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うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『アフガン侵攻1979-89』ブレースウェート その1

 著者はロシア経験の長いイギリスの外交官で、独ソ戦についても本を書いている。

 

 1978年、アフガニスタンにおいて、クーデタにより共産主義政権が成立すると、タラキはスターリンと同じ手段で政権を安定させようと試みた。このため、翌年、ヘラートにて大規模反乱が発生し、タラキ政権はソ連に軍事介入を要請した。ソ連は拒否したが、援助は行った。

 この年、再びクーデタが発生し、タラキがアミンに殺害されると、ソ連は軍事介入を決定した。アミン政権に統治能力がなく、またアメリカに接近していることを懸念したためである。

 ソ連軍特殊部隊はアミンを殺害し、部隊がアフガニスタンに侵入した。

 ソ連の目的は、アフガン共産政権を安定させ、軍隊と警察を訓練し、1年程度で撤退することだった。

 この目論見ははずれ、9年近い戦争に引きずり込まれた。

  ***

 

 1 カブールへの道

 アフガニスタンは古来から東西南北をつなぐ要衝であり、多くの侵略者に悩まされた。山岳地帯が国土の多数を占め、部族民が多く住むために、防御に適した地形だった。

 帝国主義の時代には、ロシアとイギリスがお互いの権益をめぐって抗争を行った。

 イギリスはたびたびアフガニスタンに攻め込んだが、ついに直接統治することはできなかった。ロシアは周辺の都市国家サマルカンド、ブハラ、ヒヴァ等を保護国化し、またアフガニスタンとも安定した関係を築こうと努めた。

 1970年代、元首相ダウドがクーデタにより国王ザヒル・シャーを追放し、大統領に就任、社会主義国家の建設を始めた。ダウドはソ連、アメリカ、イラン等、複数の国と関係を構築し、軍隊、経済制度、教育、女性の権利について近代化を進めた。

 70年代のカブールはもっとも幸福な時代だったと言われる。

 一方で、過激な共産主義者イスラーム主義者が追放され、処刑された。

 1978年、共産主義者らがクーデタを成功させたが、保守的な国民の反発が強く、治安は悪化した。

 ダウドを殺害したアフガニスタン人民民主党はすでに2つの派閥に分裂しており、またマルクス主義理論がアフガニスタンに全く合致しないため、政治家たちは、純粋に権力の奪取と行使に専念した。

 タラキを追放し殺害したアミンは、大規模な弾圧と処刑を行い、さらに政情を不安定にした。アミンは合衆国のCIAとつながっているという噂が広まった。

 ブレジネフ、KGBトップのアンドロポフ、ウスチノフ国防相、グロムイコ外相、理論家スースロフらは、アメリカの浸透を阻止するため、アフガニスタンへの進駐を決定した。

 ソ連軍部隊はタージ・ベック宮殿を襲撃しアミンらを殺害した。また市内の通信施設、放送局を占領した。

 

  ***

 2 戦争の惨禍

 アフガンに侵攻した第40軍団は主にウズベキスタンカザフスタン等の近隣国の徴募兵からなっていた。兵隊、装備、組織いずれも対ゲリラ戦争への準備ができておらず、被害を受けた。

 一方、KGBやGRU、内務省の特殊部隊も無数にアフガンに潜伏し、こちらは大きな効果をあげた。かれらは情報収集をおこない、ムジャヒディンの動きの把握につとめた。

 アフガン軍の士気は低く、また無数の内通者がいた。ソ連軍はかれらを信用せず、作戦についても直前まで知らせなかった。

 ソ連軍の戦術について……高地の上に監視所を建設し、小グループが住み込みで監視する。食糧や資材はヘリコプターで運ばれた。

 かれらは小屋のなかで退屈な生活を送ったが、襲撃や死の危険が常につきまとっていた。

 ソ連人の顧問はアフガン国内のさまざまな分野に派遣されたが、しばしば攻撃を受けた。また、軍事顧問も戦死することがあった。

 

 軍隊生活……戦争中であっても、戦闘に参加するのはほんの一時である。徴兵された兵隊たちは様々な方法で退屈をしのいだ。市内のバザールでは西側の製品や郷土土産を買うことができた。

 デドフシナ(いじめ)は1960年代頃から問題になっていた。ソ連軍にはベテランの下士官が不足していたため、兵が兵をいびる慣習が定着してしまったという。

 ソ連兵の間で詩や音楽を作る試みがなされ、兵隊を楽しませた。

 将校はウォッカを、兵卒はブラガと呼ばれる自家製ビールを飲んだ。マリファナも普及していた。

 兵隊たちは戦争が終わりソ連に戻ると、未来がないことに気が付き茫然とした。

 かれらは無意味な戦争においても、仲間のために耐えていた。

 

[つづく]

アフガン侵攻1979-89: ソ連の軍事介入と撤退

アフガン侵攻1979-89: ソ連の軍事介入と撤退