うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『彼らは来た』パウル・カレル

 ノルマンディー上陸を題材にしたドイツの戦記文学。

 一九四四年六月三日、D-DAYの三日前からはじまる。ノルマンディはコタンタン州、伝書鳩がいまだに、英国諜報部とフランスレジスタンスの間で用いられていた。北仏を統括しているのはロンメル将軍で、彼は上陸時に連合軍を叩くことを主張していたが、錬度の足りない兵ばかりだった。上陸がいつ来るのかは天候に左右される。前日の五日、ドイツ司令部は雲行きが怪しいのをみてまた数週間上陸はないだろうと気を抜いていた。

 ロンメルは発明をよくする若い将軍であった。彼は戦術について老将たちと対立した。

 ――「上陸させるな」がロンメルのテーゼで、「来させろ」がルントシュテットとガイルのモットーであった。

 フリードリヒ大王曰く「すべてを守らんとする者はなにものをも守らず!」フランス海岸すべてに戦線を敷くのは困難である。

 誕生日祝いで気を抜いているうちに、英軍、米軍の空挺部隊が下降しオルヌ河の橋を制圧する。

「「こっちが衛生兵だと爆弾にもわかりゃいいけど」爆弾にはわからなかった。衛生軍曹ホフマンはその後まもなく爆死した」。

 Decision-Day前夜、溢水地帯の多さ。マルクフに降下したアメリカ軍空挺部隊は、蛙笛を用いるがドイツ軍に知られ失敗する。

降下猟兵連隊」という。一方、イギリス降下猟兵連隊はメルヴィルの砲台を狙った。「地上のコンクリート目標物に対し絨毯爆撃がいかに効果がないかの見本である」。

 W5はほぼ陥落し、ヤーンケ少尉は捕虜になる。ここが<ユタ>ビーチであり、この暗号名を知った最初のドイツ人がヤーンケであった。天候が上陸作戦の決行日を左右したのだった。

 阻塞気球は敵空軍を妨害するために浮かべられる。ドイツ空軍が、連合国に比べはるかに弱かったのが致命的だった。オマハビーチの陰惨なたたかい。イギリス軍の上陸した<ゴールド>、<ジュノー>、<スウォード>から、ドイツの前線は突破される。

 ドイツ軍の敗退がつづく。マルクフの砲台と、ユタビーチから上陸しようとする艦隊との戦い。マルクフ砲台は二一〇ミリ砲一門で駆逐艦三隻を沈めたのだった。

 イギリス軍のバイユー占領。マルクフとアズヴィルの砲台はまだ善戦していた。

 マルクフとカランタンから撤退する。ティーゲル戦車はやはり強く、ミヘル・ヴィトマンSS中隊長はモントゴメリー将軍の一個旅団を壊滅させ、ティリーは守られたのだった。

 V1号は開発中にすでにイギリス秘密情報部にかぎつけられ、何度も工場を爆撃されていた。これをロンドンでなくノルマンディーの連合軍にむけて発射していれば、効果があったかもしれない。ヒトラーは間違いをおかしたのだった。

 北仏海岸の最後の砦、地下要塞オストエックが陥落する。フランスは既に占領していたものの<動物同盟>、アラミシェル将軍率いる<獅子>などのレジスタンス、スパイによって、ドイツ軍のほとんどの戦力情報を連合国に伝達していたのだ。

 ――これはいまでもまったく理解できないのだが、近代の技術戦が武器によると同様、見込みちがいによっても決するという証拠である。このことは、技術的優越しか考えない力の政策の支持者にとり教訓となるであろう。

 わたしが考えていたよりもドイツ軍は随所で健闘していたようだ。蒸し暑いフランスでの戦闘、ここでは生垣と湿地帯が多いとのこと。

 カーンへの連合軍の侵攻。オルヌ渡河ができず、冬が訪れれば天候は悪化し、頼みの空軍力はつかえなくなる。そのあいだにドイツが南仏部隊を補強させてくれば、まずいことになる。アイゼンハワーはじめ首脳部の間に危機感が訪れた。「戦線膠着」という言葉が新聞に載る。

 だが、ドイツ軍は相変わらず、パ・ド・カレーへ第二の侵攻があると信じ込んでいた。

「アメリカのグデーリアンと称されるジョージ・S・パットン将軍は、そのときのために第三軍をもって用意していた。ドイツ国防軍最高司令部と総統司令部はパットンの荷を軽くしてやったのだ。それでも勝利が容易でなかったのは、ドイツ軍前線部隊の勇戦の結果である」。

 敵は何をしているのか、この問いからすべての戦略ははじまる。ドイツ軍は連合国にくらべて情報に重きを置かなかった。皆、頻繁に酒を飲む。モンドヴィルでのカナダ軍戦車部隊とのたたかい。カーンをめぐっての攻防では、やはりドイツ戦車は強かった。モントゴメリーのイギリス軍は撤退し、本国では非難轟々だ。だが、七月十七日、戦線視察に来たロンメルの車がヤーボの機銃掃射にやられ、ロンメルは頭蓋骨骨折で負傷、戦線離脱する。これは致命的だった。

 ロンメルの後任はハンス・フォン・クルーゲ。

「歴史はクルーゲに、最高司令部の不当な介入と戦うドイツ軍将官の悲劇的シンボルとなる役割を用意していた」

 

 バイエルラインはアフリカ以来のロンメルの戦友であった。彼の装甲教育師団はすでに全滅していた。バイエルラインらの司令部はシャーマンに爆撃され彼らはウサギのように逃げる。

 クルーゲ元帥は名将だったが物量不足には勝てなかった。彼はモーデル元帥に席を譲り、ヒトラーに戦争をやめるよう忠告したあと自殺する。ドイツ軍は包囲されたがそこを突破する。クルト・マイヤー少佐は以前は中学校長だった。ミヘル・ヴィトマンは連合国の侵攻を食い止めるが、戦死する。ノルマンディ上陸後のパリへの侵攻はほとんどパットンの手柄であったようだ。

 アフリカでも、海戦でも、制空権を握られてドイツは敗れたのだった。

「要するにドイツ軍需工業力が西と東の戦線の需要をまかないきれなかったのだ」。

 ――ヒトラーは西方戦線の危険な進展に盲目ではなかった。他人にまして戦争の技術化には気をつかい、アメリカの優勢から生ずる問題を直視はしていたが、ドイツ兵の質がすべてをおぎなうであろうと信じていた。これが決定的なあやまりで、前線の戦士に過剰な要求を負わせたわけである。

 米軍は最弱と呼ばれていて、ドイツ兵は強く、また日本兵は最強と呼ばれていた。だが物量の前には勝てなかったのだ。

 パットンらは、パリ近くのマントの橋をこっそり渡り、橋頭堡を築くことに成功する。グデーリアン曰く「戦車の目標はつねに敵首都にあり」。市街戦を避けてアイゼンハワーはパリを包囲する。するとパリでフランス人の反乱が起こる。

コミュニストからナショナリストにいたるどの抵抗組織も他におくれをとるまいとした。市役所、法院、国防省が占領され、街路には銃声がひびき、地下室の窓からは機銃がほえ、屋根からはドイツ軍パトロールに手榴弾が投げられた」。

 ホルティッツ将軍以下ドイツ守備軍は八月二十五日降伏する。ある戦史家曰く「ドイツの前線兵は勇敢で、ねばり強く、器用で、ときとしては狂信的、ときには残忍ではあったが、ノルマンディーのような悪条件下においてもやはり恐るべき戦士であった」。 

彼らは来た―ノルマンディー上陸作戦

彼らは来た―ノルマンディー上陸作戦