原題はkosovo and beyond。
コソヴォ紛争を筆頭とする、彼のいうヴァーチャル・ウォーは、地上戦が欠如しているところにその特性がある。イラク戦争とコソヴォ紛争はどちらも国際連合を無視して行われた。
人権をトランプの切り札のように考えては、「人権の帝国主義、人権を国益の隠れみのとして利用する大国の抑制なき武力行使を正当化することになる」。一方で、イラクの人権侵害にたいして諸外国は30年来無関心であった。
著者はカナダの政治家であり、人道主義の胡散臭さを指摘した上で軍事制裁や空爆を肯定する立場をとる。
<はじめに>
コソヴォ紛争はコソヴォ州でセルビア人民兵や警官に迫害されたアルバニア系住民を救出するためにおこなわれた。セルビアの頭領はミロシェヴィッチである。
コソヴォでは、湾岸紛争のような侵略阻止といった古典的な正当性や、地上部隊を支援する兵站は存在しなかった。
とくに戦争では、正当化のためのヴァーチャル・リアリティ「仮想現実」の創出が大切になる。
人権のための武力行使を認めるなら軍事についてよく知っておく必要がある。手段は目的を裏切ることがある。
<第一章 崖っぷちの即興演奏>
アメリカのコソヴォ政策を任されていたのはボストン銀行副会長リチャード・ホルブルックである。
無責任にバルカンを統括しようとの野心をもったアメリカ人は、一九一八年のウィルソン大統領もまたその一人である。ハロルド・ニコルソン『平和の創設』における批判、「大西洋によって永遠に守られたアメリカは、独善を満足させようと望んだが、その責任は回避したかったのだ」。
<第二章 バルカン物理学>
NATO空爆の前に、既にアルバニア人は首都を追われてマケドニアの難民キャンプに集まっていた。
ミロシェヴィッチは大セルビア主義者であり、NATOは人道問題に関しては口で言うだけで実行はしないだろうと考えていた。彼は自分の武器として権威主義的ポピュリズムを用いた。政府はすべて民衆によって選出されたものである。
「ミロシェヴィッチは、自分自身と妻と直接の家族以外の人間にたいしてまったく無関心であったのだ……NATOはいま、民衆の困窮にたいする無関心さは前代未聞であり、たとえ降伏したとしても自分自身は生き延びようとするであろう、そんな男が降伏するのをひたすら待っていた」。
正確な射撃には、接近することが不可欠である。
「ハイテク戦争は、真正面から対立するふたつの制約――民間人の死傷者をなくすること、そしてパイロットの危険をなくすこと――をうけていた」。
他人にすぎない民間人の命よりは、パイロットの命のほうが大切である。このことは昔から戦争の定石だったが、テレビの時代には反発を受けることもある。
<言葉の戦争――介入をめぐる対話>
利益のための戦争よりも道徳のための戦争のほうが、烈しい論争を巻き起こす。コソヴォ介入を支持するかしないかは、人道を重んじるか、国家主権を重んじるかの違いから生れる。国内政策としての迫害を、外部から制圧する権限を持つのか。国連憲章とのずれはどうすればいいのか。これらは『人道的介入』でもしつこく書かれていた問題だ。
介入支持のイグナティエフと、反対のスキデルスキーの往復書簡について。
「多分あなたは平和よりも正義のほうを高く見積もっておられるのでしょう。もしそうであるならば、この点に私たちの意見の対立があります」。
国家主権の尊重か、国家よりも国際、国家内の個人を尊重するか。コソヴォ難民の発生はミロシェヴィッチの政策か、NATO空爆のせいか。
<第四章 ヴァーチャル・コマンダー>
ここではコソヴォ爆撃の顛末が語られる。最新の戦争形態は、システムへの信仰に依存している。戦争は正確なミサイルによる外科手術のように、西欧諸国民にはとらえられた。
爆撃はあまり効果がなく、ミロシェヴィッチはまったく譲歩の様子を見せなかった。NATOは地上部隊を投入すると見せかけるために機動部隊ホーク(アパッチ使用)をアルバニアに派遣させた。
誤爆するかどうかは現場のパイロットにゆだねられている。誤爆したパイロットの名前は伏せられ、かわりにクラークがメディアに登場するのだった。
「最高司令官としてのクラークと現実の戦争との接点は、アビアーノのパイロットたち、そしてマケドニアやアルバニアの兵隊たちを空路訪問したことを別にすればはらわたで感じるものというよりもむしろ仮想的なものであった」。
クラークたちは大量に集められた標的データを過信していたが、そこで起きたのが中国大使館誤爆だった。
「セルビア勢力は、カモフラージュ、偽装、そして囮(デコイ)の利用に長けていることが明らかになった……高額の精密兵器が、ソビエト軍の旧型の兵器や戦車にたいして用いられ、しかもたいていそれを破壊することに失敗していた」。
「否定しようのない事実は、世界でもっとも強力な空軍が戦場に展開したミロシェビッチの軍隊を破壊することができなかったということである」。
セルビアは対空兵器をうまく爆撃から逃がすことに成功していたため、NATOが制空権を確保することはできなかった。
五月には世論が戦争不支持に傾き、正当性がはがれていった。そこでクラークは発電所を爆破したが、これによりセルビアの銀行やレーダーシステムがダウンし、もっとも大きな効果をあげることができたのだった。民間人にも停電による被害がでる一方、ミロシェビッチにも大打撃であった。
「暗視用ゴーグルは、NATOのパイロットたちが実際に使用しはじめてからわずか一八ヵ月足らずであったが、おそらくこの戦争におけるもっとも新しい技術革新であったといえる」。
また、ロシアが最新兵器の支援をしないということが最大の勝因だった。セルビア軍の装備は七〇年代ソ連のものだ。
ロシア国民はみな親セルビアだったが、エリツィンが独裁をふるっていたおかげで国益を考えセルビアを突き放すことになったのだった。
クラーク曰くこれは戦争ではなくミロシェヴィッチへの強制外交だった。
<第五章 正義と報復>
国際法廷の成り立ちが語られる。六月、セルビア降伏後の、戦争犯罪の処理。ミロシェビッチはすでに悪魔扱いされているが、素性の知れぬ民兵の行った虐殺と、国家元首を結びつけるのは難しい。
だが、国際法廷よりも国家主権のほうが優先されているのが現状のようだ。
結局、道徳的普遍主義とは、「西洋が自己讃美をするために唄うもうひとつの歌にすぎないのではないか」。中立に見える国際検察局は、実際は政治と偽善のかたまりである。あらゆる組織は政治から逃れられない。
「正義がなされるよりも報復がなされるほうがずっと速いのだ」。
隣村からやってきて住民を殺害した目だし帽のセルビア人たちを、もはや捕まえることができない。コソヴォ住民はおそらく報復でしか満足できないだろう。
<第六章 敵にして友>
宣伝戦について。
かつての総力戦とは異なり、敵同士でも連絡がとれるので、相手陣営を悪魔としてえがく宣伝はあまり功を奏さなかった。セルビア政府はクリントンをヒトラーにたとえたが、説得力がなかった。
――「ユーゴスラビアにおける内戦は、ヨーロッパのほかのところがとうの昔に通過してしまった国境設定と民族的同質化というその同じ過程の一部である。いまおこりつつあるものはバルカン化ではなくヨーロッパ化であって、しかもしれは不可逆的なのだ」。
西洋は多様性のある共同体を理想に掲げつつあったが、東欧諸国が憤慨したのはこのうわべだけの道徳的イメージについてだった。
「寛容を説くわれわれとは、いったい何者なのか。そして、彼らの指導者が降伏を拒否するとみるや彼らのうえに爆弾を降らすわれわれとは、いったい何者なのか」。
セルビアと西側諸国、どちらにもやましい心があった。理想は多くの場合汚い手によって掲げられる。
<第七章 ヴァーチャル・ウォー>
戦闘が射的のようなものになる。軍事的暴力と民主主義のつながりを考えることが必要である。武力行使を命じる市民が暴力をまったくリアルにとらえていないとしたら、抑制は可能なのだろうか。
「イラクやユーゴスラビアのようなならず者国家は、新しい技術のためのおあつらえむきの試射場であった」。
精密誘導の革命は戦争を変えた。海軍は巡航ミサイル発射隊へ、空軍は「高航度の専門部隊」に変身できた。
だが陸軍は一体、戦車と砲兵と兵站の恐竜からどう進化すればいいのか。陸軍からの反発は大きかった。陸軍はもはやいらなくなるという革新論者の主張に、シュワルツコフ将軍たちは反対した。結局最後には地上部隊が必要になるだろう。
バルカン紛争のとき、アメリカの参戦論者は、悲劇にたいしてなにもしていないといううしろめたさに着目し、批判したのだった。
「ボスニアによって見事に明らかになったのは、虐殺がおこなわれているときに最高司令官が手をこまねいてみているならば、大統領の名声にたいしてかなりの傷をつけることになるということであった。だがくり返しになるが、恥辱が政治的コストであるとしても、そうなったのは、声の大きな少数の影響力をもつ活動家たちがはっきりとそう主張した――メディアを利用することによって――からなのだ」。
――おそらく民主政国家は、戦争のリスクが市民にとって現実的なものでありつづけるかぎり、平和を愛しつづけることだろう。
指導者たちは代議制をとびこえて軍事命令を出している。安保理はコソヴォ空爆を許可しなかったが、危急の事態であるとしてその後承認したのだった。これはルワンダ虐殺にすばやく対応できなかった教訓からである。
米国民の支持率は開戦当初から徐々に低下していった。民族浄化を阻止できるのは空爆ではなく、地上部隊だけである、ということがしだいに明らかになってきたからだ。
アメリカの民主主義は弱体化している、と著者は指摘する。
フランス革命から、戦争は国民全員の動員を意味するようになり、軍事的犠牲は道徳となり、「上下関係、ヒエラルキー、絶対服従」が国家全体の規律となった。戦時動員の一致団結の記憶から、共産主義への支持が生れた。第一次大戦の開戦時諸国民は狂喜したが、これはまだ病気による死亡率が高かったので、流血が今よりも受け入れやすかったこともある。そして、こういう時代は終わった。
死の追放、天寿のまっとうこそが正常であるという感覚。核兵器もまた戦争賛美をうさんくさくさせた。ベトナム戦争後、徴兵制が停止し、将校エリートは保守、共和党支持、キリスト教徒、出身は南部か中西部が典型となる。
技術は民間が先導するようになり、軍事支出はますます小さなものになる。
こうして戦争がヴァーチャルになっていくのであると著者は書く。スポーツのように、究極的なものはなにも賭けられていない。スポーツだとしたらもっとも重要なのはメディアの管理である。現代戦争は幻滅ではなく真実をつくりあげることで勝利する。
こういう時代にあって、よき市民とは懐疑的な市民のことだと彼は言う。
人権はよいものと悪いものを生み出し、爆撃を魅惑的にさせる。
「人権の言語は仮想的な道徳世界を捏造しがちである」。
平和もまたことばのうえでだけ存在する概念である。
「戦場から遠く離れた民間人は、前線にいる兵士よりもずっと血に飢えている」。
第二次世界大戦の情報将校グレン・グレイ曰く「抽象的な思考は、抽象的な感情がもつ非人間性とまさしく照応するものだ」。
「私たちは、言語のなかで生きている」
――私たちはこのような、自分だけは痛みを受けないですませることができるという独善的な寓話から離れる必要がある。そのときにこそ手を汚すこともできるのである。そのときにこそ、正しいことをおこなうこともできるのである。
- 作者: マイケル・イグナティエフ,金田耕一,添谷育志,高橋和,中山俊宏,土佐弘之
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