うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『Embracing Defeat』John Dower その1

 邦訳は『敗北を抱きしめて』。

 当時の出版物や新聞記事、証言、またはデータを基に、日本人がどのように終戦と占領を受け入れたかを検討する。

 日本人の占領に対する意識は驚くほど多様だった。また、米軍による政治指導者たちの処罰や施政方針は、戦争責任や加害者・被害者意識に関する日本人の考え方に、後々まで影響を残した。

 これまで知らなかった細かいエピソードや事実があり参考になった。

 ◆メモと感想

 日本は敗戦の際に、社会構造の主な部分を残存させた。それは占領軍の意向であるとともに、日本の支配者層の抵抗でもあった。

 日本の統治者たち……皇族と神道関係者、政治家、軍警察、官僚、財閥は、不本意ながら米軍の強制力に従った。こうした階層は今でも復権のために活動している。

  ***

 

 1 勝者と敗者

 降伏と終戦についての指摘。

・降伏文書調印には昭和天皇以下、一切の皇族は参加していなかった。

・終戦時に軍人や役人が国の資産・公共財産を持ち逃げした。

・終戦時、650万人の軍人と軍属、一般市民が国外に残されていた。かれらが帰ってくるまでには数年かかった。もっとも過酷だったのは満州で、10万人以上の移住者が消滅した。

・一部で有名な大仏次郎の言葉(「日本人が戦災孤児を放置しておくのは、経済的事情によるのではなく、単に冷淡なだけ」)はこの章が出典のようだ。

 復員軍人は敗者、犯罪者として扱われ、手足を失った軍人が路上生活を行った。また、孤児たちも忌み嫌われた。

 ――実際のところ、人びとには、単に他者に対する愛情が欠落していただけなのだと結論付けた。

・多くの人びとや政治活動家が占領軍を歓迎し、かれらを解放軍と考えた。マッカーサー以下GHQは日本人に民主主義を根付かせ、軍国主義の根を断ち切ろうと種々の政策を実施した。

・ある論者はこれを「配給された自由」と呼んだ。

・兵隊は敵軍よりも自軍の将校を憎んでいた。国民の多くは、死と破壊からの解放を受け入れる一方、これまで信じてきた目標や価値観を失った。

 

 2 失望を超える

 終戦直後には「虚脱状態」といった言葉が流行した。記録によれば、1941年から悪化していた食糧事情は、終戦に伴う植民地からの輸入停止によりさらに悪化した。

 人びとは自分の着物や所持品を売って生活したため、「たけのこ生活」、「たまねぎ生活」の言葉が生まれた。

 食糧難と失業による貧困が深刻化し、結核を始めとする疫病が蔓延した。特に子供たちの栄養失調は深刻だった。

 闇市は違法だったが、もし配給だけに頼っていればさらに大量の餓死者が出ただろうと推測される。

 「悪法も法」として闇市を利用せず餓死した裁判官の話についても書かれている。わたしはこの話を「四角四面に法律を守って死んだバカ」という意味合いで教わった記憶があるが、事実は若干異なる。

 山口良忠裁判官は、闇市を利用する市民、その中でも、要領が悪く検挙されてしまう老人等を裁かなければならなかった。おそらくは政府と国家に対する抗議の意味をこめて、餓死したという。

・本土決戦のために備蓄された食糧や物資の大半が闇市に売られた。国の資産を横領したのは軍高官、官僚、企業家、政治家である。調査委員会がつくられたが大物摘発にはいたらなかった(隠退蔵物資事件)。

・占領軍のために国営の「特殊慰安施設」が開設されたが、すぐに民間主体の赤線地帯に変更された。

・カストリ文化とデカダンス無頼派の隆盛について。規制の道徳や秩序が崩壊し、新しい人間性が生まれた。言葉の使い方も、戦前のスローガンから一新された。

・敗者としての屈折した意識が生まれる一方、戦前の国粋主義に代わり、個人の愛情や自由を尊重する文化が隆盛した。

 

 3 革命

 日本人を民主化するための占領軍統治は軍隊型官僚組織によって実行された。かれらは、言語や組織編制上の問題から、既存の制度……天皇や官庁を通じての間接統治の形式をとった。

・GHQは意図的に司令部から日本研究者や親日家を排除し、末端の翻訳業務等に就かせた。

・国民は、アメリカ人が驚くほど占領統治を歓迎し、マッカーサーは多くの贈り物や手紙を受け取った。

・戦前戦中には沈黙するか付和雷同していた知識人たちが、にわかに「進歩的文化人」として登場した。反政府を貫いた共産主義者は英雄になり、マルクス主義がもてはやされるようになった。

・制度、法律、言語、教育、文化等様々な面で民主化が図られた。労働基準法を制定したのは元特高警察出身の人物である。

メーデーやデモ、ストライキの隆盛はGHQの予想を超えており、天皇制含む権威主義体制への犯行は鎮圧しなければならなかった。やがて共産党は反米姿勢を明確にし、また暴力革命を志す派閥が分裂した。

 

 4 複数の民主主義

 GHQは占領統治を容易にするため天皇を免責したが、戦争中も天皇を非難することは禁止していた。天皇への侮辱はキリストへの侮辱と同等であり、日本兵の自爆攻撃を激化させると考えられたからである。天皇温存の政策は占領後も継続した。

 宮中とGHQの思惑は一致し、憎むべき軍国主義者と天皇との間にくさびを打ち込む方針が決定した。実際には、天皇が日米開戦やその他戦争指導に責任を負っていることは明白だったにもかかわらず。

・ワシントン首脳部とGHQは天皇を統治に利用しようとしていたが、現地の報告や、日本の特高憲兵隊による報告は、終戦を境に天皇の権威が低下していたことを示している。

・公安機関の報告……人びとは天皇の行く末よりも食糧と住宅を心配している。天皇ジョークで笑っている。

・宮中はGHQ高官らを鴨猟で接待したがこれは好評だった。

天皇人間宣言は、GHQのブライスと日本文学研究者ヘンダーソンらの草案が原型である。ここに「五か条の御誓文」を追加し、明治天皇との継続性を強調すべきだとするマッカーサーの意見が加わり完成した。

天皇の免責工作について……GHQと宮中は、昭和天皇を平和主義の君主、民主主義の象徴に仕立て上げた。巡幸により支持を増やし、戦犯らに対しては、天皇について言及しないよう言いくるめた。

 一方で、退位さえしない天皇に対し無責任と非難する声もあった。

 GHQはポツダム宣言に基づき、日本政府に対し民主的な憲法改正を要求した。しかし松本丞治率いる委員会はGHQを甘く見てほとんど変更を加えず、結果GHQが直接憲法作成に乗り出した。なお、近衛は比較的自由主義的な改正案を考えていたがA級戦犯として起訴され自殺した。

 マッカーサーの真の目的は民主主義や基本的人権ではなく天皇制の維持にあった。

 世論の大半は、天皇制の存続に無関心だったという統計が出ている。

 GHQ案は国会で可決されたが、わずかな共産党員を除いて反対はいなかった。国民は新しい憲法を概ね歓迎した。保守派は、占領終了後すぐに変えようと考えていたがうまくいかなかったようだ。

・GHQの憲法案作成には少尉や中尉も参加していた。

・GHQが草案を作成したことは公然の秘密であり、日本語として不自然な点があると指摘する識者がいた。翻訳の過程で政府は若干の操作を行った(「国民」等)。

 検閲民主主義……占領統治の初期から、GHQは出版・報道・その他表現に対して厳しい検閲を行った。検閲の事実自体が非公表であり、基準も明かされなかった。この体制に協力したのは多数の日本人(英語の使えるもの)だった。

 あらゆる出版、映画、漫画、ラジオや娯楽は事前検閲され、担当局であるCCDにより差し止めされた。検閲は紙の配給止めや沖縄重労働、罰金を伴った。出版界や映画産業は検閲を恐れて自主規制をするようになった。

 独立が間近となり、検閲が停止するまでに、日本人は抵抗よりも、沈黙と順応を選ぶようになったと著者は書いている。

 

[つづく]

Embracing Defeat: Japan in the Wake of World War II

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