◆80年代から90年代にかけて、合衆国は中東の紛争に介入を繰り返した。軍は徐々に深入りし、駐留の負担も増加した。
4 銀幕6番の呼び出し
レーガンはレバノンにおいて米軍の存在感を示すために海兵隊を進駐させたが失敗に終わり、朝鮮戦争以来の敗北を被った。
以下、レバノン内戦の経緯が説明される。
パレスチナを追放されたPLO(パレスチナ解放機構、当時テロ組織)がレバノンに流入し、このためレバノン南部はPLOの支配する国家内国家となった。
イスラエルの首相メナヘム・ベギンMenachem Beginと国防相アリエル・シャロンAriel Sharonは、レバノンに介入し親イスラエル政権を樹立すれば安定を保てると考えた。イスラエル軍は1982年に侵攻を開始し、レバノンを包囲した。
これに激怒したレーガン政権はイスラエルに抗議し、多国籍軍が平和維持のため派遣された。
米海兵隊は当初気楽な空気に満ちていたが、イスラエルおよびマロン派の支持するファランヘ党党首バシール・ジェマイエルBasir Gemayelが爆殺されると、内戦が激化した。
マロン派による報復の過程で、サブラー・シャティーラ虐殺(難民キャンプでの虐殺)が発生し、イスラエル軍は黙認した。
海兵隊の支援するレバノン警備隊はマロン派からなるため、米海兵隊も内戦に肩入れしているとみなされた。
海兵隊はPLOやシリア支援組織ヒズボラから砲撃を受け、徐々に戦死者が出始めた。やがて、米大使館の爆破テロ、1983年10月の海兵隊兵舎への車自爆テロ(241名死亡)などで、平和維持活動は撤退を余儀なくされた。
レーガンは「撤退ではなく転身」と弁明した。しかし、意図の不明確な中東進出が批判的に検討されることはなかった。
5 蹴られた狂犬が噛みつく
リビアのガダフィGaddafiはクーデタで政権を奪取して以降、反西洋・反アメリカ・反ユダヤを掲げ、各地のテロリストを支援し西側を挑発していた。
ガダフィはソ連から兵器供与を受け、海域封鎖を試みた。
レーガン政権はリビアをテロ支援国家に指定し、第7艦隊を出動させ海域封鎖に挑戦した。しかしガダフィが態度を改めなかったため、レーガンは懲罰のため、首都トリポリとベンガジの爆撃作戦を計画した。
イギリスを除くNATO諸国が作戦に反対したので、米軍は基地を使用することができず、作戦は非常に複雑になった。
1986年、エル・ドラド・キャニヨン作戦El Dorado Canyonが発動し、空軍・海軍の戦闘機・爆撃機がリビアを爆撃した。作戦自体はそこそこの成功を収めた(フランス大使館は誤爆により被害を受けた)。
しかしガダフィは健在であり、また以後もテロは続いた。その中にはリビア工作員による航空機爆破も含まれる。軍事力によってテロを根絶できるとの予測は外れた。
6 悪を助ける
レーガンは首尾一貫した思想の持主と評されるが、イラン・イラク戦争におけるイラク支援は、かれの機会主義と支離滅裂を示すものである。
イラン・イラク戦争はペルシア湾をめぐる第1次湾岸戦争ととらえることもできる。それは、アラブ対ペルシア、世俗政権対神聖政権、スンニ派対シーア派の戦いでもあった。
1980年、イランの軍事力が革命により弱体化していると考えたサダム・フセインは、東部国境のイラン産油地帯と水源を占領しようと侵攻を開始した。
イランは国民総動員によりイラク軍を後退させた。パニック状態になったフセインは一方的な停戦を宣言したがイランは拒否し、報復の進軍を開始した。
合衆国は、イラン・イスラム政権が地域覇権を握るのを阻止するため、イラクをテロ支援国家から除名し、続いてラムズフェルドなど親善大使を送り、武器商人(ソ連・フランス)を通じた軍事援助を開始した。
この間、戦争の長期化を望むイスラエルはイランを支援していた。アメリカとイスラエルが、一緒になって反米・反イスラエル国家を支援していたのは皮肉である。
さらに合衆国はレバノンにおける人質解放交渉と穏健派懐柔のためにイランに武器を売っており(イラン・コントラ事件)これは大規模スキャンダルとなった。
イラク・イランはお互いにペルシア湾上での攻撃や機雷敷設を行った。イランの敷設した機雷が米軍艦に打撃を与えたが、この機雷は帝政ロシア時代のものだった。
USSスタークはイラクの戦闘機によって攻撃され死者を出したが、レーガンはイラク支援の名目のため、責任をイランに課した。
一方、米軍はイランの沿岸や船舶を直接攻撃したときに、イラン航空の民航機を撃墜した。軍は誤射を認めず、民航機が空域を逸脱していたと虚偽の報告を行った。
米軍は直接介入し一連の懲罰作戦を実施した……ニンブル・アーチャー作戦Nimble Archer、プレイング・マンティス作戦praying mantis。
作戦終了後、アヤトラ・ホメイニは停戦に応じた。米軍による直接介入は大中東安定に寄与するかに思われたがそうではなかった。
※ レーガン時代の国防長官キャスパー・ワインバーガー、フランク・カールッチ
7 きれいな終わりはない
レーガン時代の米軍事介入は海兵隊、空軍、海軍など一時的な機動に限定されていた。
冷戦終結後、陸軍が前面に出てくるが、これは恒久的な駐屯を意味した。
クウェートはスンニ派支援の観点からイラクに多額のローンを行っていた。その後、返済のための石油減産をめぐってイラクとクウェートは対立した。フセインは90年8月クウェートに侵攻した。
H.W.ブッシュは大中東の危険分子フセインを抑止するため、砂漠の楯作戦Desert Shieldを発動し多国籍軍をサウジアラビアに駐屯させ防御を固めた。中央軍の作戦計画がまさに実行されたのだった。
※ 国防長官ディック・チェイニー、統合参謀本部議長コリン・パウエル、中央軍司令官シュワルツコフ
その後国連の支持を取り付け、中央軍は91年1月、砂漠の嵐作戦Desert Stormを開始した。作戦は成功し、シュワルツコフはイラク戦力の中核である共和国防衛隊を壊滅させようとしたが、ブッシュは世論や穏健派の空気を察し、攻撃を停止するよう指示した。
著者のシュワルツコフ評は、仰々しく、短気で、自分に対する批判に非常に不寛容といったものである。
戦争は華々しい勝利で終わったかに見えたが、中東の不安定要素は残り、状況はほぼ何も変わらなかった。逆に、米軍は軍を駐留し続ける重荷を背負った。
***
2部 幕間Ent'racte
8 善意
湾岸戦争の不都合な結末について。
・クルド人やシーア派の難民が大量発生し、米軍は人道支援活動(Operation Provide Comfort)に追われた。
・権力を保持したフセインがかれらを迫害するのを避けるため、航空機による監視作戦(operation Northern Watch)や、対空砲拠点の爆撃などを数年間続けた。米軍は、イスラエル軍が占領地で行うbatashと呼ばれる恒常的治安維持を行うことになった。
孤立主義が無責任とみなされ、人道的介入がもてはやされると、米軍は各地に軍を派遣することになった。
1992年から94年までのソマリア国連平和維持活動では、米軍の特殊部隊が軍閥アイディードを捕縛する作戦を行ったが失敗し、多数の兵士が殺された。
本来なら学ばなければならないはずの教訓――武装の行き届いたゲリラの支配する都市部での戦闘は危険であること、米兵の命を犠牲にする価値のある活動だったのか疑わしいこと、指揮系統が混乱を極めていたこと――は、映画と小説(「ブラック・ホーク・ダウン」)のヒット・美談化によって無視された。
湾岸戦争後の米軍の聖地への残存や、ソマリア作戦の失敗は、アルカイダなどの過激派テロリストを刺激した。
[つづく]
America's War for the Greater Middle East: A Military History
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