戦闘……
ムジャヒディンは地元と密着しており、各監視所や部隊は、地元民と協力しなければやっていけなかった。
マスードは大学を出て働いた後、イスラーム主義運動に参加し、ムジャヒディンの一角となった。共産主義政権と同じく、ムジャヒディンも一枚岩ではなく、7つの派閥に分かれ、対立抗争を続けた。
ソ連軍は個々の戦闘には勝利したが、すぐにムジャヒディンに奪取された。
――ソ連以前・以後にアフガニスタンに駐留したほかの軍隊と同様に、ソ連軍もまた思い知らされた。ここでは、ひとたび地域を制圧したら、そこを固守できるだけの兵員を配置する必要がある、と。……最終的に、なんとかしてこの泥沼から抜け出す以外、選択の余地はなかったのである。
荒廃と失望……
捕虜に対する拷問や殺害はソ連軍、ムジャヒディンの双方においておこなわれた。また、ソ連軍は民間人の殺害等、多くの戦争犯罪に加担したが、軍幹部や政府によって隠ぺいされた。
ゲリラ戦に対抗するため、兵隊は民間人を見つけると撃ってから判断した。
ムジャヒディンも敵の首を刎ねたり、捕虜の皮をはいでブービートラップをしかけたりした。それはアフガンの伝統的な戦争方法であり、キプリングの冒険小説『キム』でも言及されている。
当初、アフガニスタンへの侵攻は完全に秘密裏に行われた。
ソ連においては、「国際的な任務」のために軍隊が派遣されたとされ、戦闘行為を行っている事実は国民に知らされなかった。
――戦死者は夜に紛れて家族のもとへ帰され、ひそかに埋葬された。もしも秘密のベールが破られたら処罰される。
数年すると、そういった嘘は無意味になった。
――分析によれば、一般国民は最初の数年のうちにすでに戦争がおこっていることをよく知っていた。また、兵士たちは「国際的任務」を実行しているのであり、1978年の革命を守り、アフガニスタン国民を助けようとしているのだという公式プロパガンダなど、国民はほとんど信じていなかった。
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3 長いお別れ
撤退から、その後の内戦、またソ連崩壊までをたどる。
アンドロポフ、チェルネンコは、アフガンから「限定派遣部隊」を撤退させようとしたが、なかなか進行しなかった。ゴルバチョフの代になり、ようやくソ連軍は撤退した。
その後、ソ連の傀儡であるナジブラへの援助が打ち切られ、ムジャヒディンが優勢に立った。しかし、すぐに分裂し、マスードは北部同盟として一地域に追いやられ、難民キャンプから誕生したタリバンがアフガンを掌握した。マスードはその後爆殺された。
「アフガニスタン侵攻は失敗だった」、とソ連首脳部は公式に声明を出した。
軍人や帰還兵は、自分たちへの扱いに不満を抱いた。帰還兵は犯罪者か麻薬中毒者とみられ、軍人もまた犯罪者扱いを受けた。
それは、かれらの父や祖父が対独戦から帰ってきたときの姿勢とはあまりにかけはなれたものだった。
ソ連の政治経済は末期にさしかかっており、帰還兵や傷病兵への手当は、ほとんどが支給されなかった。帰還兵の多くはPTSDに悩まされたが、アメリカと異なり、病院や設備、治療制度は未整備だった。
ソ連崩壊後も帰還兵の苦しみは続いたが、プーチン政権以降、にわかに地位向上の試みがなされた。プーチンはアフガン戦争に従事した者を称え、かれらへの福祉政策を充実させた。
――このときアフガン帰還兵たちは、アフガニスタンの功労と苦労が20年後になってやっと認められたのだと思えた。彼らが国益を守るために戦ったその国家は、もはや存在しなかったが。
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アフガン戦争とベトナム戦争の大きな違いは、アフガンが外国軍を追い出した後も勝利を味わえなかったことにある。
ソ連撤退後も内戦が続き、より苛烈なタリバンが全土を支配し、さらに米軍とNATOの介入を招いた。
アフガン紛争の規模はベトナム戦争よりも小さかった。侵攻は、ソ連への国民の信頼を低下させたが、崩壊の直接の原因ではなかった。既にソ連の政治経済は行き詰っていた。
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著者は戦争の無益さを重ねて主張する。無意味な戦争においてまず被害を被るのは民間人と徴集兵である。
――国の指導者は、野心、貪欲、倫理的・救世主的な情熱などの理由から、また状況次第で国家的優位が損なわれかねないという予測から、外国での戦争へと国を導く。