うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『かたき討ち』氏家幹人

 敵討ち、復讐の観念はいまも根付いている。本書は江戸時代の敵討ち習俗を考察する。

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 先妻・本妻が後妻を襲う「さうだう打」(相当打)という習俗がかつて存在した。さうだう打の際、先妻は女のみで徒党を組んで後妻に果たし状を送り、竹刀などの武器をもって押し入り台所の道具を破壊するのだった。室町時代から江戸初期にかけてこの習俗は形式化し、流血や致死を避けるような「戦争ごっこ」になった。これは復讐を習俗化することで深刻な対立を避け、また被害者(先妻・本妻)の屈辱を晴らす効用も持った。

 滝沢馬琴はこれを戦国時代の「理に暗く勇を好む」弊風のひとつとみなし、非難した。やがてこうした侠気は狂気とみなされるようになる。

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 さし腹(指腹)とは、自らが切腹する代償に、怨敵を指名してその敵にも切腹をさせるという慣習である。戦国時代には既におこなわれていた。この時代には、相手が自害したのを聞いたショックで仇も自害するということがあった。自害や切腹は想像以上の重みをもっていた。

 弱者の自爆的復讐手段、もしくは、家同士の騒動を抑止するための慣習とされるが、言いがかりやねたみ、恨みから指腹をおこなう武士もいたので江戸初期に禁止された。また、相手がほんとうに仇かどうかの確証がなくとも、指腹をしてしまえば仇容疑者とされたものは切腹するしかなかった。

 忠臣蔵では、浅野長矩切腹し、怨敵吉良義央に復讐しようとする。

 ――『忠臣蔵』こそは、その実現が年を追って困難になってきているなかにあって、あえて『指腹』を実現しようとした男のドラマだったのである。

 似たような敵討ち騒動に市谷浄瑠璃坂の敵討がある。

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 切腹の作法は江戸期が下ると知らないものも多く、実行の際に下手をうって苦しむ例が多々あった。尊王派の武市瑞山切腹する際には、介錯がなかなかとどめをさすことができず、二人がかりでわき腹を六回さしてようやく絶命したという。

 犯罪者がつかまり、復讐・制裁が公権力に委託されたとき、復讐者が処刑に参加することが許される場合があった。間男が浮気相手の女を斬って自害したが、女は生き残った。女の夫は役所に申し出て、自ら妻にとどめをさしたいと頼んだところ許可されたので、自力で妻を殺害した。

 「復讐者に対するこのような特典は、「太刀取」と記されている例が多い」。

 太刀取は江戸初期および明治維新期に見られる。明治政府が成立してからは、近代法概念の導入を目指す司法省は太刀取や復讐を禁止した。

 復讐vengeanceは普遍的なテーマであり、過去の失われた心性ではない。

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 戦国期から江戸初期にかけて(十七世紀)、若い武士は少年を弟子にとって教育を施した。下克上、裏切りの多い時代に、こうした師弟関係はパートナーシップを生み出すのに不可欠だった。この風習は衆道と結びつき、情のもつれや争いから刃傷沙汰になることが多かった。

 復讐観念が現在にも根付いているのに対し、衆道はおよそ現在からは想像がつかない。

 ――中里甚五右衛門は、俺たちにもやらせろとばかり息子兵次との性的交際を要求してきた少年たちに対して、激怒するどころか懇ろな挨拶をしなければならなかった……わが子が年長の若者と兄弟分の契りを結び、性的関係を続けているのを承知しながら父母が許しているのも、容易に納得できないに違いない。

 衆道の痴情のもつれはたびたび事件となったというが、隔世の感がある。

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 殺された兄の敵を打つ女や、夫と一緒に敵討に参加する妻、夫の仇を討つ妻とその娘など、女による敵討も数多く報告されている。こうした「侠気の女」のニュースは当時もてはやされることが多かった。

 浮気相手と妻による夫の謀殺など、並べられた事件を眺めてみると、近代法による刑罰があるかないかを抜きにすると、われわれの行動はあまり変化していないようにおもえる。衆道のように廃れた心性もあれば、依然として生きつづけている感情や行動もある。

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 仇となって追われる者を敵持、もしくは仇人(あだびと)という。彼らは名前を変えたり身分を偽ったりして、心休まらぬ生活をしなければならなかった。しかし、戦国や江戸初期には仇人を藩や大名が保護する例もあった。宮本武蔵は巌流島のたたかいの際、約束に反して手下をひきつれ、小次郎を負かしたあと部下にとどめをささせた、という記録がある。これは現代の感覚や、江戸期に成立した士道(武士道)からすれば卑怯と感じるが、当時の武蔵は藩にかくまわれ、小次郎の仇を討つものたちから逃れることができた。

 そもそも一人の君主に終身雇用され忠誠を誓うという武士道は、江戸時代が下って確立した道徳である。戦国時代には、優秀な牢人(浪人)は次々と奉公先を変えるのが常だった。それでも大名や武将は、浪人をすぐれた者として歓迎し、彼が仇人となった場合には国をあげて保護した。

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 なぜ敵持はかくまわれたのか。仇人を刺客から守るという風習は江戸初期までしか見られない。

 ――身体を投げ出し必死に頼まれれば、たとえ見ず知らずの者でも助けるのが武士の作法。当時の武士の間では、「見かけ(見込んで)」、「頼む」とは、われわれの想像を絶するほど重い行為(言葉)だったらしい。

 「囲者」(かこいもの)とは現在では妾や囲われた女を意味するが、この時代には駆け込んできた敵持をも指していた。この風習は十八世紀に入ると廃れたが、それはなぜか。

 ――「走込者」(駆け込み人)を屋敷内に囲って出さないのは戦国の余習であり、泰平の世に行うべきではない。戦国の頃は朝の味方も夕には敵に豹変する気風だった。屋敷に逃げ込んで来た者を、命をかけて守ってやったのは、その者に恩を感じさせ、信頼できる味方にしようとしたからである。

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 江戸初期まで、敵持がうまく逃げ延び、場合によっては返り討ちにもすることが、武士道の点からも賞賛された。これを後に形式化した「切腹の武士道」に対し「生き延びる武士道」と定義するものもいる。

 江戸時代の敵討で多いのは父の仇、兄の仇で、弟の仇は少なく、子や主君は皆無にひとしかった。父が息子や娘の敵を討つのは江戸時代においては違法だった。それでも人びとは子供への敵討に情を動かされた。

 中国刑法では敵討は情としては存在したが、皇帝の力である法を守らないものとして処罰された。しかし、妻と間男の姦通現場に侵入し二人とも殺した場合は、賞賛された。妻敵討(めがたきうち)は寝取られ夫の復讐だが、戦国期から慣習化された一方、江戸幕府はこれを無益として一蹴した。滝沢馬琴は妻敵討は田舎者の陋習にすぎないと非難した。

 敵討を賛美するものが多かった一方、滑稽化して茶化す山東京伝のような勢力もいた。江戸期に入り復讐が制度化され、武士の美徳となる以前、家康などは敵討は「どんな手を使ってでも早急にすべき」殺人行為と考えていた。戦国、江戸初期には集団的復讐が頻繁に起こり、村人六〇人を皆殺しにするという例もあった。

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 近代以前がもっぱら情を優先させてきたわけではなく、古来から感情を抑制する制度や法は存在した。現在から見て戦国期は言うにおよばず江戸期もまた血なまぐさいが、かといって江戸時代の人間が非人間的だったというわけではない。刃傷沙汰や敵討も人間のおこないの内である。

 

かたき討ち―復讐の作法 (中公新書)

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