ムッソリーニはイタリア国内でいまだ話題にされる存在であり、国民の憎悪と尊敬を浴びている。この本は、日本人や外国人にむけて書かれた、イタリア外交官によるムッソリーニの伝記である。
ムッソリーニはロマーニャ地方の村プレダッピオで生まれた。家は貧しかったが、社会主義活動家の父と、教師の母のもとで育ち、すぐれた記憶力と魅力を備えていった。
当時のイタリアは独立後、ローマ教会と対立状態にあり、国内も、カトリックと、イタリア王国で分裂していた。父の影響から、ムッソリーニは社会正義の実現に対する強い意志を育てていった。
かれはアナーキズムや、ヴィルフレド・パレート、ジョルジュ・ソレルらの影響を受けた。のちに社会党とかかわりを持つようになるが、マルクス主義者にはならなかった。
師範学校を卒業し、各地で教師としてはたらきながら、政治活動に参加する。ムッソリーニにはカリスマ性や、人にものごとをわかりやすく伝える能力があった。かれは新聞記事の執筆や、演説、組織活動によって、名をあげていった。
WW1では狙撃隊に所属し、負傷した。このときの戦争体験はかれに深い影響を及ぼした。
かれは「塹壕の世代」こそがイタリアを担っていくと考えた。1919年、「戦闘ファショ」を結成し、代議士としての活動をはじめる。1922年には、民衆の支持を得てローマに進軍し、首相に任命される。
ファシスト党は軍事組織をもっていたため、こうした短期間での掌握が可能になった。1929年に教皇庁と和解する。
1935年、36年のエチオピア戦争では、イタリアは前回敗戦の屈辱を晴らした。しかし、1940年、ドイツにひきずられるかたちで英仏に対し宣戦布告すると、イタリアには戦争に勝つ軍備がまったくととのっていないことを知らされる。ムッソリーニは失望し、健康を害してしまう。
イタリアは各地で敗北し、素早く降伏していき、帝国は消滅した。
1945年、ムッソリーニは逮捕され、参謀総長バドリオや、かつての側近からクーデターをおこされる。この年、かれは愛人のクラレッタとともに殺害される。ムッソリーニの殺害は、ファシストと共産党の内戦の最中におこった事件で、現在も謎のままである。イギリスの情報機関が関係しているとの推測もあるという。
ヒトラーは終生ムッソリーニを師匠として敬い、かれが失脚したときも救出作戦を実行した。ムッソリーニは、はじめヒトラーを警戒していたものの、さいごまで友情をもっていたとおもわれる。
◆ムッソリーニの評価
ムッソリーニは二流の独裁者というイメージで語られがちだが、だとしたら、「二十年のあいだ、自国民の支持を得、外国でも評価される人物にはならなかったであろう」。
かれはイタリア人の心性を体現した人物だった。二流の民族から脱して、ふたたびローマ帝国の栄光をとりもどすという夢を、イタリア人はかれに託した。だからこそ、それが失敗したとき、ミラノの人びとはムッソリーニの屍体をはずかしめて、自分たちのみじめな願望を抹消しようとしたのだ、と著者は考える。
――イタリア人は自分たちに似合っていたファシズムの体制に情熱をもって溶け込んだ。ムッソリーニに自らの夢を重ねてかれを崇拝していた。
◆ファシズム、かれの政治思想について
ムッソリーニが強く影響をうけたパレートは、「人間の非合理的側面を重視し、歴史をうごかすのは力(暴力)である」と考えた。かれはエリートの交代説を提唱し、ムッソリーニに影響を与えた。
「ソレルからムッソリーニは大衆動員のための、感情的な要素に基づいた確信(政治的ミュトス)の重要性について教わった」。
かれはファシズムの父である。
――かれは、大衆社会の誕生という新しい現象をだれよりも早く認め、この社会で台頭しつつある新勢力に政治的動機を与え、かれらに新しい国家体制という具体的な目標を設定した。……ファシズムは本質として、現実を<全体的>に総合する意味で全体主義であるから、必然的に多様な思想と意見を包含し、調和させるものである。
ファシズムは労使の協調を唱え、また、国家主義の要素をもっていた。
WW2のとき、海軍は近代化されていたが、その他の軍種はまったく戦争能力をもたなかった。ヒトラー、スターリン、チャーチルと異なり、かれは軍事に口出しせず、側近に任せていた。それが失敗の原因だった。
ほかの独裁者とおなじく、かれは人間不信と孤独に苦しんでいた。ムッソリーニは神格化され、下界におりることができなかった。
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ほか、ムッソリーニと芸術、文化政策についての検討も含まれる。
- 作者: ロマノヴルピッタ,Romano Vulpitta
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