憲兵としての初度配置が関東軍であり、石原莞爾らが謀略によって事変を起こす場面に立ち会うことになった。
軍を含む国家全体が、感情的、短絡的な傾向を強めていく様子を冷静に記述していく。
作者が自分の過去の振る舞いに対しどこまで中立なのかはわからないが、当時の雰囲気がうかがえる。
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1
関東軍の作戦参謀らと、憲兵らとの対立について詳しく書かれている。
上官の二宮少将は、石原や板垣が謀略をめぐらせていることを察知していた。しかし、事変の発生に際しては、国をあげてのことだから、と捜査を見送った。その後は傍若無人の関東軍に反感を持った。
規律違反に対するこのような譲歩が、後々まで悪影響を及ぼしたとのではないかと考える。
著者も、情緒的な革新若手将校に対し誰もいさめるものがいなかった、と回想する。
2
2・26事件とその顛末について。
憲兵は首謀者及び、その黒幕と疑われていた真崎大将をいかに処分するかについて論争した。
3
昭和14年になると反英闘争が強まり、特に陸軍の一部は排外主義を扇動した。かれらは海軍を宥和派と罵り、三国同盟の締結、枢軸の強化を唱えた。また、暗殺未遂が頻発し治安が悪化したのもこの時代である。
――由来、謀略性は遺憾ながら軍の習性とみられる。その幕僚の謀略性は、一貫してかわることがなかった。……幕僚の政治放言と政治策動、それに右翼との密絡は、たえずわれわれの視察対象であった。
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4
憲兵と軍の政治化とのかかわりについて、著者は2点を指摘する。
第1に、憲兵は全体として軍の政治活動からは距離を置いてきたが、皇道派が台頭したときの対応と、東条政権時に一派閥の私兵となったことで評価を落とした。
特に、東条英機は憲兵を使って閣僚等に嫌がらせ等を行ったため、「東条憲兵」、「憲兵政治」の汚名を被ることになった。
第2に、軍が政治に対して影響力を行使し始めたとき、憲兵が軍属、軍人を取り締まり対象とする軍事警察として、十分な職務を果たすことができたかどうか疑わしい。
憲兵は、一時期を除いて政治的領域に対しては臆病であった。また、人事権は陸軍省に握られているため、憲兵の身分は保障されていなかった。このため、軍の中央が政治化する動きを止めることができなかった。
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5
占領政策
シンガポールを陥落させた日本軍は、華僑を取締り、多数の殺戮を行い、後々まで憎まれた。
華僑粛清の張本人は企画者の辻参謀とそれを黙認した山下大将にあると著者は考える。
その後も華僑に対して強制献金させ、さらに原住民のマレー人にも苛政を敷いたため、日本軍に味方するものはいなくなった。
その後、著者は朝鮮に異動した。ここでも朝鮮人に対する徴用や皇民化政策、差別意識等により日本人は反感を買っていた。皇民化政策の際は、「日鮮同祖論」、日本人と朝鮮人が同祖であるというようなスローガンが唱えられたが、民間には全く普及せず低調だった。
以上のように日本は占領政策、統治政策において典型的な失敗を繰り返した。
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6
再び東京に戻ってくると、かれは反軍反戦運動の監視を行った。
敗戦濃厚となる中で、国民の士気を下げるような言論は取り締まらなくてはならなかった、と著者は書いているが、それが正しいかどうかは疑問である。
和平論だけでは罪科にならないが、反軍、反戦は取締り対象となる。このため東京憲兵は吉田茂以下親英米派を逮捕した。また、戦時中断固として反戦を貫き、近所の町内会にも出席しなかったために住民に通報された裁判官に対しても、説教を行っている。
こうした民間人に対する思想統制が憲兵の本来任務だとすればそれは秘密警察と同等のものである。
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7
終戦時の混乱について。
最高指揮官である天皇が降伏したため、軍隊はまったく規律を失った。
「連合国は憲兵をSSやゲシュタポ、NKVDのような秘密警察だと考えている。おそらく過酷な取り扱いを受けるだろう」、といううわさが広まり、終戦後1週間ほどで半数以上の憲兵隊員がどこかに消えた。
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憲兵業務の是非は別として、満州事変から終戦までの軍と一般社会の動向を知るうえで勉強になった。