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『The roots of Blitzkrieg』James S. Corum その1

 『電撃戦の起源:ハンス・フォン・ゼークトとドイツの軍事改革』

 第2次大戦におけるドイツ軍戦術の起源をたどる本。

 ドイツにおける戦略および戦術の発展は、戦間期、主にハンス・フォン・ゼークト将軍によって担われた。

 本書はゼークトや無名の将校たちが発達させた電撃戦成立の経緯について考える。

 ゼークトを中心とした軍人たちの制度保持、訓練、戦術研究によって、第2次大戦初戦の勝利が達成されたと著者は確信している。

 

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 ドイツ軍は戦間期ライヒスヴェーア(共和国軍)、再軍備後はヴェーアマハト(国防軍)と呼ばれる。

 ドイツ敗戦直後の状況を理解するには、内戦と叛乱について知る必要がある。ソ連の影響に伴う革命および叛乱や、失業した軍人たちの義勇軍(フライコール)による一揆、兵士の叛乱が続発し、国内は混乱していた。

 

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 第1次大戦敗戦後の、軍人らによる反省・教訓について。

 敗戦時の政治と社会は混乱し、誰も共和政府の正統性を信じていなかったが、一方で軍人たちは戦訓を収集し、改良策を練っていた。

・国力から判断してドイツに勝ち目はなかった。しかし、一般的にドイツ軍の練度は高く、戦術は連合国よりも優れていた。

モルトケ、ファルケンハインは判断を誤った。ルーデンドルフの方針も有効ではなく、「背後の一突き論」は荒唐無稽である。

・ドイツ軍の戦術が磨かれたのは主に東部戦線である。タンネンベルクやルーマニア、イタリアにおいてドイツ軍の作戦は成功した。

 浸透戦術(少数分隊による奇襲、夜襲)や、火力による援護、航空機との連携等が試みられた。第2次大戦時の著名な将軍の大半は、東部戦線出身である。

・ドイツ軍は伝統的に下級将校や下士官に多くの裁量を与え、柔軟な判断を認めてきた。

・ドイツ軍は多様な教育を通して士官、下士官を育成し、優秀な人材を参謀本部に集めた。

・結論としては、ドイツ軍はよく訓練され、また砲弾・航空機・浸透戦術等を利用し、連合国よりも少数ながら、連合国よりも多くの敵兵を殺害した。一方で、初戦の戦術、戦車の軽視等、問題点もあった。

 

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 フォン・ゼークトと、戦争の再検討について。

 ヴェルサイユ条約によって多くの制限(参謀本部の解体、士官及び兵数の制限、部隊数の制限、戦車、航空機、重火砲等の制限)を科された共和国軍において、軍の質を維持・向上させたのがグレーナーとフォン・ゼークトである。

・ゼークトは、志願兵を中心とする少数精鋭による機動戦が、次世代の戦争を制すると考えた。

参謀本部(General Staff)が解体されたため、兵務局(Truppenamt)を創設し、実質的に参謀本部として機能させた。兵務局には多数の参謀将校を勤務させ、また大学への出向等により科学技術等を学ばせた。

・各軍種の調査官(Inspectorate)を設置し、戦闘技術の改良や更新を行わせた。

・兵器局(Weaponry Office)は兵器の開発及び発展を担当した。

・状況や軍種に応じて戦訓委員会を編成し、第1次大戦の教訓を収集し、新しい戦術や訓練に反映させた。

 戦後まもなく、共和国軍は教範「リーダーシップと戦闘」を刊行した。最新の戦闘技術、各級指揮官及び下士官の指揮を重視する思想は、当時もっともすぐれた戦術教範とされ、第2次大戦まで改正が重ねられた。

 

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 ゼークトの機動戦思想と異なる学派も、当時の共和国軍内には存在した。こうした異なる学派相互の議論が、戦術の発展につながったと著者は主張する。また、ゼークトはモルトケ以来の包囲殲滅思想を維持しただけではない。共和国軍は、政治的には伝統派だったが、戦術は改良が重ねれらていた。

塹壕戦派

 防御を重視する、主に西部戦線で戦った士官たちの思考。

・心理戦派

 ユンガーや、クルト・ヘッセの哲学的な著作が含まれる。

・人民戦争派

 ゲリラ戦はドイツ軍ではあまり取り上げられなかった。

・その他

 騎兵と槍を残すよう主張する勢力は1920年代末まで存在した。

 ドイツは資源に乏しいため、防御的な塹壕戦・消耗戦では戦えないと多数が実感していた。このため、攻撃と機動を重視するゼークトの方針は概ね支持された。

 一方で、かれはゲリラ戦の効力や歩兵の機械化には消極的だった。また、かれは騎兵を存続させた。

 

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 共和国軍の教育訓練レベルは、当時どの国軍よりも高い水準にあったというのが著者の主張である。

 ドイツ軍の訓練は下士官や末端の士官に高度の自律性や戦術性を持たせるものであり、当時の米軍人によれば大変練度が高かったという。

 士官への登用は、戦時中には拡大されたが、終戦後は徐々に選抜されていき、狭き門となった。士官の大部分は中流階級以上の出身で、学歴を持っていた。

 教育カリキュラムについて……下士官教育課程、将校教育課程、下級将校への定期的な試験、参謀課程等。

 外国への留学や、一般大学への留学も盛んにおこなわれていた。

 戦術と作戦にのみ重きを置き、近視眼的な士官ばかりを育ててしまったという指摘もあるが、著者はこれに反論する。いわく、様々な課程教育において戦略や軍事史、国際政治や経済がとり上げられていた。

 後年、軍の戦略家が不足したのはヒトラーがそのような機能を軍から排除したためであるという。

 技術教育、実践、理論、外国語とバランスよく配分された高級課程は当時もっともすぐれた教育カリキュラムとされた。

 ドイツ軍教育訓練における2つの欠点は、軍需経済とのつながりが希薄であったこと、高級参謀育成をあまりに選抜したため人員不足となったことである。

 

 [つづく] 

The Roots of Blitzkrieg: Hans Von Seeckt and Germany Military Reform (Modern War Studies)

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