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1944年6月、マリアナ沖海戦(「あ」号作戦)失敗によって、特攻兵器……回天、震洋、海龍、震海を使う方針が固まっていった。
海軍においては、零戦等の航空特攻、回天、震洋、桜花など、いずれも、現場の下級指揮官からの熱望という、ボトム・アップの体裁をとって進められた。
一方、陸軍では1944年2月から、航空総監兼航空本部長後宮淳や本部次長菅原道大らを中心に、トップ・ダウン式に特攻隊の編成が進められた。
後宮総監が着任後、若手参謀らに対し、体当たり作戦の決行を唱えた。このとき反対した内藤進少佐は間もなくパレンバンに飛ばされた。
陸軍航空特攻には、九九双軽や四式重などが用いられた。
陸海軍ともに、特攻隊を正式な部隊として天皇に上奏することはなかった。特攻部隊は、各指揮官による私設の集団という位置づけとなった。
――……陸軍の上層部もまた海軍の大西瀧治郎中将同様、特攻作戦を「統率の外道」と考え、そのような作戦を天皇の名において実施することの不遜さを感じていたことの、これは隠微な証左でもあった。
特攻作戦が実行されようとするとき、同時に海軍上層部では和平交渉の動きが始まっていた。軍令部総長及川古志郎は、そうした動きを知っていながら、和平とは相容れない特攻で若者を死に追いやっていたと推測される。
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1944年10月からフィリピンにおいて始まった特攻作戦について。
・海軍の第1神風隊(敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊、菊水隊)の隊員は指名によって実施された。その後は、志願制あるいは名ばかり志願制によって隊員が決定された。
・海軍特攻は「零戦」、「彗星」、「九九爆」、「銀河」、11月から加入した陸軍特攻は「四式重」、「九九双軽」、「一式戦」、「九九襲」などが使用された。
・最初期の特攻において、不時着した磯川一飛曹は、死んだはずなのに帰ってきたため罵倒され、フィリピンに残置された。その後内地での防空戦闘で死んだ。
フィリピン引き揚げの際、「あとに残って最後まで戦い、比島に骨を埋める」と訓示をたれた指揮官たちが、搭乗員たちより先に台湾に引き上げていたことが発覚した(このエピソードは富永恭二のことである)。その中には、磯川を罵倒した指揮官も含まれていた。
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連合軍の沖縄上陸に伴い、本土からの特攻が引き続き行われた。
1945年4月、海軍軍令部の参謀神重徳の発案により、戦艦大和の水上特攻が計画された。整備不十分のまま大和は沖縄本土に向かって進み、間もなく撃沈した。
大和特攻の理由は以下のとおり。
・兵と船を遊ばせておいてもしょうがない
・奇跡に賭ける
・「陛下が特攻は航空兵器だけかとコメントされた」
・「一億総特攻のさきがけとして」
沖縄戦においては、特攻の大義は失われ、惰性・ルーチンで隊員を自爆させる状態となった。
・特攻くずれ……特攻隊員たちは「〇〇組」という幟を兵舎に掲げ、昼間から酒を飲んで暴れまわった。
・自暴自棄の特攻待機員たちは実弾入りの鉄砲をもって酒を飲み、外部の介入を拒否した。
――自棄酒で眼がすわった連中がとぐろを巻いているだけではなく、みんな実弾のつまった短銃を持っているのだ。隊長でさえおそれをなして近寄れない空気であった。
――……特攻が飽和現象となり倦怠現象となっていたのである。……ある予備士官と思われる人物に、鈴木と吉川が「たるんどる! 消耗品の屑めが!」と侮辱される場面がある。
戦況に影響を与えるかどうか疑わしいことに加え、長期間の特攻待機は当事者たちの精神を荒廃させていった。
・最終的には、特攻拒否や、出発してもそのまま引き返す例が増えたが、軍はそのような人間を名簿から削除し存在しないことにした。
・機体には型落ちの旧式や練習機が使われた。また、直掩戦闘機もつかないことが増えたが、これでは敵艦にたどりつくことも困難だった。
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特攻作戦実行の関係者
海軍
・及川古志郎……特攻作戦時の軍令部総長。
・玉井浅一……特攻作戦の具体化、還ってきた特攻隊員を罵倒。生き残り、僧侶になる。
・猪口力平……特攻作戦の具体化、指揮、生き残り自己弁護の著作を出す。
・中島正……特攻作戦の指揮、戦後、航空自衛隊空将補、「俺は死なない。神風特攻隊の記録を後世に残すため内地に帰る」発言。
・黒島亀人……水中特攻作戦の立案、具体化。戦後の証拠隠滅疑惑。
・城英一郎……特攻作戦の企画立案、戦死。
・太田正一……特攻機「桜花」、通称「BAKA BOMB」発案者。終戦直後、飛行機で行方をくらませ偽名で生活する。
・宇垣纒……終戦時に道連れ特攻(本人は同乗)。
・源田実
陸軍
・後宮淳……特攻部隊編成。シベリア抑留後帰国。
・菅原道大……特攻部隊編成、振武寮責任者。「特攻隊員の精神を顕彰する」として余生を送る。
・倉澤清忠……振武寮管理人。
・富永恭二