うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『日本の近代6 戦争・占領・講和』五百旗頭真

 B大生の間で評判の悪い、いおきべ・まことの研究。文章が情緒的すぎる。

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 山本五十六は海軍航空本部の建設者であり、世界水準の戦闘機零戦を作り出した功労者である。対米戦争はもともと現実的とは考えられていなかったが、三国同盟によって米国は態度を硬化させ、日本も対米戦争もありえる、と認識するようになった。

 このあいだ、海軍は戦争準備を進める。真珠湾攻撃を実際におこなうことを主張したのは山本五十六だけだった。しかし、山本は対米戦争に勝ち目のないことをわかっていた。

 ――経済基盤と国際関係の中で軍事を考えるという大局観に立つ米内光政海相―山本次官―井上成美(しげよし)軍務局長の海軍軍政ラインは、陸軍がどれほど枢軸強化を叫んでも、揺らぐことはなかった。

 山本は対米戦争には断固反対したが、国の決定には殉ずるつもりでいた。米内によって連合艦隊司令長官に任命される。ハル・ノートの硬化した態度に天皇もことばを失い、日米開戦は決定的となる。12月8日の真珠湾奇襲は成功をおさめる。

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 1 日米開戦

 ドイツの電撃戦勝利によって、イギリス本土征服も近いだろうとかんがえた陸軍は、英仏蘭の植民地にむかっての南進を主張する。米内ら海軍の国際協調派は反対するが、抵抗できなかった。

 日本が三国同盟を結んだのは、ドイツがイギリスとの戦いに頓挫し、実質衰退をはじめた時期にあたる。にもかかわらず独ソ戦をはじめたドイツは愚かだが、日本も状況が読めず、欧州情勢に乗じて南進、北進とわざわざ敵を増やす方向に向かってしまった。日中戦争の自力解決が不可能な状態で、さらに両面作戦をはじめたのは誤りだった。

 対米戦争やむなし、の主張が主流となるなか、天皇は御前会議で近衛らを叱責する。東条英機尊王主義者であり、天皇が対米戦争に反対しているのをきいて和平の道をさぐろうとする。しかし、近衛は責任逃れの発言が多く、また東条も、世界情勢よりも政策過程を重視する視野の狭い人間だった。

 ――将来の国民の運命を左右する対外決定について、なぜ過去の、それも政府内のミクロ・プロセスが支配的意味をもちうるのか。過去の経緯が何であれ、国際環境の中でその決定がどのような将来的意味をもつのあについての評価をなすことが基本的責務であるのに……内向きの日本の組織には、しばしばこうした傾きが認められる。東条はそれを代表する典型的にして強力な人物だったのである。

 著者の批判の根拠は、大局のためには目先の規律や調和を捨てよという考えである。

 天皇も日米開戦に断固反対したが、立憲君主制において天皇が直接口を出すのはどうかとためらった。

 東条内閣の外相東郷茂徳の努力もむなしく、政府・軍部は開戦で一致する。

 日本が正しい政治的決定を下せなかった理由として、政治家の不在、国民の付和雷同的政治文化、また官僚制度の欠陥をあげている。

 「国民多数はまじめでよき働き手であり、よき兵士であるが、政治に関与せず、受身の羊の群のように振舞う」、また制度については、「大局観と統合機能を欠いた」政治と批判する。

 米国側、ルーズベルト、ハル国務長官らの動きも詳細に書かれている。ルーズベルト真珠湾攻撃を事前に知っていたという可能性は薄い。むしろ、奇襲をうけてしまったという失策をうまく米国世論の喚起に用いた点に大統領の力量がうかがえる。

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 2 敗戦の方法

 米国側には、日本に対しての厳しい処罰を求めるハード・ピースと、復興援助を核とするソフト・ピースの論調があった。ルーズベルトは、戦争終結においては無条件降伏を断固として主張するが、終結後についてはソフト・ピース論を導入しようと考える。

 日本をどうするかについても議論された。完全絶滅や帝国温存放置といった極論は捨てられ、日本に介入して政治体制を改革させる普遍主義的民主主義論と、あくまで内政不干渉を尊重しつつよき隣人に誘導するオールド・リベラル論が残った。

 実現しなかったが、米国には本土決戦プラン、および連合国による分割統治プランが存在した。もし本土決戦がおこなわれていたら、間違いなく朝鮮のような分断国家になっていただろう、と著者は予測する。

 日本の敗戦が決定的となったのは、1944年7月にサイパンが陥落したときだった。マリアナ諸島がアメリカの手にわたることで本土空襲が可能になってしまうからだ。これによって東条内閣は総辞職し、小磯内閣が成立する。著者いわく、東条内閣は独裁というにはあまりに脆弱で、また対抗勢力を残している。

 ドイツは授権法によって権力を集中していたためヒトラー自殺まで戦争をやめることができなかった。いっぽう日本には独裁が存在しなかったので明治憲法体制は保たれていた。

 知日派のグルー大使やスティムソンらは、ルーズベルト、またトルーマンに大きな影響を与えた。スティムソンは原爆の京都投下に反対し、また直接でなく間接統治こそ理想であると説得した。7月に出されたポツダム宣言を、鈴木貫太郎は黙殺した。このため原爆投下と、ソ連対日参戦を招いてしまった。

 御前会議にて、陸軍阿南大臣や梅津参謀総長、豊田軍令部総長らはなおも抗戦を主張するが、天皇ポツダム宣言受諾案に賛成し、これが決断となる。

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 3 戦後体制へ

 終戦内容の受容のため、東久邇宮内閣が成立する。

 ――おそらく、前代未聞の危機における指導者たるうえでの最大の要件は、自信と楽観性であろう。……指導者が心配性では神経がもたないし、人々はさらに困惑し落ち込む。

 東久邇宮稔彦はフランス留学経験があり、勇敢な自由主義・民主主義者だった。終戦直後、陸海軍はまだ武装解除しておらず、クーデターや反乱の恐れがあった。海軍航空隊は連日東京上空を飛び回り「マッカーサーに体当たりする」といきまいていたが、秩父宮が説得に向かうと蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。

 無条件降伏後、長老の親日派グルーやスティムソンにかわって、強硬派のバーンズ国務長官ディーン・アチソン次官ら、また親中派が占領政策の主導権を握る。

 厳しい姿勢を深めていくワシントンや米国民、オーストラリアなどに対し、穏健な間接統治を貫こうとしたのはマッカーサーだった。

 東久邇宮内閣につづいて、幣原内閣が成立する。幣原らは新憲法制定をこころみるが、帝国憲法とほとんど変わらなかったために却下される。何回かの調整を経て、マッカーサー案に沿った象徴天皇主権在民戦争放棄の精神にのっとった新憲法が制定・施行される。

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 4 歩みだす日本
 GHQは保守を重んじるマッカーサーらと、社会主義・革新政権を歓迎する民政局に分裂していた。吉田はマッカーサーの庇護を、一方片山は民政局の庇護をうける。
鳩山一郎公職追放にあうと、内政には疎いと自他共におもわれていた吉田茂に組閣の命がくだる。吉田につづいて、社会党が第一党となり、片山哲内閣が成立する。

 片山は人格は申し分なかったが政治的リーダーシップをとるには泥臭さが足りなかった。社会党は分裂し閣僚も離反する。

 ――香しい人格主義者としての生き方はそれで結構である。しかし、政策と政争によって織りなされる政治の舞台において、社会を支え革めようとすれば、「心持ちよく行」くことばかりでないのは当然である。

 片山につづいて中道左派芦田均が首相になるが、昭和電工疑獄事件で総辞職する。

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 5 保守政治による再生

 1948年の総選挙で吉田率いる民主自由党が過半数を獲得し、吉田体制を確立させた。このとき民主自由党は鳩山のではなく吉田のものとなった。

 片山・芦田内閣のあいだ、経済は堅実に復興していった。農村では豊作がつづいた。問題はインフレだった。吉田はドッジ・ラインといわれる超均衡予算を成立させる。運良く朝鮮戦争がおこり、日本は特需に沸く。

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 エピローグ

 吉田体制は政策立案のできる政治家を大量に輩出し、官僚の能力が生かされるようになった。また、戦前の国家像にたいして、国際協調・通商重視のあたらしい国家のかたちを与えた。警察予備隊をつくったが、あくまでこれからは「集団安全保障」と「国際的相互依存」の時代だと予見していた。

 サンフランシスコ条約によって独立したあと、公職追放から復帰した鳩山一郎三木武吉岸信介らの反吉田攻勢によって吉田は政界を追い出された。彼らは吉田とは異なる方針……「友愛精神、中ソ国交、再軍備、積極財政」を打ち出した。

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 戦後政治、55年体制確立以降の話はまた別の本で勉強する。

 

日本の近代 6 戦争・占領・講和―1941?1955

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