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the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『政治的ロマン主義』カール・シュミット

 これまでの二作とならぶシュミット政治学の基盤をなす論文である。論旨を把握しながら読むこと。序文からしてめげそうだがあきらめてはいけない。

 機会原因論とは「すべてのものを神において見る」というマルブランシュのことばにあらわされるように、あらゆる現象を神の発動とみなす立場らしい。この哲学用語をしっかり理解しないかぎりこの本を読むことはできないだろう。

 ドノーソ・コルテスという著述家を手がかりに、スペインの学術界を調べていく。

 ルソー、エドマンド・バーク、シュレーゲル、十九世紀ドイツ史の調査。

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 シュミットのロマン主義の定義は、おそらく本書の最後に出てくるだろう。

 ロマン主義の定義は「ロマン主義者の主体から発するものでなければならない」。ロマン主義者独特の態度、精神に注意することが、ロマン主義を定義するための正しい方法である。すなわち「ロマン主義は主観化された機会原因論(occasionalism)である」。

 すべてのものは機会原因にすぎず、そこから「実態もなく果たさねばならぬ機能もなく、確固たる指導もなく、結論も定義も受けつけず、決断もおこなわず、最後の審判もない、ただ偶然の魔法の手によって導かれて限りなく進行していく世界」が生じる。

 ロマン主義そのものが広範にわたる、定義のはっきりしないことばである。

 ――個人主義的に解体された社会においてのみ、美的生産の主体は精神的中心を自分自身のうちに置くことができる。個人を精神的なもののなかに隔離し、自分自身しか頼るものがないようにさせ、普通ならばひとつの社会秩序のなかでヒエラルヒーに応じてさまざまの機能に分けられていた重荷を個人の肩にすべて担わせてしまう市民的な世界においてのみそれは可能なのだ。

 ロマン主義はさまざまな時代において、既成秩序にたいする反抗を意味する用語として使われてきた。よってさまざまな現象とむすびつけられる……ルソー、革命、プロテスタント神秘主義、反動その他。シュレーゲルの論文にあるように、ときには合理主義、主知主義とも結びつけられる。

 ロマン主義的、という語は、保守的や自由主義的、進歩的という言葉と異なり、実際の運動の内実とその呼称が一致しないことが多い。

 ドイツにおける政治的ロマン主義者の典型として、アダム・ミュラーを分析していくことになる。

 

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 フランス革命ははじめ、敵国の力を弱体化させるものとしてドイツでは歓迎された。人権、人民主権といった抽象概念を気にかけるものはおらず、大胆な発言も許されたという。ドイツの革命運動は文字の上で、雑誌のうえでおこなわれた。

 彼は当時のドイツにおいて社会的地位、責任ある国家官僚の肩書きを得るために、二枚舌を用いて成り上がろうと試みた。あるときは貴族を擁護し、あるときは自由主義的改革を攻撃した。そのため同時代の文人からは一貫していかさま師の評価を得ていた。

 ――彼が結局どんな体制であろうとおかまいなしに熱心に仕える下男にすぎず、常に自分の思想のなかで円滑な職務遂行の邪魔になるかもしれぬ部分は棚上げして別の思想を自分のものとすることに何の抵抗も感じなかったという事実をごまかすことはできない。

 この変節漢じみた性質も、シュミットによれば、政治的ロマン主義からくる結果にほかならないというのである。

 彼はナポレオン戦争期のドイツを生きたが、これはちょうど官房学、国家学、警察学が発達した時代である。ビスマルク以前のカイゼルの時代にあたるのだろう。この時期の知識は無に等しいので、歴史書として読むほうがいいのかもしれない。

 

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 「ロマン主義は十八世紀の合理主義に反対する運動と解することができる」。

 ロマン主義はまずホッブズ……「生来邪悪な人間とか、万人の万人にたいする闘争とか、自由競争とかの反牧歌的な観念」に反対する。

 巷にあふれるロマン的なもののの機能は「今日」と「ここ」の否定にある。ロマン主義者はつねに逃避する。

 「ロマン主義者は現実を避けるが、しかしイローニッシュに、陰謀をたくらむようにして避けるのである」。

 それは新しい現実をつくりだすかわりにそのときの現実を無力化しようとする人間の活動である。彼は自分の逃避で可能性を留保し、現実にたいして可能性を守る。

 ――そもそも現実の具体的な業績などというものはすべて彼にとっては屑にすぎない。自分が、また自分の何らかの現れ方が現在の現実の限定性のなかで捉えられることに彼は抗議する。

 この定義をみるかぎりロマン主義とは現実逃避者の小細工である。ロマン主義には生産性がない。シュミットはこの運動を批判している。

 「宇宙も国家も民族も歴史の発展もそれ自体としてはロマン主義者の興味をひかない。すべては自分自身にのみ関心する主体のしかるべき飾りとされ得る」。

 共同体と歴史も、「もっぱらロマン的自我の生産力のために利用される」。

 

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 ロマン主義の機会原因論的構造とはいかなるものか。

 ロマン主義精神は世界を動かす秘められた力の観念をよろこぶ。陰謀論、陰から舞台をあやつる力、こういうものへの選好が十八世紀末以後散見された。

 見えざる手が人間を無意識のうちに導くというのが機会原因論だが、このような考えはシェリングヘーゲルマルクス、ショウペンハウアーにも見られる。おそらくinvisible handもこの系譜に入るのだろう。

 ――それ故、真理は決して個人が理解しもしくは意欲するもののなかにはない。なぜならすべては個人の外で働く実在の機能だからである。

 この見えざる力に希望をいだけばヘーゲルマルクスになり、否定的ならば厭世的な価値観となる。また見えざる力と人間の意志の関係を、民族と国民、国家の歴史と国民に置き換えることもできる。

 賢い人間の考えた制度や法ではなく、共同体と歴史が超個人的な力となって民族を突き動かす……これがバーク、ド・メーストル、ボナルドの抱いた思考だ。

 ロマン主義は科学的な因果律を否定する。すべての偶然は大きな出来事への契機となる。

 「それは遊びと空想への転換であり、「文学化」であり、換言すれば具体的な所与を、それのみかすべての感覚的知覚を、「寓話」への、詩への、美的感動の対象への、……小説(ロマン)へのきっかけとして利用することだった」。

 「機会原因論は神のうちに真の原因のすべてを見、この世のすべての事象を単に偶然的な機因であるときめつけた」。

 これはデカルトを起源とするらしいがよくわからないので保留する。機会原因論は対立するものの上に「高次の第三者」をおく。個人間の対立は「国家」「民族」によって止揚され、国家間の対立は教会によって止揚される。

 その例……前述のアーダム・ミュラーの論理……貨幣の本質は経済ではなく法にあり、法の本質は神学のなかにある。

 ロマン主義の活動範囲は気分(mood?)の範疇に、精神の範疇に、つまり美的世界の範疇にとどまる。彼らはいささかなりとも現実を変えようとはしない、とシュミットは言う。

 ――自分の経験から出られない、それでいて主体として何らかの意味を持っているという自負を捨てたくないが故に何らかの生産性を発揮しようとする主体は、自己の経験を芸術的に造形しようとする。

 この信念に基づいて、芸術家は「世界を創造する神と同一化される」。

 ロマン主義者にとって真に重要なのは自分の美的世界を彩ることであって、対象そのものはなんでもいいのだ。芸術そのものは別として、学問や為政においてはこうした態度は不誠実となる。シュミットが厳しく攻撃するのはそのためだろう。

 

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 ドイツにおける政治的ロマン主義について……

 イギリスのエドマンド・バーク、レーベルク、ゲンツ、ボナルド、ド・メーストルらはフランス革命にたいする批判を発表した。彼らは歴史や国家を自然的に発生するものと考えた。一方、フィヒテらドイツ知識人は革命を歓迎した。彼らは「法と国家は意識的につくられるべきものである」と考えた。ところがそれ以後ドイツでは保守主義への転回がはじまる。

 国家哲学とロマン主義とのかかわりは複雑なのであとで調べること。

 ――真剣な政治的関心が政治的ロマン主義とぶつかったときにはいつでも、政治的ロマン主義が恰好な政治的暗示の手段として実際政治に利用されるか、もしくはロマン主義者の内的「欺瞞性」が非難されることになるかである。

 「一切の政治活動は……ロマン的なるものの本質的に美的な性質と矛盾するのである」。

 すべてはロマン主義者の主観に基づくので、まっとうな思想や信条としてはうけいれられない。ところが小説においては、あらゆる対象を組み入れることができる点で重宝される。大江がロマン主義の復興を叫び、自分の村と衒学的な書物群をつなぎあわせるのもその一例と感じた。
 

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 政治的ロマン主義はいまなお健在のようにおもわれる。政治的ロマン主義と、ロマン主義的な政治家は本書では峻別されている。彼によればドン・キホーテロマン主義的政治家の典型である。

 ハイネ『ドイツ・ロマン派』を読まねばならない。

 

政治的ロマン主義

政治的ロマン主義