うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『The Indian Mutiny』Saul David その4

 15 反動

 東インド会社マドラス軍のニール大佐(Col. James Neill)は、ベナレス(Benares)とアラハバード(Allahabad)を奪回し、悪名高い市民虐殺を行った。

 インド総督カニングは、カーンプル虐殺の報を受けて、イギリス人の敵意がインド人そのものに向かないよう、寛容(Clemency)方針をとった。しかし、本国では報復せよとの世論が高まった。

 

 ニール大佐の後に続いて、イギリス軍准将ハヴロック(Bri Gen. Henry Havelock)がカーンプルとラクナウ救援に向けて出撃した。

 ハヴロック率いる部隊は、大砲と新式エンフィールド銃の威力により、続々とカーンプル近郊の集落を制圧した。やがて、敵陣の中で気勢をあげる人物がいた。それが謀反の首謀者であるナーナー・サーヒブだった。

 ハヴロックはカーンプルを奪回し、虐殺現場を確認した。その後は、進軍は鈍り、ラクナウまでは至らなかった。

 

 16 コリン・キャンベル卿(Sir Colin Campbell)

 デリー攻撃の延期が続くうちに、インド軍司令官バーナード将軍がコレラで死んだため、後任のキャンベルが本国から派遣されることになった。カニング卿はグラントを推薦したが受け入れられなかった(インド会社軍だからか)。

 その間はベンガル軍のウィルソン将軍(Archdale Wilson)がデリー攻略軍の指揮をとったが、攻撃は行われず敵が強化されていった。

 デリーでは各地の反乱軍が集結し、バフト・ハーン(Bakht Khan)が、皇帝バハードゥル・シャー2世の命により総指揮官となった。かれはデリーの規律維持を唱えたが、昇給を求めて略奪する傭兵や王子たちに手を焼いた。

 その間、ペシャワールからジョン・ニコルソンがデリーに向かった。

 

 8月には各地の反乱はピークに達した。しかし、中央部から南部にかけては静かだった。これは、反乱側の連携がとれておらず、また王や藩主たちがイギリス軍を恐れていたことを示す。

 それでも、もし全土が蜂起していれば、イギリスは放逐されていたに違いない。

 住民のほとんどが敵対している状況では、いかなる軍隊も支配を維持することができない。

 その意味で、インド反乱には指導者――ジョージ・ワシントンがいなかった。

 

 17 デリーの陥落

 ジョン・ニコルソンには、かれを崇拝するパシュトゥン人の親衛隊が常についていた。ニコルソンの到着と、連戦連勝は、デリー包囲軍の士気を盛り上げた。

 9月、ウィルソン司令官の下、ニコルソン、ロバーツらによる攻城戦が行われた。要塞をめぐり、数日間にわたり激しい戦闘が続いた。不利になった王は取り巻きとともに逃走し、バフト・ハーンは置き去りにされた。反乱軍に脱走が相次ぎ、デリーは奪回された。

 しかし、ニコルソンは戦闘中の傷によって死亡し、イギリス側はこれを悲しんだ。

 

 18 ラクナウの救援

 カーンプルで待機していたハヴロックの上官として、優秀な将軍ジェイムズ・アウトラム(James Outram)が着任した。かれらは増援を受け、二輪体制でラクナウ攻略を行った。敵の抵抗は激しく、ニール大佐らが死亡した。

 他地域では、ジャグディーシュプル(Jagdishpur)のクンワル・シング(Kunwar Singh)が蜂起し、またグワリオールやジャーンシーでも反乱軍が出現していた。

 アウトラムとハヴロックの救援軍が逆に包囲されたとき、ヘンリー・ロレンスの下で働いていた文官チャールズ・カヴァナー(Charles Kavanagh)が、セポイに変装して敵の包囲を潜り抜け、キャンベル司令官まで状況を報告した。

 カヴァナーは民間人で初めてヴィクトリア勲章(VC)を受章した人物となった。

 

 19 アワドの征服

 1858年3月に、増援によって強化されたキャンベルの軍がラクナウを攻略した。

 攻城戦においてロバーツはヴィクトリア勲章を受章した。また、優れた指揮官だったウィリアム・ホジソン(William Hodson)が戦死した。ハヴロックも傷が元で死亡した。

 キャンベルは損害を最小限に抑える方針をとったため、デリー攻略に比べて戦死者は減った。しかし、結果的に反乱軍の多くが撤退し、長期化したため、熱射病や病気を含む総死者数は増大した。

 イギリス軍は、グルカ王とその援軍による支援も得たことで、ラクナウの攻略に成功した。

 

 20 ジャーンシーの王妃(the Rani)

 ジャーンシー藩王国の王妃ラクシュミー・バーイー(Lakshmi Bai)は、反乱加担の嫌疑を受けたことで蜂起し、イギリス軍ヒュー・ローズ(Hugh Rose)らと交戦した。王妃はグワリオール城に逃れたが戦死した。

 ヒュー・ローズは、ヨーロッパ人殺害に関して王妃の責任を追及しながらも、彼女を優れた軍司令官として賞賛した。

 ナーナー配下の指導者だったターンティヤー・トーペー(Tatya Tope)は捕らえられ、「わたしは上官の命令に従っただけで何もしていない」という現代的な言い逃れをしたのち処刑された。

 ナーナーを含む反乱の指導者たちはネパール国境に逃れたが、森林で息絶えるか、ネパール王ジャンガ・バハドゥル・ラナ(Jung Bahadur)によって捕獲された。

 

 21 終戦

・1858年8月、インド統治法改正により、東インド会社の全権限はイギリス政府に委譲された。

・インド庁からインド担当省への改革

・キャンベル、ヒュー・ローズ、ホープ・グラント(Hope Grant)、ネヴィル・チェンバレン(Neville Chamberlain、政治家のチェンバレン家とは無関係)、フレデリック・ロバーツらは表彰された。インド総督カニング卿、行政官ジョン・ロレンスも表彰された。

 反乱鎮圧に協力した藩王やネパール王、グルカ王なども褒美を賜った。

・軍の改革:ヨーロッパ人とインド人との比率を1:2に維持した。ベンガル軍においては、パンジャブ地方のムスリムシーク教徒、グルカ、低位カーストヒンドゥー教徒中心に傭兵を再編成した。

 これは、反乱の10年以上前からジョン・ジェイコブ少将(Maj Gen John Jacob)が提唱していたことである。

・イギリス人、インド人ともに、人事評価制度と待遇を改善した。

・インド人兵隊の制服は、より現地に適したものに変更された。

 

The Indian Mutiny: 1857 (English Edition)

The Indian Mutiny: 1857 (English Edition)

 

 

『The Indian Mutiny』Saul David その3

 10 「嵐は去った」

 アーグラー(Agra)は北西地方政府の首都であり、ヒマラヤのふもとから中央インドのジャバルプル(Jabalpur)までを担任し、デリー、ベナレス(Benares)、アラハバード(Allahabad)、ミルザブール(Mirzapur)、カーンプル(Cawnpore)を含んでいた。

 行政長官(Lieutenant-Governer)のジョン・コルヴィン(John Colvin)は、バハードゥル・シャーが皇帝を名乗り蜂起したことを受け、反乱の背後にムガル帝国がいると考えた。そこで、帝国の仇敵であるグワリオール(Gwalior)藩王国やバラトプル(Bharatpur)に支援を要請した。

 カルカッタのインド総督カニングは、反乱の報を聞き憤激した。インド庁長官のヴァーノン・スミス(Vernon Smith)と連絡をとり、ペルシアとの戦争が終わったこともあり、ただちに援軍を出すことを決定した。

 かれはボンベイエルフィンストーン卿(Lord Elphinstone)にイギリス軍2個連隊と砲兵隊を要請した。また、マドラスのハリス卿(Lord Harris)に歩兵とマスケット歩兵(Fusiliers)を要請した。あわせて、アグラとメーラトにアンソン将軍とヘンリー・ロレンスを派遣した。

 さらに、セイロン(Ceylon)やパンジャブからも援軍を要請した。

 

 カルカッタでは、グルカ兵やシク教徒が反乱をおこすといううわさが広まり、ヨーロッパ人たちは恐慌をきたした。
 アンソン将軍は、デリー奪回の拠点となるアンバラにおいて援軍を待った。

 

 最大の動員はパンジャブ地方において行われた。好戦的なパシュトゥン人を抑えるため、パンジャブには10個連隊が駐屯していた。

 ラホール(Lahore)の行政官ロバート・モントゴメリー(Robert Montgomery)、コルベット(Corbett)准将はただちにインド人部隊を武装解除した。

 植民地最北端のペシャワール(Peshawar)では、ハーバート・エドワーズ(Herbert Edwardes)、ジョン・ニコルソン(John Nicolson)、フレデリック・スレイ・ロバーツ(Frederick Sleigh Roberts)ら卓越した青年将校らが、インド人部隊の反乱を鎮圧した。

 かれらは皆、ヘンリー・ロレンス卿の影響下で育った軍人(Lawrence's Young men)たちで、1846年の第1次シク戦争(1st Sikh War)の後、北西インドの安定化に貢献した。

 ニコルソンやコットン(Cotton)将軍らは、叛徒たちを大砲の砲口に縛り付けて処刑した。これはムガル帝国が実践してきた方法であり、戦士にとって名誉ある死だった。

 

 11 反乱の拡大

 メーラト郊外やアーグラーでも反乱が起こり、ヨーロッパ人たちはパニックに陥った。

 デリー攻略を命じられたアンソン将軍はカルナール(Kernal)に到着したところでコレラにかかり死亡した。代行のヘンリー・バーナード(Henry Bernard)は、援軍が来るまでデリー攻撃を延期したが、このためデリーの反乱軍が増強される結果となった。

 インド軍の実質的な指揮は、カルカッタのインド会社軍指揮官パトリック・グラント(Patrick Grant)がとった。

 

 12 アワド

 旧アワド王国の顧問となっていたヘンリー・ロレンスは、反乱の報を聴いてただちに動き出した。かれは会社から准将の階級を受けて、ただちに首都ラクナウ(Lucknow)の警備を強化した。アワドの反英感情は強く、またヨーロッパ兵の比率が少ないため、危険な状態にあった。

 一方で、かれはカーンプル(Cawnpore)がより危険であることを認識しており、ラクナウから信頼できるインド人部隊を派遣した。

 ラクナウで蜂起が始まり、ヨーロッパ人たちは居住区に籠城した。近郊のシータプル(Sitapur)では多数の将校、ヨーロッパ人が虐殺された。6月初めには、アワド駐屯部隊のほぼ全てが反乱をおこし、イギリス行政は消滅した。

 離反(dissafection)しなかった部隊のなかには、20年以上務めてきたイギリス人指揮官に、忠誠を誓ったものもあった。そうでない部隊は、将校を殺害し、ヨーロッパ人を殺害した。

 

 13 カーンプル

 カーンプル師団の指揮官ヒュー・ウィーラー少将(Major-General Sir Hugh Massy Wheeler)は、優れた軍歴で昇任した人物だった。しかし、かれは東洋人に頼りすぎていた。

 カーンプルには、インド兵17人に対しヨーロッパ人1人しかおらず、間もなく反乱が始まった。

 ウィーラー少将はじめとするヨーロッパ人は、マラーター同盟の王子ナーナー・サーヒブを信用していた。ナーナーは、イギリスと傭兵、どちらか有利な方につこうとしており、イギリスは裏切られた。

 陣地に籠城したウィーラーたちイギリス軍とイギリス人たちは、反乱軍から大量の砲撃を浴び、多数が殺害された。

 近郊の都市でもイギリス人が虐殺されていたが、カーンプルに支援する余裕はなかった。

 

 ナーナー・サーヒブと傭兵将校のように、地方の領主と反乱軍将校が協力する例が各所で見られた。しかし、かれらはインド人の反乱を統合することができず、最終的にイギリスに敗北することになった。

 生存者によれば、叛徒たちは大変臆病であり、決して突撃しようとしなかったという。

 

 14 サーティチャウラー・ガート(虐殺のガート)

 籠城していたウィーラーは、反乱軍の頭領となったナーナーと交渉し、陣地を明け渡すことに同意してしまった。

 6月27日、200人超のヨーロッパ人たちが、舟の用意されたガート(池や川岸に設置された階段状の親水施設)に徒歩で向かった。かれらが舟で出発しようとしたとき、傭兵たちはいっせいに発砲した。

 ウィーラー将軍を含む100人超が虐殺された。ナーナーは、途中で子供と女性の殺害をやめさせたので、ごく一部は死を免れた。ウィーラー将軍の娘を含む若い女性数人は、イスラム教に改宗させられ、インド人の側室となった。

 ヘンリー・ロレンスは、ナーナーの反乱部隊に対し報復攻撃を試みるが、失敗し自身も戦死した。かれは作戦系の経験がなかったため、部下に戦闘をまかせるべきだったと著者はコメントしている。

 [つづく]

 

The Indian Mutiny: 1857 (English Edition)

The Indian Mutiny: 1857 (English Edition)

 

 

『The Indian Mutiny』Saul David その2

 4 Go to Hell, Don't bother me!

 東インド会社軍の問題は、インド人傭兵だけではなかった。ヨーロッパ人将校も、様々な問題を抱えていた。

 

・一般的な会社の将校は、低い階級出身で、学はなく、純粋に金銭的動機によって就職した者たちである。

 イギリスの正規軍は、階級の高い者たちが占めていた。かれらには恒常的な収入(不動産等)があるため、軍の給料自体は低かった。一方、東インド会社軍は、将校たちに高い給料を支払った。

・1809年、アディスコム(Addiscombe)に軍学校が作られたが、教育のレベルは低かった。

・直接採用の士官候補生たちは、さらに低い教育しか受けられなかった。

・インド支配領域の拡大によって、将校が他の行政機関に出向することが多かった。このため、部隊における将校の充足率は急激に低下した。

・出向して文官として勤務する方が手当てが良かったため、将校たちの勤務意欲は低く、いかに部隊を脱出するかしか考えなかった。かれらは退屈なインドでの生活にうんざりしていた。

・19世紀中盤以降、将校たちが本国から家族を連れてくるようになると、ヨーロッパ人とインド人との関係は変質した。指揮官(イギリス人)と兵(インド人)との溝は深まり、中にはインド人を劣等とみなし、黒人奴隷のように扱う将校も現れた。

・軍司令部(Army Headquaters)に権限を集中したことで、部隊指揮官の人事権・懲罰権が失われた。このため指揮官は威信を失い、兵隊の規律は低下した。

 体罰(Corporal Punishment)の禁止は、インド人を増長させた。

・特にベンガル軍の練度の低さ、規律の乱れは悪名高くなっていった。

・通説と異なり、傭兵たちはヨーロッパ人の過酷さに反発したのではない。かれらは職業上の不満を多く抱えており、また主人(Sahib)たちの弱さに目を付け、蜂起したのだった。

 

 5 陰謀

 ベンガル軍は反乱の火種になっており、ヨーロッパ人に代わる別の政府を求めていた。また、イギリスによって領地を奪われたインドの太守たちはみな不満を抱き、陰謀を計画した。

 マラーター同盟(Maratha Confederacy)の宰相(Peshwa)バージ・ラーオ2世(Baji Rao2)の養子ナーナー・サーヒブ(Nana Sahib)は、失権の原理により奪われた領地と年金を取り戻そうと、イギリス人弁護士を雇い争っていた。

 ナーナー・サーヒブの部下アジームッラー・ハーン(Azimullah Khan)は反乱の実行者となった。かれは、イギリス軍がクリミア戦争においてロシア軍に苦戦する様子を目撃し、反乱計画への自信を深めた。

 

 6 脂を塗られた薬包

 1854年、会社は本国政府からエンフィールド銃を調達した。このライフルの薬包に、禁忌である牛と豚の脂が塗られているという噂が、ダムダム(Dum-Dum)とアンバーラ(Ambala)の2か所の補給処で持ち上がった。

 上位カーストの兵隊たちを牛や豚の脂で汚染させることで、イギリス人たちがかれらをキリスト教に改宗させようとしている、という陰謀が広まった。

 ベンガル師団司令官ジョン・ハーゼイ(John Hearsey)や他の高官たちは、これを宗教にまつわる深刻な問題ととらえ、鎮静化に努めた。

 しかし騒ぎはおさまらず、アワドの失権した王ワジド・アリーや、デリーのマイノッディン・ハサン・ハーン(Mainodin Hassan Khan)は反乱を扇動した。

 1857年には、ブラフマプル(Berhanpore)や、バラックポール(Barrackpore)等で反乱・不服従の兆候が現れた。

 イギリス軍(正規軍)のインド軍司令官(Commander-in-Chief)のジョージ・アンソン少将(George Anson)は、インド人に対する蔑視が露骨であり、傭兵たちの感情を逆なでした。

 大事変の兆候をあらわす謎のチャパティが、インド広域にわたり出現した。兵隊は謎の人物たちからチャパティを受け取った。

 

 7 マンガル・パンデ(Mangal Pande)

 1857年3月、バラックポールの第34インド人歩兵部隊において、マンガル・パンデという兵がイギリス人将校に対し発砲した。

 武器庫(Bell of arms)の占拠。

 反抗は、ハーゼイらによって制圧された。マンガル・パンデと、射撃を拒否した傭兵は銃殺刑になった。

 

 8 嵐がおこる

 メーラトにおいて、薬包をめぐるインド人傭兵たちの発砲拒否が起こった。5月10日の蜂起前日、ヨーロッパ人将校たちは、不服従の兵を牢屋(Gaol)に入れていた。

 

・指揮官たち……第11インド人歩兵部隊指揮官ジョン・フィニス大佐(John Finnis)、第20インド人歩兵部隊指揮官ジョン・クレジー=ハーケット中佐(John Craigie-Harket)の代行ジョン・テイラー大尉(John Taylor)、第3軽騎兵部隊指揮官ジョージ・カーマイケル=スミス(George Carmichael-Smyth)、メーラト師団長ウィリアム・ヘウィット大将(William Hewitt)。

 

 高官たちは、反乱の兆候ありとの報告を受けても、問題を過小評価し、動こうとしなかった。

 10日の夕方、傭兵たちが蜂起し、ヨーロッパ人将校多数を殺害した。牢に入っていた兵隊たちは解放され、また現地人もヨーロッパ人を襲撃した。

 将校の家族のなかには喉を切られ胎児をひきずりだされる者、生きたまま焼かれる者もいた。

 反乱軍は、大砲を手に入れるためデリーに向かった。この日の蜂起により約50人が殺害された。

 

 9 デリー

 反乱軍は翌日デリーに到着した。かれらは、バハードゥル・シャー(Bahadir Shar)のラール・キラー城塞(Red Fort)に押しかけた。シャーはムガル帝国の末裔であり、現在はデリー領主(King of Delhi)に格下げされていた。

 傭兵たちはシャーに懇願し(半ば脅迫)、反乱の首領に祭り上げた。

 デリーのイギリス人守備隊は、次々と蜂起するインド人騎兵(sowar)部隊に応戦したが、多数が虐殺された。ヨーロッパ人居住者たちも、イギリス軍区画の旗塔(Flag staff tower)に避難した。街は逃げ惑うヨーロッパ人と、略奪する傭兵、現地人で混沌となった。

 パハールガンジの警察(Thanadar)マイノッディン(Mainodin)や王の医師らは、ヨーロッパ人に対する虐殺行為をやめさせようと叛徒たちに呼びかけた。しかし、傭兵たちは王の提案を拒否した。かれらは、宮殿に匿われていた女性や子供を引きずり出し処刑した。

 反乱の実質的な権力はインド人の将校(SubedarやJemadar)にあった。

 [つづく]

 

The Indian Mutiny: 1857 (English Edition)

The Indian Mutiny: 1857 (English Edition)

 

 

『The Indian Mutiny』Saul David その1

 1857年、デリー(Dheli)近郊のメーラト(Meerut)から始まったインド反乱についての歴史。

 東インド会社によるインド侵略の経緯から始まり、反乱の推移を細かく記述する。

 反乱の鎮圧を担当した東インド会社軍の将校たちは、イギリス軍将校とも異なる、特異な立場にあった。かれらは政治将校、つまり政治家としてもインド統治に携わった。

  ***

 

 1 東インド会社(The East India Company)

 1613年、ムガル帝国(Mogul Empire)の時代、イギリス東インド会社はスーラト(Surat)に交易所を設立し、その後マドラスMadras、1639年)、ボンベイ(Bombay、1664年)、カルカッタ(Calcutta、1696年)にも拠点を建てた。

 

 東インド会社は、フランスを抑えてインドでの収益を上げていった。18世紀、ムガル帝国が弱体化し、周辺諸国に攻められていくなかで、会社は安定を求め、政治化・軍事化した。

 1740年代には英仏の対立が始まり、会社は常備軍を創設した。

 1756年、七年戦争(Seven Year's War)の勃発により英仏の交戦が世界各地で行われた。

 1756年、ベンガル(Bengal)の藩王(Nawab)たるシラジュ・ウッダウラ(Siraj ud-Daula)が、カルカッタにある会社の拠点を襲いヨーロッパ人を殺戮した。

 マドラス評議会は会社の事務官ロバート・クライヴ(Robert Clive)にカルカッタの再占領を命じた。クライヴは軍隊を率いて才能を発揮し、藩王の部隊と戦った。

 1757年6月、クライヴは、プラッシーの戦い(Battle of Plassey)で、フランスの支援するベンガル藩王を破った。

 会社はミール・ジャアファル(Mia Jafar)を藩王に据え間接統治をおこなった。さらに、親戚に王座をすげ替え、ベンガルの領有地域を広げた。

 本国の議会は、東インド会社が「帝国内の帝国」と化し、コントロールできなくなる状況を危惧した。議会は会社を統制する法律を定めた(1784年のインド庁(Board of Control)の設置)。

 

 18世紀初頭にかけて、マイソール王国(Mysor)、タンジャーヴール(Tanjore)、カルナータカ(The Carnatic)等が併合された。

 ベンガル管区(Bengal Presidency)は第2次マラタ戦争(Maratha War)などを通じて領地を拡大した。ボンベイ管区(Bombay Presidency)は西インド全域を支配した。

 その後、19世紀前半、征服戦争によって、アッサム(Assam)、アラカン(Arracan)、テナセリム(Tenasserim)、シンド(Sind)、パンジャブ(Punjab)、ペグ(Pegu)を手に入れた。

 

 その他の諸王国を併合する際、総督ダルハウジー卿(Lord Dalhousie)は「失権の原理」(Doctrine of Lapse)を利用し、藩王や太守に養子相続を認めず、領地財産を吸収していった。

・西インドのサーターラー(Satara)

・サンバルプル(Sambhalpur)

・ジャーンシー(Jhansi)

・ナーグプル(Nagpur)

 

 こうしたやり方はインド人の間に、イギリスの正義と公正に対する不信感を植え付けた。1856年には同様の手口でアワド藩王国(Oudh)を併合したが、これが後の反乱につながった。ベンガル傭兵(Sepoys)の四分の三が、アワドから採用されていたからである。

 

 1833年以降、東インド会社は、インド総督(Governer-General of India)の元、ベンガル知事、マドラス知事、ボンベイ知事によって統治されていた。

 1857年には、会社はインド亜大陸の三分の二を支配しており、ヨーロッパ人部隊4万5000人、インド人部隊23万2000人を保有していた。ヨーロッパ人とインド人との割合は1対5だった。

 ヨーロッパ人の不足した状況は、19世紀初頭に比べれば改善されていたが、支配地域の拡大と、1854年のクリミア戦争に伴う英国陸軍2個連隊の派遣は、不安要素となった。
 ダルハウジー卿は、ヨーロッパ人部隊をこれ以上減らすことはインド統治にとって極めて危険であると報告していた。

 

 2 カーロ・カニング(Carlo Canning)

 インド反乱に対処した総督について。カーロ・カニングは1856年に赴任し、精力的に働いた。インド総督は、給料はいいが、歴健康を害し死亡する者も多かった。

 アワドの併合によって、ワジド・アリー王(King Wajid Ali)やその下の領主たちの不満が蓄積していた。

 カニングはアワドの顧問官にヘンリー・ロレンス(Sir Henry Lawrence)を任命した。かれはインドやアジアにおいて優れた軍歴を持っていた。

 

 3 職業軍人たちの不満

 ベンガル軍の特性と、反乱の要因となった軍人たちの不満について。

 東インド会社軍は、18世紀末から近隣の現地人を雇う方式を採っていた。ベンガル軍の多数は、上位カースト……ヒンドゥー教農民、北インドの武士階級ラージプート(Rajputs)、武装したバラモン(Brahmans)であるブーミハール(Bhumihars)によって構成されていた。

 元々、カースト制度は緩やかであいまいな慣習だった。新カーストは頻繁に生まれ、また身分間の移動も珍しくなかった。

 18世紀末になると、カースト制度の厳格化が進行した。ベンガル軍の傭兵たちは、無数の宗教上・身分上の習慣を実践するようになった。かれら上位カーストの軍人は、軍隊を通して自分たちの身分の差別化を図った。

 19世紀中ごろになると、異なるカーストからも募集が行われ、上位カーストの傭兵たちは立場を脅かされるようになった。

 

・1834年の「一般命令」(General Order)……あらゆる身分から兵隊を採用する。

・シク戦争を通じて、パシュトゥン人(Pathans)、パンジャブに住むムスリムシク教徒(Sikhs)、ヒンドゥー教徒が雇用された。

・グルカ兵(Gurkha)の採用

・1856年、カニング卿の発した「General Service Enlistment Act」により、新規に雇われた兵は海外遠征にも出されることになった。

 

 上位カーストの傭兵たちは、会社がかれらを、世界中で使える苦力(Coolies)やパーリア(Pariahs)(南インドの不可触賤民)に変えようとしていると考えた。

 軍人たちは皆志願兵・傭兵であり、かれらの士気はその待遇に依存していた。1857年時点で、数々の不満が蓄積していた

 

・薄給、窮屈な軍装、重いマスケット銃、劣悪な兵舎。

・ヨーロッパ人に比べてインド人の昇任は遅く、また年功序列のため意欲も生まれなかった。老いたインド人将校は無能な者が多かった。

・非正規部隊(Irregular Army)の中には、軍馬の維持などで借金漬けというものもあった。こうした部隊の反乱参加率は高かった。

 叛徒たちの多くは、新しい雇い主、出世、利益を求めて蜂起したのだった。

[つづく]

 

The Indian Mutiny: 1857 (English Edition)

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