7 西側へ寝返ったスパイたち
亡命したクジーチキンの手紙。
――イランにおけるソ連植民地のリーダーや党幹部らが、恥知らずにも私腹を肥やすことに血道を上げる信じがたい光景、ツデー党との汚いやりとり、アフガニスタンでの罪のない人びとの死、それにたとえ間接的であれ、戦争ヒステリーを煽ることへの加担、こんなことを目の当たりにすると、私は精神的に耐えられなくなりました。……1986年、モスクワの要請を受けたブルガリアは、私を見つけ出し、消してしまうよう某イギリス共産党員に10万米ドルの代償で依頼しました。共産党マフィアは今もなお健在です。この工作の時期にペレストロイカはもう始まっていました……。
1979年アフガニスタンにおけるアミン大統領暗殺について:
・「グロム(雷鳴)」……スポーツ選手所属の精鋭部隊
・「ゼニート(天頂)」
・メンバーはすべて特殊部隊養成のバラシヒン学校出身
・襲撃メンバー60名のうち14名のみ生存
グラスノスチの時代には、多数の西側亡命スパイから手紙やFAXが送られてきた。
日本で活動した情報員レフチェンコは、KGB幹部が外貨を横領して東京でステレオを買ったり、出世のために日産プレジデントを購入しブレジネフにプレゼントする様子を目の当たりにした。
――もうひとつ、クリュチコーフが私有している有名なサウナ風呂のことにも触れておきましょう。電球のひとつにいたるまで、設備の全部がフィンランド製です。これも国民が感謝の念をこめてクリュチコーフにささげた贈り物なのでしょうか……。
クリュチコーフ時代とは……コネ人事、粉飾報告、汚職、凡庸人の昇進、批判力欠如、党の指示への盲従……。
ゴルジェフスキーはソ連に幻滅し英国の二重スパイとなりその後亡命した。かれはクリストファー・アンドルーと共著で『KGBの内幕』を出版した。
かれは様々な情報を提供した……西側諸国での働きかけ基準など。
どんなスパイも寝返るときには手土産……潜伏スパイの情報などを持っていくものである。
新聞記者やジャーナリストは、ソ連のスパイがよく用いる表の職業である。
――度を越した秘密保持が横行するわが国だが、それでも新聞やテレビ・ラジオ国家委員会の国外特派員のひとりひとりについては、ふつう何から何までも知れ渡っている。
あるKGB所属特派員は、NATO演習情報と動物園記事を、新聞社とルビャンカ(モスクワのKGB本部)と逆に送信してしまった。
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8 党とKGB
著者の見方では、党とKGBは一体化しているが、冷戦崩壊までは党が主導権を握っていたと考えられる。
大粛清の時代、スターリン、フルシチョフ、ミコヤンらあらゆる党政治家たちがトロイカ(地方党役職者からなる法廷外組織)による即決処刑を承認した。
――このような暗号書簡は、広大なソ連のあらゆる地方から中央委員会に寄せられていた。用件はみな一様に、殺戮対象者の増加を求めるものだった。
1938年11月、ソ連邦共産党中央委員会書記スターリン、ソ連邦人民委員会議議長モロトフの署名で、NKVDによる大量殺戮とトロイカの手続きが禁止された。
犯罪者の掟に基づいて行動するボリシェヴィキは、翌月エジョフを失脚させ処刑した。
党はKGBと完全に一体化しているため、党からかつての秘密警察に関する情報が漏れることが多い。
ソ連共産党から国外共産党、テロ組織等への資金提供が、文書公開により立証された。
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9 不死身のKGB
KGBはソ連の崩壊や守旧派クーデタ(ヤナーエフ副大統領、プーゴ内相、ヤゾフ国防相、クリュチコーフ、アフロメーエフ元帥らによる)にどのように反応したのか。
KGBの組織と権益が守られる限り、かれらは改革を支持した。しかし、上層部の思考は保守的だった。
エリツィン率いる民主主義者が政権をとってからは、KGBは引き続き民主政権に用いられる道を選んだ。ゴルバチョフはノーメンクラトゥーラ出身であり、エリツィンの側近も同様である。
――東ドイツやチェコをすこしでも思わせるような変化は今のところ起きていない。将来も起きないだろう。これがロシアのロシアたる所以だ。看板を取り換え、備品を移動し、KGBの名称を国家保安省と改めて、過去の克服は以上で終了、と宣言するのである。
1991年、バカーチンはKGBを本当に解体しようとしたために組織のサボタージュにあい、KGB議長を解任された。
――秘密警察官根性から抜け切れず、全体主義の心理に染まり、独自の価値観と古い考え方に凝り固まった治安機関の専門家は、真の民主主義国家にとってつねに潜在的な脅威となるだろう……。
KGBに残るのは役立たずと年寄りばかりになるのではないか、という懸念があった。
KGBから切り離された対外諜報部も、古いイデオロギーや方針を温存した。本部長プリマコフは、そうした体質を変えることができなかった。
――諜報機関と民主主義のふたつは互いに反りの合わない代物ですよ。諜報機関の民主的改革などという考え自体がそもそも非現実なんだ。……諜報機関というのは軍事組織で、形態や方法は紀元前にまでさかのぼります。何も目新しいものはないんです。
クリュチコフの長期支配において抜擢された役立たずたちが、いまも組織の要職についている。
――クリュチコーフは自分自身でものを考える人間が嫌いでした。かれはもっぱら凡庸さを奨励しました。
――4年から5年という現在の訓練期間はまったく不必要。普通の国ではどこでも大学卒業後、半年から1年となっています。……スパイ養成はどっちみち不可能です。個人的な影響力とか好感とかは教え込むことができませんから。KGBの諜報員養成学校は組織への融合、つまりKGBという親方機関への完全な埋没のためだけに役立っていました。
バカーチンの後任者である国家保安省バランニコフは民警出身であり、再びKGBの復活を目指している。
――……それから「鉄人フェリックス・ジェルジンスキー」(※ 秘密警察創設者)の記念像をふたたび建立し、おめでたい市民たちに諭してやるのだ――「無防備な記念像を倒すものではない」と。
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