

 6 内戦の展開

 スロヴェニアクロアチアで共和国軍とユーゴ連邦人民軍との戦闘が発生した。スロヴェニアは91年6月には勝利し、独立を獲得した。

 クロアチアにはセルビア人が住んでいたため、これが内戦長期化の原因となった。

 92年、ボスニアヘルツェゴビナが独立すると同時に内戦が勃発した。

 ドイツが、クロアチア独立を承認したことが、紛争を激化させた。

 内戦の原因……マスメディアのプロパガンダ、政治指導者の政治戦略、当局による恐怖心の扇動と身近な人の逮捕、武力衝突

 ユーゴ時代から、国民全体での防衛体制が敷かれており、また各共和国や自治州に地域警察が整備されていたことが、民族集団の武装化を早めた。

 

 ボスニア内戦におけるセルビア人勢力の指揮官は、ボスニア連邦人民軍のムラジッチである。ムラジッチは、ミロシェヴィッチの直接指揮下にあったわけではないが、マスメディアの報道によって、ミロシェヴィッチが侵略者であるという構図が作られた。

 実際には内戦末期の段階で、ミロシェヴィッチボスニアセルビア人を制御できなくなっていた。カラジッチらは、和平をするよう促すミロシェヴィッチに対し、反旗を翻した。

 (『Yugoslavia:Death of Nation』いわく「おもちゃが勝手に動き出した」)。

 こうしたイメージ戦略は、クロアチアバチカンによる影響が大きいという。

 

 国際社会の動き……

・アメリカは国連の中心となりPKF、国連保護軍派遣等を行った。

・政治的解決を図る国連と、軍事的解決を図るNATOとの間で見解の相違が生じた。

・95年11月、アメリカの圧力のもと、領土分割と停戦を定めた「デイトン合意」により内戦が終結した。

NATO中心の平和実施部隊が停戦監視を担当した。

 

 終章

 ――……ユーゴ内戦が始まる時期も、始まってからも、「現地主義」に徹する姿勢が見られず、旧ユーゴに常駐するわが国の新聞記者がいなかったことによる部分が大きい。その結果、事実関係を十分に検証することができないままに、欧米諸国の政策に基づく情報操作や、通信社の流すニュースに全面的に依拠せざるを得なかったように思われる。アメリカ主導のもとに形成された「セルビア悪玉論」はその典型であった。

 

 ◆メモ

 本書では詳しく言及されていないが、合衆国は当初内戦介入に消極的だった。また、デイトン合意により強制的にボスニアを二分割したことで「やったもの勝ち」の結果が生じた。

 各地の追放行為や虐殺は、武装の不足した民族や集落が標的になった。なぜそのような不均衡が起こったかといえば、各地域で軍・警察を掌握する民族が偏っていたからである。

 ユーゴ人民軍は実質セルビア軍となり、また混住地域では、軍・警察を掌握する民族が民間人迫害に加担した。

 内戦の根本的な原因は、本土防衛のために武器を偏在させていたことにある。 

  武力を一機関(国軍)に独占させるのか、それとも民兵制・民間防衛のために分散させるのか……どちらにも致命的な問題点がある。

 また、このような地域に対して、当事者たちに非武装を促すことはわたしには不可能である。

ユーゴスラヴィア現代史 (岩波新書)

ユーゴスラヴィア現代史 (岩波新書)

 

 

『ユーゴスラヴィア現代史』柴宜弘 その1

 ユーゴスラヴィアとは「南スラヴ」の意味である。

 ユーゴの歴史は、第1のユーゴ(1918年の成立からナチスドイツによる占領まで)と、第2のユーゴ(1945年の成立から92年の解体まで)とに分かれる。

 ユーゴは、東西キリスト教圏の境目であり、またハプスブルク帝国オスマン帝国との境目でもあった。

 

  ***

 1 南スラヴ諸地域の近代

 ユーゴは2つの帝国の支配を受けたが、どちらも、各民族ごとの自治を認める「柔らかい専制」であり、現代にいたるまで民族意識が保持された。

オスマン帝国統治下……セルビアモンテネグロマケドニア

ハプスブルク帝国統治下……スロヴェニアクロアチア

オスマンからハプスブルクへ……ボスニア・ヘルツェゴビナ

 

 1804年、ナポレオン戦争のさなか、オスマンの傭兵集団であるイェニチェリに対しセルビア人が蜂起した(第1次セルビア蜂起)。

 その後1815年の第2次蜂起を経て、1830年にセルビア公国として自治権を獲得し、領土拡張を進めた。

 モンテネグロセルビアと分裂し、小さな山岳国としてオスマン帝国に抵抗した。1878年ベルリン条約により自治権を獲得した。

 マケドニアは複雑な民族構成のために国家としての意識が芽生えず、セルビアブルガリアギリシアが、領有を主張する「東方問題」の焦点となった。1913年の第2次バルカン戦争により三分割された。

 クロアチア……ハンガリー統治下にあったが16世紀にハプスブルク傘下に移った。このとき、東部スラヴォニアアドリア海沿岸のダルマチア地方が、対オスマン防衛の拠点化された。

 この地に国境警備兵として入植したセルビア人は、後代まで居住を続けた。

 スロヴェニアは独自の国家を持たず、初めは神聖ローマ帝国の、次はハプスブルク帝国の領土(クライン州、ケルンテン州、シュタイアーマルク州)であり続けた。

 

 12世紀後半、中世ボスニア王国が成立し、ボスニア人としての意識が生まれた。

 15世紀にオスマン帝国に支配されたとき、多くのボスニア人がイスラームに改宗した。

 1875年、キリスト教農民がムスリム地主に対し蜂起したことがきっかけに、露土戦争が始まった。オスマン帝国は大敗し、1878年、ベルリン条約によりボスニア・ヘルツェゴビナハプスブルク帝国に移行した。

 クロアチアにおいて、19世紀から20世紀初頭にかけて、反ハンガリー・南スラヴ独立を掲げるセルビア人・クロアチア人の協力政党が誕生した。こうした動きは、第1次世界大戦後のユーゴ独立の基盤となった。 

 

 2 ユーゴスラヴィアの形成

 1913年、第2次バルカン紛争によってセルビア王国は南スラヴの旗手となった。セルビアは「大セルビア」実現のために領土拡張を目指した。

 1918年、セルビアクロアチアスロヴェニアからなる王国が成立(29年にユーゴ王国と改称)。

 ユーゴ王国は民族自決の原則のもと「南スラヴ人」という実在しない主体によってつくられた、擬制国民国家だった。

 1932年、ユーゴからのクロアチア独立を求めるファシスト団体「ウスタシャ」が結成された。以後、クロアチア問題はユーゴの課題となった。

 1939年、クロアチア自治権を獲得した。

 

 3 パルチザン戦争

 第2次世界大戦終結にともなう第2のユーゴ成立後、パルチザンは英雄として解釈されていた。

 パルチザン戦争には、対占領軍ゲリラ戦、民族紛争、社会変革の3つの側面がある。

 1941年、三国同盟に加入したパヴレ公に対し、新西欧派の軍がクーデタをおこした。6月、ドイツがユーゴに侵攻し、ユーゴはドイツ、イタリア、ハンガリーによって分割された。

 ドイツと協力関係にあったクロアチアは、ボスニアを含む領土を手に入れて、ウスタシャ指導者パヴェリッチによる統治が始まった。

 セルビア民族主義団体チェトニクは、当初占領軍に抵抗したが、やがてドイツと協力し他民族との抗争を始めた。

 英国とソ連は、チェトニクを支持しており、チェトニクに対し、パルチザンとの協力を差し控えるよう勧めた。ソ連パルチザンとの関係は冷めており、それが戦後のユーゴ・ソ連対立の原因となった。

 43年にはチトー率いるパルチザンが広範な支持を集め勢力を拡大するにいたり、英国もパルチザン支持を表明した。

・AVNOJ(ユーゴ人民解放反ファシスト会議)

 [つづく]

 

ユーゴスラヴィア現代史 (岩波新書)

ユーゴスラヴィア現代史 (岩波新書)