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The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『軍事力と現代外交』ゴードン、クレイグ その1 ――外交は思惑通りにいかない

 平和を実現するための方策である国際システムと、戦争……国際的な暴力の関係について考える。さらに、外交上の基本となる交渉、国際社会における倫理と道徳についても検討する。

 1989年に初版が刊行された。

 

 ◆所感

 主にヨーロッパの国際政治をたどりつつ、後半では、外交と軍事力とがどのような関係にあるかを検証していく。

 一般的にいわれる国力=軍事力=外交力というような刃牙風の単純図式では理解できない、様々な仕組みや現象が存在することを確認した。

 

 現代においては、民主主義国であってもそれ以外の体制であっても、世論が国家方針に大きな影響を与える。

 本書では、熱狂しがちで、操作されやすい否定的な世論の側面に着目している。

 ではどうすれば国民が正しく情報を入手し情勢判断できるようになるのだろうか。わたしの考えでは、大前提として不可欠なのが、知る権利の確保であり、言論の自由である。


 

 

 


 ◆メモ

 宥和政策、抑止、威嚇といった手段は、状況によって有効かどうかが変わる。歴史上の事例は成功・失敗どちらも無数にあり、単純化することはできない。

 著者の立場はあまりはっきりと示されないが、次のような傾向を持つ。

・国連に対して一定の評価をしている。

・大国による軍事介入が不可欠な場合もある。

・大衆・国民は感情に流されやすく、外交上の不安要素、指導者の行動を制約する要素になりがちである。

 

 

  ***

 1 17世紀~現在まで

 

・大国の出現

 16世紀に大国と呼べるのは神聖ローマ帝国だけだった。1618年から始まる30年戦争を経て、スペイン、オーストリアが没落しオランダ、スウェーデン、フランスが台頭した。

 これらの国は「国家理性Raison d'tat」すなわち国益至上主義を備えていた。

 17世紀、フランスの強大化は周辺国の警戒心を招き、やがてイギリス、オーストリア、ロシア等がフランスに並ぶ国家となった。この時代から、バランス・オブ・パワー(勢力均衡)がヨーロッパの安全保障システムとして発動することになった。

 1715年にプロイセン王位に就いたフリードリヒ=ウィルヘルム1世は、中央集権化と軍制改革により勢力を強めた。

 

 1914年までヨーロッパと世界の政治を支配することになるのが、これら英仏普墺露の5ヶ国である。

 また、外務省を設置し、大使を各国に配置する制度が普及したのも17世紀である。

 

・18世紀の外交

 啓蒙主義の時代と言われる一方で、ヨーロッパ諸国は領土的野心と国益に基づき絶えず戦争を繰り返した(オーストリア継承戦争、7年戦争)。
 18世紀には、国際システムの萌芽が現れた……交戦法規の確立、一国覇権への警戒等。

 実際に国際協調システムを確立させるきっかけとなったのが、フランス革命とそれに続くナポレオンの侵略だった。

 

・1815年~1914年

 

 ――19世紀を通じ、外交に対する最大の挑戦は、国際的暴力を封じ込め、再びナポレオン時代のように戦争が絶対的形態をとるのを防ぐような政治システムを作り出すことであった。

 

 著者は勢力均衡を3段階……1815年のウィーン体制、1870年のビスマルク体制、1890年の体制に分ける。

 

 ウィーン条約では、オーストリア宰相メッテルニヒを中心に、ヨーロッパ各国の勢力均衡が図られるような取り決めを結んだ。1854年まで、この試みは成功した。成功の最大要因として、著者は各国に合意と条約遵守の姿勢があったことをあげる。

 1848年の革命は、フランスの王政を亡ぼし、また専制や王政に対する革命・反乱を各国に波及させた。革命を機に、各国で「現実主義政治家」が出現した。

 かれらはウィーン体制に対する忠誠を持たなかった。

 続いて1854年にクリミア戦争がはじまり、英露が対決した。この戦争によって、既存のバランスを変えようとする傾向が強まり、4つの戦争が続いた(イタリア戦争、デンマーク・ドイツ戦争、普墺戦争普仏戦争)。

 1871年以降、大国は新重商主義帝国主義を推進し、ナショナリズムと闘争心が国民を支配した。

 

 ――それは、広くいきわたったダーウィン主義と、無料の初等義務教育の普及で作り出された、煽られやすく興奮しやすい新しい読者層に迎合する新聞のセンセーショナリズムによって培われた。

 

 同時に、工業や農業が政治的圧力を持ち、軍もまた圧力団体となった。

 ビスマルクの築いた勢力均衡システムは、フランスを孤立させるものだったが、その同盟関係はあまりに複雑だった。

 1907年以降、ドイツはヴィルヘルム2世、ビューロー首相、ティルピッツ海相のもと、海外において侵略政策を展開した。

 

 ポール・ケネディは、英独対立の最大原因を「ドイツが執るに足らぬ小君主の治める二流諸国の群れから、イギリスよりも人口が大きく、重要な工業資源を持ち、先進的な技術を持った統一帝国へと転換したこと」にあるとした。

 

 その後、1914年の第1次世界大戦勃発により、ヨーロッパの勢力均衡は崩壊した。

 

戦間期

 第1次大戦の反省を受けて、新しい国際秩序の形成に向けて取り組みが行われたが、うまくいかなかった。

 英仏は従来の勢力均衡を目指したが、合衆国大統領ウィルソンは国際連盟、すなわち集団安全保障システムを作ろうと考えた。

 大戦によって国際政治に参加する国が激増したこと、敗戦国への報復感情の問題等があり、国家間の考えはまとまらなかった。

 国際連盟は、合衆国がおらず、また独ソも後々まで加入を許されず、ほとんど機能しない組織となった。

 

・世論と外交政策

 民主主義国が増えるにつれて外交の形態が変化した。専門職による外交から、世論に後押しされての外交が主となった。政治家はマスメディアと世論に逆らうことができなくなった。

 外交の可視化(「公開外交」)を達成するため、閣僚会議や国際会議、首脳会談といった場が多く設定された。このことがかえって、外交を非効率的にすることもあった。

 

 ――直接外交の危険は、精緻さに欠けることにとどまらない。交渉に関与する政治家は、自己の評判を重視しがちなために、会議の成功が至上命令となる。ロイド=ジョージが行った交渉のなかには、信じ込みやすい市民に偉大な目標が達成できたと説得することだけを目的とした宣伝で終わっているものがいくつかある。

 

 ――外交政策において世論や国民感情の要素が大きな位置を占めるようになり、1930年代の西側政府は、ドイツや他の国々によるプロパガンダに対して脆弱であったのは明らかである。なぜならば、そのような国々は他国の国益を損なうように、国民感情を巧みに操作したからである。多くの国民は、冷静に思考するよりは感情に走りやすく、強い敵意や恐怖心を抱くために、簡単に操作の対象となり、脆弱性を一層深めた。

 

・経済と外交政策

 戦間期の失敗の1つの要因として、経済問題への対応をあげる。戦勝国の敗戦国に対する経済政策は、非現実的でありバランスを欠いたものだった。また、戦勝国は、ドイツによる経済外交を過小評価した。

 

 賠償金をめぐる失敗は、A.J.Pテイラーの"Origins of World War 2"に書かれているとおりである。

 

 

 ドイツは30年代初めから、東ヨーロッパ諸国との貿易により国力を取り戻し始めていた。英仏は、ドイツが東欧の中の覇権国となりつつある状態を認めながら、経済的な対策をとらなかった。

 その根本的な理由は、フランスに東欧の同盟国を支える意志がなかったこと、イギリスが勢力均衡を放棄していたことである。

 

 [つづく]

 

軍事力と現代外交―現代における外交的課題

軍事力と現代外交―現代における外交的課題