◆『The Forgotten Soldier』について
著者はドイツに占領されたアルザス地方のフランス人で、未成年で国防軍に徴兵され、はじめは兵站部隊に、その後志願して戦闘職種である「大ドイツ師団」に配属されソ連との戦いに参加する。
フランス語なまりがひどいため、仲間からはよくからかわれている。ドイツ人とフランス人はそこまで深刻な憎悪関係にはなかったようだ。
しかし中盤に、フランス人に対する根本的な蔑視を感じ、著者がドイツへの忠誠に疑問を持つ場面がある。
著者のGuy Sajer氏は2022年の1月に死亡している。
東部戦線のドイツ軍は、補給こそ日本軍よりまともだが、徐々にソ連の物量(兵数、航空機や戦車の数)に圧倒され敗走する。
この本は米軍ではよく読まれているようで、各軍種の推薦図書に挙げられていたり、ジェームズ・マティスの推薦図書リストにも含まれていた。
自分が読んでいたのも、アメリカに派遣されて米軍で働いていた時期である。私自身は「忘れられた兵士」というよりは「(本国から)忘れられた隊員」状態だった。
◆所感
本書を読むと、戦場で最大の威力を発揮しているのは砲弾である。
両軍が至近距離で銃撃を行うことはあまりなく、遠方から飛んでくる砲弾で大半の兵隊はバラバラにちぎれて死ぬ。
それまで平和な人生を送ってきた中高生程度の若者には、戦場の現実はあまりに過酷であり、皆頻繁に嘔吐し、一部のものは発狂する。
大規模な戦線のなかでさまよう兵たちの姿が描かれる。
最後にはあらゆる感覚がマヒし、生きる屍のようになってしまう。
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アルザス地方出身のフランス系ドイツ人による東部戦線の回想録。独ソ戦が膠着する中、新兵としてリクルートされた体験を詳しく描いている。
特に寒さとの戦い、食糧不足、待機や苦痛きわまりない作業など、軍隊生活の実態がわかる。
著者はドイツのなかでは少数派であるアルザスのフランス人であり、このためドイツ語もひどくなまっており、よく周囲からからかわれている。しかし、ドイツ人とフランス人はお互いに、そこまで憎悪しているわけではないようだ。
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1 ロシア 1942
著者は1942年7月に入隊し、当初は空軍のトレーニングを受けるが不合格のため歩兵となり東部戦線に送られた。
ポーランドの古城を利用した駐屯地で訓練を受けた後、かれらは列車に乗ってミンスク(ベラルーシ首都)に向かった。酷寒の中での無意味な待機を通じて、軍隊のみじめな生活を味わった。
補給列車の線路に沿ってウクライナの街道を進んでいる最中、立ち寄った小屋から銃撃をうけた。著者らの小隊は待ち伏せされ、応戦した。
部隊はミンスクを出発した後、キエフで再編成され、さらにスターリングラードに向かった。各地でパルチザンとの交戦があり、死傷者を出した。
軍医の手術を手伝わされた時、自分の持っていた患者の足が切断されて手にのしかかった。著者はこの体験を二度と忘れられないと書いている。
ハリコフを経由してスターリングラードに向かう途中、スターリングラード陥落の知らせが届いた。部隊の目的地はヴォロネジに変わった。
補給担当の著者らは、兵站の崩壊による責めを負わされていた。スターリングラードやコーカサスからの撤退は補給部門の責任であるとの報告が、現場歩兵指揮官から送られていた。
ドン河を挟んだ戦いでは両軍の激しい砲撃があり、ドイツ兵は次々と爆死していった。
著者は原隊から分離し、負傷者を車で運ぶ任務についた。ドン河では大規模な戦闘が行われたが、非常に広い範囲での戦いであるため、散発的に砲撃を受ける以外は、地平線の向こうでとどろく音を聴いた。最も危険なのは砲撃であり、白兵戦は稀だった。
ドイツ軍はゆるやかに撤退しており、負傷者を病院に搬送することは不可能だった。兵隊は次々と死んでいき、その場で埋めた。
著者とその同期たちは、果てしない穴掘りと、小間使いのような兵站担当にうんざりし、自ら危険な戦闘歩兵部隊に志願した。
グロス・ドイッチュラント(大ドイツ)師団は国防軍のエリート歩兵部隊であり、すべて志願兵からなっていた。
著者たちは、前線からあまり遠くにはいけないものの、2週間の休暇を与えられた。そこで知り合ったドイツ人の女性と親しくなったが、その後結局連絡はとらなかった。
ナチス・ドイツでは警察(国家保安本部の下にある)のほうが軍よりも地位が高く、本書では、兵隊に対して横柄な警察官に対する不満が頻繁に書かれている。これは、秘密警察が肥大した国特有の現象である。
2 Gross Deutschland(大ドイツ) 1943
グロス・ドイッチュラント師団の訓練は非常に厳しく、修了するまでに数名が事故死し、またある者は態度が悪く射殺された。
バディを運ぶ、障害物を超える、実弾の下をくぐるなど、体力の限界に挑むようなトレーニングが科された。乗り越えた者に対し、教官である大尉が握手して回った。
ヒトラーユーゲントたちが派遣され、国防軍とともに戦闘に従事することになった。子供たちはサッカーの試合でもするかのように、敵軍について根掘り葉掘り質問した。
その後、少年たちの大半は砲弾で全身を引き裂かれ、戦車に踏みつぶされて肉片になった。
前線では、広大な平原と、ところどころ散在する集落を舞台に、ドイツ軍とソ連軍が戦闘を行っていた。
とてつもなく大きな戦線であるため、著者たちはすぐに部隊からはぐれ、分隊規模で行動することになった。敵と味方がどのような作戦で、どう行動しているかも兵隊には把握できなかった。
前線は常に砲撃にさらされており、穴を掘って退避し、嵐が過ぎるのを待つしかなかった。それでも多くの兵隊が爆弾にあたりばらばらにちぎれて死んだ。
砲兵による支援があるかないかが、歩兵の生死を分けた。ソ連軍の激しい砲撃により、視界は真っ白になり、煙の壁で太陽が隠れて見えなくなった。周囲の兵隊には発狂する者が多く、著者自身もたびたび恐怖で泣き出している。
それは、何事もない平和な生活を送ってきた未成年にはあまりに衝撃的な現実だった。
お互いに捕虜をとる余裕がないため、白旗をあげたロシア兵に手りゅう弾を投げたり、また捕虜を縛り付けてそこに手りゅう弾を投げたりした。
ソ連のシベリア軍団が人海戦術で前身してきたため、地平線を人影が覆った。遠くから「ウラー」の声がとどろいた。
3 撤退 1943
前線の兵士たちは、ドイツ軍が陸上戦力、航空戦力ともに徐々にソ連に圧倒されていくことに気がついていた。戦闘のない日が続くこともあったが、すぐに敵の激しい砲撃にさらされた。
著者の所属する部隊は、しばらくの静寂ののち、敵に包囲された。
歩兵たちにとって、空軍、「ルフトヴァッフェ」への信頼は絶大である。空軍機がソ連軍やソ連の航空機を蹴散らすたびに、兵隊たちは歓声を上げた。
ソ連の爆撃機が飛んでくると、かれらは物陰に逃げて嵐が過ぎるのを待つしかなかった。対空砲で撃墜されたロシア軍機が、傷病兵を乗せたトラックに墜落し、大量のドイツ兵が死んだ。
しかし、兵隊たちはただ無感情にごみを片付けて行軍を再開した。
ドニエプル川を渡り、西岸に撤退するために、ドイツ兵の間で争いが起きた。少ないイカダに乗るために、兵たちはお互いに押しのけあった。
著者はどうにか対岸に渡れたが、約7000人は赤軍に追いつかれ、砲弾で殺害され、残りは捕虜になった。
4 西部へ 1943-1944
ドニエプル川西岸に渡った著者たちを待っていたのは、憲兵による尋問だった。
ある少尉は持ち場を逃げ出したとして懲罰大隊に入れられた。懲罰大隊は地雷原を歩く等の嫌な作業をさせられる。
著者は懲戒処分をまぬがれたものの、下痢がひどく、移動中のトラックの荷台で下痢をもらし、さらに野戦病院の手前でも下痢を垂れ流した。
その後休暇でポーランドを移動しようとするが、そこでもパルチザンが跋扈している事実に驚いた。鉄道に乗ろうとした矢先、休暇が取り消され、著者は再び前線に戻ることになった。
対ソ連の前線は広大で、ロシアの荒涼とした風景に衝撃を受ける場面がたびたび挿入される。
著者ともう1人の兵隊は原隊からはぐれ、無人の雪原を何日も歩く。
ようやくティーガー戦車を見つけ、追いかけて合流したが、この戦車も部隊からはぐれてさまよっていた。
前線はあいまいで、ドイツ軍、ソ連軍はお互いに雪原をさまよっていた。
東部戦線におけるドイツ軍は、ドイツ本国や征服した小国と異なり、すべてがいい加減で不確定だった。
車列の中にいたティーガー戦車が地雷を踏み、爆発炎上した。皆で中の搭乗員を助けようとしたが炎と煙が強く、ただ見守るしかなかった。そのうち肉のやける臭いがたちこめた。
あるソ連軍の戦車は、ドイツ軍が待ち構える市街地に突入し、暴れまわった後地雷を踏んで停止した。ドイツ軍は皆、この戦車を勇敢な英雄だと感じ、降参したソ連兵たちに食事を与えもてなした。その数日前に、奇襲によってドイツ兵を虐殺したパルチザンとは印象が大きく異なっていた。
エリート部隊である大ドイツ師団も疲弊していった。
ロシアの後背地はパルチザンが無数に潜伏しており、車列による移動も安全ではなかった。パルチザンとの戦いはしばしば白兵戦になった。
ドイツ軍は西へと追い立てられ、徐々に祖国に近づいた。しかし、ドイツが侵略される、あるいは負けるなどということは信じられなかった。一方で、すでにドイツ空軍は弱体化し、ソ連機が空を支配していた。
著者らの服はやぶれ、色あせ、ある戦域では兵たちが飢餓状態に陥った。配給された靴下や下着、ブーツは品質が落ちていた。それでも、エリート戦闘部隊であるためましなほうだった。
皆が頼りにしていた大尉は爆撃を受けて体がちぎれ死んだ。ほかにも多くの仲間が死んだが、もはや誰も顔色1つ変えなかった。かれらは夜明け前に自然に起きて出発した。
砲弾の音と、突撃の笛以外には、何にも動じない人間になっていた。
5 終焉 1944-1945
ポーランドまで後退した著者らは、長い間離れていた大ドイツ師団本隊に合流した。
まだ部隊は健在だったものの、増強の民族突撃大隊を見て愕然とした。50、60代のよぼよぼの老人と、13歳くらいの子供たちが肩を並べて行進していた。子供たちは、新学期が始まるかのように不安な顔つきだった。
ドイツはかれらにいったい何をさせようとしているのだろう、と著者は大きな疑問を持った。
ドイツ国内の主要都市は爆撃にさらされ、住民は疎開を許されず防衛任務についていた。
兵隊たちは絶望の中でゾンビのように生きており、大尉や少佐の現実離れした訓示はまったく響かなかった。部隊はプロイセンに入ったが、ソ連の大軍は徐々に近づきつつあった。
プロイセン最東北のメーメル(MEMEL)(現在はリトアニア領クライペダ)で、大ドイツ師団と防衛隊たちは防御戦を行った。東から引き上げるドイツ人たちも巻き込まれた。
メーメルでは、敗残兵たちと避難民で混雑し、著者たちはゾンビのような状態でソ連軍の侵攻に備えた。避難用の船に乗ろうと列をつくったドイツ人たちはすでに精神がおかしくなっており、ロシア機が飛んできて爆弾を落としても、行列をなしたままぼんやりしていた。
古参兵と小隊長(中尉)は、兵たちが皆生気を失い、反撃することもできないなかで、軍事的な規律を保ち、爆弾を投げ銃を撃った。著者にとってかれらは真の英雄だった。
メーメルからダンツィヒ、デンマークまで撤退すると、デンマークの市民たちは兵たちをけげんな目で見つめた。飢餓状態でボロボロの兵たちは、パン屋の前に群がったが、パン屋はただでパンを売ろうとはしなかった。一人が物乞いすると、パン屋の男はパンを恵んだ。
最後に遭遇したイギリス兵たちは、ただ漫然と働いているいるような印象を受けた。著者たちはイギリス兵に投降した。
著者はフランス人ハーフだったので、フランス軍人に一度拘留されたが、無事解放されたのち、フランス陸軍に移籍するよう将校から勧められた。