『大国の興亡』を読んだ。
近代以降の大国の興亡を、戦略(軍事)と経済の観点からたどり、考察する。歴史を通して、いかに戦費を調達するかが、国家の至上課題だったようだ。
大国(Great Powers, Major Powers)の興亡は、本書の書かれた時点(冷戦末期)でも健在であり、これからも生起するだろうと予測している。
突飛な説、意外な説を唱えているわけではなく、考証の大半は各国・各時代の生産と軍事力である。
近代以降の歴史を検討すると、大雑把だが次のような傾向が見て取れる。
・産業生産力と国際社会における地位には因果関係がある。前者が地中海から大西洋・北西ヨーロッパに移行すると、国際的な力もこれに従った。
・長期的にみて、大国の経済力と軍事力は相関している。この連動にはずれがある。
そして、この経済力・軍事力は、あくまで相対的なものであり、他よりも保有していることが重要となる。
すべての大国の軍事費は、100年前よりはるかに増大している。しかし、それはかれらの国際的な地位を保証することにはならない。
・大国同士の大規模戦争では、生産力と資源が最終的に決定的要素となる。
・もちろん、経済力がすべてを決するわけではない……地政学、軍事組織、国民的士気、同盟機構など。
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◆メモ
大国の興亡の背景に、生産力や経済発展度があることを、データや史実をもとに検討していく。このような基盤的な国力は、軍事力にすぐに反映されるわけではなく、時間的な開きがある。
よくある例として、国家は衰退期になると軍備を増強し始めるが、それがさらに経済を停滞させていく。
著者は日本に対して大変好意的であり、それは執筆当時の経済状況(バブル前の高い生産力と輸出力)にとどまらず、1930年代の拡大主義に対しても適用される。
日本の将来を予測する章を読むと、なぜこれほど経済的に栄えていた国がいま脱落してしまったのかと不思議な気分になる(GDPはまだ3位だが)。
著者は安全保障のジレンマや後続国(台湾、韓国、シンガポール等)の有利にも言及している。
どこかの時点で日本はハイテク産業から脱落し、また人口問題にも対処できず、今の地位におさまったのだろう。
現在の超大国はアメリカ合衆国と中国である。そして双方ともに、軍事的に相手を圧倒することで優位を確立しようとしている。
いかなる国もこうした覇権争いの影響から逃れることはできない。
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◆前産業時代の戦略と経済
1 西洋世界の勃興
1500年には、西洋は比較的遅れた地域でしかなかった。
以下、各地域の大国を概観する。
・明朝(Ming Dynasty)
明朝は1368年に起こり、当時、最先端の技術……羅針盤、印刷術、火薬と砲、鉄鋼生産、紙幣経済を持っていた。大規模な明朝海軍は遠洋航海が可能だった。
しかし1433年、北方の遊牧民からの防衛に専念するため、海禁政策を実施した。これは倭寇が蔓延しても変わらなかった。
中国の後退原因……儒教的官僚制の保守主義、商業と私有財産の軽視、軍事の軽視。
明朝は、宋よりも停滞した王朝となり、膨張する人口を支えることができなかった。初期に持っていた技術的・学問的優位は完全に失われ、清朝になっても改善されなかった。
・イスラム世界
オスマン帝国(Ottoman Empire)、サファヴィー朝ペルシア(Safavid Dynasty)、ムガル帝国など。
オスマン帝国は16世から17世紀初頭にかけて隆盛したが、やがて衰退した。
原因……過剰な領土拡大、軍事費増大、ロシアやペルシアとの対立。過度の中央集権、専制、保守主義、愚かなスルタン、重税、思想・学問の抑圧(シーア派弾圧に関連)、技術の停滞。
時代錯誤の迷信軍団となったイェニチェリは、疫病の原因だとして天文台を破壊した。
ムガル帝国(Mogul Empire)もまた似たような理由で衰退した。ムガル帝国の場合、さらにヒンドゥー教にまつわる慣習(カースト制、タブー、愚かな支配階級)が悪影響を及ぼしている。
・アウトサイダー……日本とロシア
日本は地理的優位により、侵略から守られ、経済発展と統一を達成した。しかし、江戸時代には中央集権化が進み、経済は衰退し、ペリー来航時にはほとんど何もできなかった。
ロシアもまた広大な領土によって外敵から守られていた。しかし、モスクワ大公国(Moscovy Kingdom)は遊牧民やポーランドから度々侵略を受けた。やがて、西洋の軍事技術を手に入れ、東方、南方に領土拡大を行った。
ロシアの特性……厳しい気候と通信の脆弱性により、技術は未発達で、経済的にも後進的だった。皇帝による軍事絶対主義、農奴制、ロシア正教の精神的支配。
・「ヨーロッパの奇跡」
ヨーロッパの躍進した理由を分析するにあたり、同名の著作を参考にしているようだ。
ヨーロッパ……森と山に囲まれた険しい地域―中央アジアや中国のような中央集権が発達せず、小規模国家が林立―専制や圧政から比較的自由だった―各国や都市での商業、学問が発達―各都市ごとに、産業が発展(分散)―周囲を海に囲まれているため、航海術が発達―遠洋航海・海外貿易の発展。
他の文明、地域よりも、発展を阻害する不利点が少なかった。
2 ハプスブルクの覇権闘争1519~1659
16世紀から17世紀にかけて、ハプスブルク家(Habsburgs)がヨーロッパを支配しようと闘争を続けたが、ついに覇権を得ることはできなかった。
・闘争の意義と時系列
闘争の原因……1517年、ルターの反乱に始まる宗教改革(Reformation)、また、ハプスブルク家による政治的ネットワークの創造。
ハプスブルクは継承と婚姻により領土獲得を進めた。カルロス5世は、1519年時点で、オランダ、スペイン、イタリア、オーストリアを領有していた。
しかし、この覇権は後世のナポレオンやヒトラーのような、確定的なものではなかった。
この時代には、長期的な戦争が続いた。また、軍事技術の発達によって、軍事費もまた跳ね上がった。
ハプスブルクの敵……トルコ、フランス、ドイツ新教徒など。
ハプスブルクはスペイン系とオーストリア系へと分割した。スペイン・ハプスブルクは、オランダ(United Provinces)の反乱と独立をめぐって長い間戦争に従事した(八十年戦争)。その後、1618年から始まる三十年戦争にも発展したため、国力は疲弊した。
当初、カトリックとプロテスタントの対立から始まったドイツの戦争は、ハプスブルク対フランス、イギリス、オランダの戦いとなった。
スペインは、自国内での反乱やポルトガルの蜂起、国家予算の枯渇により、覇権をあきらめることになった。
・ハプスブルクブロックの利点と弱点
利点:人口密集地を含む領土、発展した産業と交易、兵力供給力。
弱点:大規模歩兵部隊(Pikesmen)を維持するための軍事費の増大、多すぎる敵(トルコ、英仏オランダ、ポルトガル)、広すぎる領土各領土の自治権が強く、税を効率的に運用できない。
特に、スペインは自国の税収を確保することができず、租税の負担は年々重くなり、負債が蓄積していった。
ユダヤ人排除、国外大学との交流停止、造船業の統制重税、商業統制といった要素すべてが、生産力の低下要因となった。
・国際比較
その他の国も、ハプスブルクより優れていたわけではない。ハプスブルクの失敗は、相対的なものにすぎない。
フランスは、ドイツ以上に深刻な内戦(カトリックとユグノー)に苛まれており、また人口は多いものの、産業はオランダやイタリア諸都市よりも遅れていた。
フランスは三十年戦争やその後のフランス・スペイン戦争で疲弊し、重税で国土は困窮した。
イギリスはまだ産業的に遅れており、兵力も不足しており、防御的な地位を保った。ただし、1650年代のクロムウェル統治は、イングランド軍を強化した。
スウェーデンは1611年グスタフ・アドルフ即位以降、オランダから産業を取り入れ、資源を開発することで発展した。しかし、その資金源はドイツから徴収した不安定なものだった。
オランダは防御的に優れており、また海軍力も秀でていたため発展した。海外進出と国際金融センターとしての役割が、オランダの躍進の理由である。
・戦争、財力、国民国家
結論……国民国家の誕生は、主に戦争に対する必要性から生まれた。軍事力は領土の保全と統制を可能にし、明確な領土が規定されることになった。
軍事費増大は同時に収入増大を促した。
[つづく]
The Rise and Fall of the Great Powers: Economic Change and Military Conflict from 1500 to 2000
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