うさんくさいビジネス本叢書のひとつらしく、現代の企業参謀にとっても有意義であることがたびたび強調される。著者は実際に陸軍参謀だったようだ。
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モルトケは没落貴族の子としてうまれ、はじめはデンマーク軍に所属した。ナポレオン戦争で活躍したグナイゼナウらプロイセン参謀本部に憧れ、辞職してベルリンに向かい、プロイセン軍採用試験を受ける。その後キャリアを積み五〇歳過ぎに参謀総長に任じられる。このときのプロイセン軍は軍事大臣、および軍の人事を統括する軍事内局の局長が強い権限をもっており、参謀本部の地位は低かった。
モルトケは容姿端麗で野心がないため周囲から重用された。軍事アドバイザーとしてトルコに赴き戦争に参加したり、ヨーロッパ各地に滞在して地図を製作したり情勢分析をおこなった。大変な読書家で、軍事学にこだわらず文芸も好んだという。
モルトケの作戦準備……鉄道、電信の発達を背景に、ナポレオンの内線作戦とは対極の、外線作戦による攻撃を考案した。外線作戦では司令官の独立指揮が重要となるがこれは電信隊で補うことができる。また各隊が足並みをそろえるためには鉄道が役に立つ。要塞ではなく野戦軍主体の機動戦を重視した。
一八六四年、シュレスヴィヒ=ホルシュタインの奪回をめぐってはじまったデンマーク戦争では、モルトケははじめ仕事を与えられずベルリンに拘束される。しかし休戦目前の動員を王やローン軍事大臣、ビスマルクらに評価され、参謀本部の必要性が広く認識される。モルトケはデンマーク戦争やその前のイタリア・オーストリア戦争での経験を戦史に書いた。
一八六六年の普墺戦争では分進合撃作戦を見事成功させ参謀総長としての地位を不動のものにする。また政治と軍事の調整に苦心した戦争でもあった。プロイセン、オーストリアは普墺戦争の結果得たシュレスヴィヒ=ホルシュタインの分配をめぐって対立し、開戦にいたった。
作戦において重要なのは動員と集中である。動員と集中とは戦闘開始までにいかにすばやく兵を輸送し集められるかということで、鉄道敷設計画を熱心にすすめたのもこのためである。
モルトケは考えられるかぎりのパターンの作戦計画を練り、夜間、情勢が急変したときも引き出しから作戦書類を出して、ひきつづき寝ていたという。分進合撃作戦によってオーストリア軍を潰走させ、ウィーン包囲が目前に迫ると、ビスマルクから連絡が入る。このあとにフランスとの戦争が控えているので、オーストリアを追いつめるべきではない。モルトケはシビリアンコントロールを厳格に守り、しぶしぶ進軍を中止する。
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つづく普仏戦争はモルトケの名を歴史の残すことになる。彼の戦略はその後各国で学ばれた。
普墺戦争のとき、ナポレオン三世はオーストリアに与してプロイセン攻撃をたくらんでいた。プロイセンがオーストリアに圧勝し、ただちにライン河沿いに兵を展開させフランスに先制攻撃を加えようとしたので、ナポレオン三世の計画は頓挫した。以来、普仏の対決は時間の問題となった。
モルトケは非効率的なフランスの動員にたいし、参謀チームの育成、迅速な動員集中、装備品のストックの配布、鉄道網の整備などをおこなった。
――開戦当初より戦争終結にいたるまでの作戦計画を詳細に決定することは意味がない。たとえきめておいても、予期しない事実が続々現れてきて、計画どおりに実行することは困難である。それよりも状況の変化を速やかに察知して、対応のための時間の余裕を得るように勉めることが大切である。
ビスマルクは事実の誇張によって普仏両国の世論を激昂させ、フランスに戦争をしかけさせることに成功する。これがエムス電報事件であり、同様の謀略は日露戦争や太平洋戦争(ハル・ノート)のときにもおこなわれた、という説がある。
プロイセンはセダン包囲によって皇帝を降伏させ、つづいてパリを包囲し講和を結んだ。ビスマルクは、あまりに勝ちすぎることは敵から恨みをかう、といってパリ包囲をやめるよう命じたが、モルトケは拒否した。
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モルトケのつくった参謀制度をもっとも忠実に継承したのは日本陸軍である。米英やフランスの制度においては、参謀は書記・伝令の役割が強かった。モルトケは桂太郎らの求めに応じて、自らの育てた参謀メッケルを日本に派遣し、メッケルは陸軍大学校で教鞭をとった。
参謀制度の欠点である幕僚統帥も受け継がれてしたったため、経験のない若い参謀が軍を牛耳るという弊害がおこり、ドイツは第一次大戦で敗北し、日本陸軍においても太平洋戦争敗北の原因のひとつとなった。