~ベトナム戦争から現在へ~
◆ベトナム戦争の失敗
米国は国益よりも主義・イデオロギーを選んだ。そのため、支援が失敗した場合、自らが乗りこんでベトナム共産化を阻止しなければならなくなった。
ゲリラ戦は、完全に勝利するか、敗北するかのどちらかしかない。アメリカは、戦力を逐次投入し、徐々に戦争を拡大させていくという失敗を犯した。
ケネディは南ベトナム援助を引き継いだ。しかし、ゲリラが活発化し、ゴ・ジン・ジェム政権が人心を失うにつれて、米国は国家建設を含む包括的な支援をする必要にせまられた。
1963年にケネディが暗殺され、ジョンソンが大統領に就任した。ゴ・ジン・ジェム政権はクーデターで転覆したが、米国はベトナムから手を引かなかった。
ジョンソンは爆撃と派兵を続けながら、常に和平しようとしていた。しかしその条件は、北ベトナムとゲリラには到底受け入れられるものではなかった。
1968年のテト攻勢は、従来型の野戦となり、結果的には共産勢力の損害が大きかった。しかし、大々的な北側の攻撃は米国に大きな衝撃を与え、ジョンソン政権を支えてきたタカ派や保守主義者たちもベトナム政策を見放した。
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1969年以降、ニクソンとキッシンジャーは、北ベトナム、南ベトナム解放民族戦線と和平交渉を行ったが、順調にはいかなかった。北ベトナムは、妥協することなく徹底抗戦することでアメリカを追い払えると確信していた。
ニクソンは、アメリカの威信を守り、大統領としての責任を果たすため、「名誉ある撤退」を追求した。
1973年1月、パリ協定によりアメリカは米軍の撤収を決定した。しかし、北ベトナムはその後協定を破り南ベトナムに侵攻し、1975年に統一を果たした。
キッシンジャーは、ベトナム戦争が間違いであることを認めながらも、90年代に入り、アメリカは再び新秩序の担い手として世界に求められている、と総括する。
その後のアフガン、イラクを考えると、国家は学習しないことを痛感させられる。
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◆ニクソンの外交方針
ニクソンはセオドア・ルーズヴェルトに連なる、現実主義政治(Realpolitik)の実践者だった。
――In Nixon's perception, peace and harmony were not the natural order of things but temporary oases in a perilous world where stability could only be preserved by vigilant effort.
(ニクソンの認識では、平和と調和は事物本来の秩序ではなく、危うい世界における一時的なオアシスにすぎない。そこでは注意深い努力のみが、安定を保つことができる)
かれはウィルソンを尊敬しながらも、主義ではなく国益を基盤として政策を決定した。
外交においては、選択肢の多い者が有利である。ニクソンは中ソ対立を利用し、中国と接近することで、ソ連の態度を軟化させた。
1972年、ニクソン訪中により上海コミュニケが発出され、米中は和解した。
ニクソンの現実主義外交、勢力均衡論は、英仏中の伝統的な外交方針に近く、米国民や歴代大統領にはなじみのないものだった。ウォーターゲートによりニクソンは退陣したが、米中ソの緊張緩和は続き、米国の対共産主義政策が改めて問われることになった。
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ニクソン就任以降、デタントが進行した。西ドイツ・ブラント首相の東方外交により、ベルリンの対立は収束した。一方、米国はアラブ諸国に圧力を加え、ソ連の影響力を一掃した。
しかし、デタント政策は保守派、リベラルの双方から反発を招いた。
保守派は、ソ連に対する融和姿勢の点からニクソンを批判し、リベラルは、民主主義普及の使命を放棄した点を批判した。
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◆レーガン
・レーガンはニクソンとは全く異質の大統領であり、外交方針も180度転換した。
・かれはウィルソン直系の理想主義者であり、米国価値観の普及を目指した。ソ連は悪の帝国であり、かれらはいずれ社会主義の間違いを認めるだろうと考えていた。
・レーガンは、ゴルバチョフやアンドロポフらと面と向かって話すことで、かれらを社会主義から改心させられると信じていた。
かれの夢は、ソ連首脳をアメリカの民家に招くことだった。
・ニクソンは、なぜかれが大統領になれたのか、なぜこのような無教養な人物が、冷戦終結という偉業を達成することができたのか、驚くべきことであると評している。
・レーガンは核なき世界を強く望んでいた。
そして、ソ連の核開発を打ち砕くため、核軍備を強化した。
・悪の帝国を打ち破るために、かれはムジャヒディンやニカラグアのコントラ(反共反政府民兵)、中南米の極右組織、反共軍事政権を支援した。レーガンの外交政策は、ウィルソン風の理想主義に、地政学と勢力均衡の考えを組み入れたものだった。
こうした反政府組織や軍事組織を支援することで、「目的は手段を正当化できるのか」という疑念が世論に生じた。
・レーガンの対決姿勢は、ソ連の経済状況を追い詰め、結果的に崩壊に導いた。
レーガン自身は、親しみやすいと同時に、本心に近づきにくい人物だったという。
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レーガンのSDI(戦略防衛構想Strategic Defense initiative)は効果を生んだ。
ゴルバチョフは、自由化と情報公開がソ連を近代化し、共産党を立て直すだろうと考えていた。しかし、その予測は外れ、ソ連は急速に崩壊した。
ソ連社会の崩壊を最もよく自覚していたのは党のエリートと情報機関だった。民主化運動だけでなく、かれら支配者層が存続をあきらめた点もまた、ソ連崩壊の主原因である。
キッシンジャーの見解では、米国の冷戦政策は概ね適切だった。理想主義と現実主義の間を行き来はしたものの、結果的にソ連の拡大を阻止し、内部崩壊させることができた。
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◆キッシンジャーのまとめ
新しい世界において、米国は再び選択を迫られている。特別な国として、十字軍としてふるまうのか、国益に基づき行動していくのか。
ポスト冷戦時代は、対立軸が消え、より難しいかじ取りを求められる時代になるだろう。
以下、キッシンジャーの予測には説得力があり、またよく現実を観察していることがが見て取れる。
・ロシアには民主主義の伝統がない。為政者は引き続き共産党エリートが務めるだろう。民主主義者が拡大主義者、帝国主義者であることもあるだろう。
・NATOとEUは、アメリカがヨーロッパと接続する上で今後も不可欠となるだろう。
・しかし、旧ソ連諸国をNATOやEUに無差別に加入させることは、ロシアを警戒させるだろう。衰退した帝国は、自己の権益を復活させ、拡大させようとして不安定化を招く。
・国同士の共通意識が希薄なアジアでは、EUのような共同体は生まれず、古典的な勢力均衡が継続するだろう。
・米国にとっての脅威は、アジア、ヨーロッパを単一の強国に独占されることである。潜在的な脅威は、ロシアと中国である。
・アメリカは世界最大の国力を持つが、その力は無限ではない。
民主主義に基づく普遍的な集団安全保障制度を築くことはおそらく不可能だろう。
・民主主義は普及しているとは言えない。民主主義は、国民の均質性を前提とする。そうでない国家では、意見の多様性は即座に政権の奪い合いと分裂、内戦に直結する。
・今後、米国は自国の限界を認識し、国益に沿った外交を行う必要がある。
・米国は理想主義の国である。19世紀のイギリスのように、純粋に国益に基づいて行動することはできないだろう。人権や民主主義等、普遍的な価値に基づく協調を目標としつつ、あくまで国益を軸として政策を定める必要がある。
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