うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『ぼくはアメリカを学んだ』鎌田遵

 岩波新書ネイティブ・アメリカン』の著者が、自身のアメリカ生活について書いた本。

 

 ◆感想

 著者は、留学資金は持っていたかもしれないが、一般的な学歴からは外れた人物である。放浪と異国生活を通して、生きる上で何が重要かを考えた。それは非常に参考になるものである。

 アメリカ合衆国における先住民やヒスパニック、不法移民の現実について詳しく書かれている。

・「Never too late」、何かを始めるのに遅すぎるというものはない。

 著者の通った短期大学には、前科者やシングルマザー、薬物中毒者が人生をやり直すために学びに来ていた。

・自分がピンチに陥ったときこそ、心を開いて回りに支援してもらことが必要である。

・図書館に籠って本を読んで勉強することも、実際の生活や人間との交流を通して現実を認識することも、等しく重要である。

 

  ***

 著者は高校から脱落しかけて、バックパッカーとなり、アメリカに辿りついた。

 大阪から鑑真号に乗って上海に渡り、徐々に西に向かっていくルートは、私が旅行した経路とほとんど同一であり驚いた。

 イスタンブールのドミトリの風景。

 

 ――毎夕、日本人の旅人たちが安宿のリビングで夕食をともにする。そのなかにはヒッピーのような人もいる。しかし、宿のなかでぼくが一番若かったからか、ほとんどの旅人から説教をされた。

 ――……その親切心はありがたくとも、人に説教する彼らの自信がどこからくるのか疑問だ。なぜか、日本のしきたりを批判しながら自由に旅するバックパッカーにかぎって、日本社会の影を引きずっているようだった。

 イラン、パキスタンで生活する人びとは、アメリカを希望と憧れの地と考えていた。一般的には、アメリカを敵視する国、国民だが、かれらは自由な土地に行きたいと願っていた。

 こうした憧れに触れて、著者はアメリカに留学することにした。

 

 ――初日に、数学のクラスに行くと、席についている学生の約半分は、ダボついたTシャツを着て、手首から上に女性の顔や十字架のイレズミ、ヘッドバンドをしている。その人たちは一様にいかついくせに最前列に陣取り、やる気をみなぎらせている。近寄りがたい雰囲気である。なぜギャングのような人たちが、数学の基礎クラスにいるのかよくわからない。

 

  ***

 アメリカでの生活を通して、人種差別や貧困に遭遇した。

 

 ――19歳のぼくが、差別されて学んだことは、やられたら、もうそれで終わりということだった。やりかえすことはできない。撃たれたらそれですべてが終わってしまう。金を取られても、自分のために誰もなにもしてくれない。

 

 著者はニューメキシコの貧しい町で生活するうちに、ネイティブ・アメリカンたちの境遇や生活に関心を持ち、それを研究テーマに選んだ。

 先住民に対する差別は根深く、社会的な地位も低い。

 居留地の住民は麻薬、アルコール、犯罪、失業といった問題に悩まされている。警察は先住民の関わる犯罪にまともに取り合わない。

 若者はギャングや麻薬中毒者になりがちである。

 その中でも、希望を持ち、大学を目指したり、自治政府の職員を目指したりする者がいた。

  ***

 著者はアメリカ生活を通して、辺境に生きる人びとの力に魅力を感じたという。

 

 ――ぼくがこの本で紹介したかったのは、アメリカの輝きである。逆境に負けない人たちがいだく希望だ。「辺境」や「どん底」でこそ、希望は輝くものなのかもしれない。人びとが生きるために、絶対に必要な光である。

 

ぼくはアメリカを学んだ (岩波ジュニア新書)

ぼくはアメリカを学んだ (岩波ジュニア新書)

 

 

電線

 夕焼けには

 赤い手が

 扉をひらく音がする

 雲をつくような

 手がぬっとあらわれて

 神父の目をふさぐ

 

 夏の空に

 切り込みをいれるのは

 だれだ

 

 森から森へ

 鉄による、毛糸の

 巻き取りの作業

 送信は続く。

 

 地面が冷えて

 羽虫たちが

 兵舎に帰っていくだろう。

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粘土人形 道具と計画

 粘土人形を作りはじめたので、今後はこれもブログに投稿していきます。

 完全な素人のため、いまは練習のために原始ハニワを生産中です。

 次回以降、人形の制作過程を投稿します。

 

 ◆粘土の夢

 フェーズ1 人形の制作:

  単純人形、パペット、球体関節

 フェーズ2 人形劇による自作劇撮影:

  クエイ兄弟シュヴァンクマイエル人形劇三国志プリンプリン物語

  サイレント映画

  デジカメ撮影とソフト編集

  8ビット音楽

 

 ◆いま使っている道具

・ラドール・プレミックス

 石粉粘土です。これをこねて形をつくります。他にも種類があるようです。

パジコ ラドールプレミックス

パジコ ラドールプレミックス

 

・へら

 粘土を加工して形をつくります。

 ・ターナー アクリル

 塗装します。 

ターナー色彩 アクリルガッシュ 13本(12色)スクールセット AG13C 11ml
 

ジェッソ

 絵具を塗る前に、全体に塗っています。

リキテックス アクリル絵具 リキテックス ジェッソ 300ml

リキテックス アクリル絵具 リキテックス ジェッソ 300ml

 

・絵具の筆

 パレットもついているので便利です。

 ・工作マット

 机が汚れないようにしています。

デビカ 工作マット 090205

デビカ 工作マット 090205

 

・ 紙やすり

 塗装の前に磨いたり、細かい形を調整します。

 ・アルミ線

 人形の骨組みに使います。

アルミ線 シルバー

アルミ線 シルバー

 

・アルミホイル

 針金に巻いて、人形の素体をつくります。

 ・スケッチブック

 人形の設計図を書きます。

マルマン スケッチブック 図案シリーズ A3画用紙 S115

マルマン スケッチブック 図案シリーズ A3画用紙 S115

 

・スケッチ用鉛筆

 鉛筆です。

三菱鉛筆 鉛筆 ハイユニ 2B 1ダース HU2B

三菱鉛筆 鉛筆 ハイユニ 2B 1ダース HU2B

 

・のし棒

ホームベーカリー倶楽部 シリコンローラー SJ1456

ホームベーカリー倶楽部 シリコンローラー SJ1456

 

・スポンジ

 

 ◆参考書など

・吉田式球体関節人形制作技法書

 非常にレベルが高いので、まだパーツのコネ方くらいしか読んでいません。

吉田式球体関節人形制作技法書

吉田式球体関節人形制作技法書

 

・その他

 Youtube動画や人形制作ブログを参考にしています。

 参考資料はグーグル画像検索等

 

『The Great Game』Peter Hopkirk その3

 3 終盤

 クリミア戦争の結果、ロシアでは反英論(Anglophobe)が高まっていた。

 

 1858年、アレクサンドル2世は、若い軍人イグナティエフ(Ignatiev)をヒヴァ、ブハラに派遣した。かれはその後北京に向かい、アロー戦争中の清国と英国との仲介になり、1860年、北京条約によって清国北方の国境付近を手に入れた。

 ロシアの主要な反英論者……戦争相ミリューチン(Milyutin)、東シベリア総督ムラヴィエフ(Muraviev)、コーカサス総督バリアチンスキー(Baryatinsky)。

 ロシア政府は南北戦争の影響を受け、綿の輸入を求めてフェルガナ進出を決めた。また、1864年、ゴルチャコフ(Gorchakov)外相の覚書は、ロシアの植民地主義を告げるものとなった。

 

 1865年、チェルニャエフ将軍はコーカンド・ハン国の領土タシケント(Tashkent)を占領した。将軍は「タシケントの獅子」と呼ばれ、タシケントには新たにトルキスタン総督府(総督カウフマン(Kaufman))が設置された。

 1868年、カウフマンはサマルカンドを占領し、続いてブハラ・アミール国を保護国化した。

 

 東トルキスタンは山脈によって孤立しており、カシュガル、ヤルカンドといった都市は、歴史的に中国の支配を受けてきた。

 1865年、コーカンド・ハン国出身のヤクブ・ベク(Yakub beg)が乗り込み、新たにカシュガル王国を建てた。

 英国人探検家ロバート・ショウ(Robert Shaw)と、ジョージ・ヘイワード(George Hayward)はお互いに対抗しつつ東トルキスタンに潜入した。さらに、英領インド軍モントゴメリーが訓練したインド人工作員(the Pundit)も当地に潜入した。

 ショウはヤクブ・ベクと親交を結び、ヤクブ・ベクは対露政策として英国との同盟を望んだ。ヘイワードはその後、カシミール北部に乗り込んだところ地方のボスに殺害された。

 

 1873年、カウフマンは3つの軍団を率いてヒヴァに侵攻した。ハンは逃亡し、ヒヴァはロシアに占領された。

 

 バーナビー大尉(Frederick Gustavus Burnaby)は、ロシア勢力下の中央アジアに乗り込むため、サンクトペテルブルクの戦争相ミリューチンに直接申し出た。かれは許可を得て、ヒヴァからカラクム砂漠(Karakum)を通り、メルヴ(Merv)を目指した。

 イギリス軍元帥の命令で途中で引き返したが、かれの探検記は反露主義を盛り上げ、ベストセラーとなった。

 

 1877年、オスマン帝国領内のヘルツェゴビナの反乱と、ブルガリアでの虐殺に対し、ロシアが戦争を開始した。露土戦争はロシアの勝利に終わったが、逆に列強はロシアへの警戒を強めた。

 イギリスがオスマン帝国を支援した場合に備えて、カウフマンはロシア軍を出動させ、アフガンを経由しインドに侵攻させるつもりだった。

 

 戦争終結後、カウフマンはストリエトフ(Stolietov)将軍をカーブルに派遣し、対英戦での協力を要請した。

 インド総督(副王Viceroy)のリットン卿(Lord Lytton)は、この動きを許さず、アフガンの君主シール・アリー(Sher Ali)に最後通牒を送り、宣戦布告した(第2次アフガン戦争、1978~1979)。

 ロシア軍は約束を破り援軍を送ろうとせず、シール・アリーは逃亡先で死亡した。代わって、摂政ヤークブ・ハーン(Yakub Khan)がイギリスに降伏した。

 カーブルに駐留していた英軍将校が再び反乱により殺害され、ヤークブ・ハーンも逃亡した。インド反乱鎮圧の名将フレデリック・ロバーツ(Frederick Sleigh Roberts)がアフガンに再侵攻し、アイユーブ(Ayub)を破った。

 その後、アブドゥル・ラフマン(Abdur Rahman)が王位に就いた。かれは英国に逆らわなかったため、イギリスは再びアフガンを勢力圏に治めた。

 

 ロシアは次の一手としてトランスカスピアン地方……トルクメンに進出した。イギリスがスーダンでの反乱に手を焼いている間に、スコベレフ(Skobelev)将軍が1881年にジョクテペ要塞(Geok Tepe)を占領し虐殺を行った。その後1884年、ロシアはメルヴを併合した。

 1885年、ロシア軍がパンジェ(Pandjeh)に進出したため、英露戦争の危機となったが協議により回避された。その後も、ロシアはアフガン近辺に進出した。対抗してイギリスもロシア領内に偵察者を送り、またインド国境の警備を強化した。

 中国の支配に戻った東トルキスタンカシュガル、ヤルカンド)や、パミール高原に接するチトラル(Chitral)、フンザ(Hunza)にも、ロシアは軍を派遣しようとした。イギリスはヤルカンドの部族軍と同盟し、ロシアに対抗することを検討したが、部族軍の練度の低さを見てあきれた。

 ロシアは中央アジアに鉄道を敷設し、イギリスの将校カーゾン(George Curson 後のインド総督)は鉄道や保護国を偵察した。

 

 1889年、1890年、イギリス軍将校フランシス・ヤングハズバンド(Francis Younghusband, 後の王立地理学会会長)や文官ジョージ・マカートニー(George Macartney)がフンザ地方を探検した。パミール高原ヒンドゥークシュの麓は、英露清の領土が交わる要衝だった。ヤングハズバンドは、1889年、1890年双方において、進出していたロシア軍将校とテントで会談した。

 

 インドへの道をめぐる最後の紛争……

・フンザ・ナガル戦役(Hunza=Nagar Campaign)……僭主サーダーフ・アリ(Sadaf Ali)追放、デュランド(Durand)大佐の活躍

・チトラル包囲……ウムラ・カーン(Umra Khan)の蜂起、ロバートソン(Robertson)将軍の籠城戦と、ロウ(Low)将軍やケリー(Kelly)大佐による救援

 チベットは名目上清の支配下にあったが、ラサ(Lhasa)を目指して英露は再び進出した。

 大佐となったヤングハズバンドは兵を連れてラサ手前の都市に向かった。かれはチベット進軍の過程で、虐殺事件を起こしてしまう。その後、ラサを制圧した。しかし、結局、宗主権は清国に残した。

 

 1904年、ロシアは極東で日本に敗北し、政治的・経済的に大きな打撃を被った。イギリスのチベット進出に対抗する余裕はなかった。

 1907年、新たな危険分子であるドイツの拡大を阻止するため、英露協商が結ばれた。中央アジアをめぐる長年の対立は解消された。

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The Great Game: On Secret Service in High Asia

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