◆所感
バトル・オブ・ブリテンの概要・経緯についてわかりやすく説明している本。
1部 背景
1 WW1
第1次世界大戦中、イギリスは本土にやってくるドイツのツェッペリン飛行船に対処しなければならなかった。本土防衛の責任は、陸軍か海軍かで数度入れ替わった。飛行船に続く、飛行機による爆撃を受けて、1917年、ロイド・ジョージ首相とスマッツ大将は防空専門の軍を編成しロンドン防衛にあたらせた。ドイツ軍はゴータ爆撃機での夜間爆撃を行った。
1918年、スマッツ報告をもとに空軍省が設置され、イギリス空軍が誕生した。
ドイツの爆撃に備えるため、大戦中に防空体制の構築が進んだ。
・音響式方向探知機
・管制システム
・無線電話
・空襲警報システム
レーダーはまだなかったが、ロンドンの中央管制所では敵機や味方機の位置情報をすぐに掌握することができたという。
大戦終結とともにロイド・ジョージ首相は空軍を大幅縮小した。また、陸海軍は、空軍を解体させ権限を自軍に戻そうと政治活動を展開した。これに対し、1919年から空軍参謀長を務めたトレンチャード卿は、空軍温存に尽力した。
空軍が保持されたことで、本土防空についての継続的な研究と改良が可能になった。
戦間期には、空軍はイラク、パレスチナ、トランスヨルダン等植民地の治安維持業務も担当した。
トレンチャードの空軍政策……
・各種学校の設立
・5割の将校は4年勤務後予備役
・AAF(補助空軍部隊)
・各航空メーカーへの調達配分
・広報
世界恐慌の時期には予算不足に苦しみ、クランウェル士官学校は10年以上木と鉄のトタン小屋だった。
33年、ヒトラーの首相就任により、仮想敵国としてフランスに続き新たにドイツが浮上した。
戦闘機軍団司令官等を務めたヒュー・ダウディングは、単葉戦闘機とレーダーの開発に寄与した。
3 対ドイツ
ドイツ空軍の再建は、戦間期から始まっていた。国防相フォン・ゼークトは秘密裡に軍の保持と構築を進めた。
・ソ連領での開発・訓練
・運輸省や国営航空会社ルフトハンザを利用した訓練や編成
・グライダーや軽飛行機といった航空スポーツの普及
英独双方の戦闘機・爆撃機開発経緯について。
「航空機の心臓はエンジンであり、魂はパイロットである」。
・英……ハリケーン、スピットファイア、デファイアント、ブレニム
・独……メッサーシュミットBf109、Bf110、ハインケルHe111、ドルニエDo17、ユンカースJu88、Ju87ストゥーカ
1934年設置された防空調査委員会と、科学者ワトソン=ワット、そしてダウディング卿、空軍大臣スウィントン伯爵を中心に、レーダーとIFF(敵味方識別用送信機)が開発された。
レーダーを用いた警戒管制システムの確立により、英国の防空能力は飛躍的に向上した。
4 戦争準備
1938年オーストリア併合の時点で、チェンバレンは統合参謀本部から、イギリス軍に長期戦を戦う能力はないと報告を受けていた。以後、宥和政策を行いつつ、政府を戦時体制に変え、軍備拡大を行った。
チェコスロヴァキア併合以降は、防護対象都市の増加と船団護送用索敵といった任務が増える一方、気球軍団、陸軍飛行隊(AAF)の整備が進み、戦闘機生産も加速した。
・対空砲兵軍団の整備
・民間防衛、補助部隊の整備
・邀撃管制方式……戦闘機の発する信号に対し地上の管制官が無線で敵機の方向を指示するもの。
ミュンヘン会談の時期にイギリスが戦争に踏み切っていればどうなっていたかは推測困難であるが、当時の国民は皆戦争に反対していた。
その後、チェンバレンは世論の統一を果たし開戦した。
多くの国民の燃えるような意欲と献身的な努力に助けられてこそ、あの「少数の」人間による輝かしい成果が可能になったのである。
「まやかし戦争」の間、イギリス軍は防空体制を訓練し改良する時間を稼ぐことができた。
軍備をめぐる現場と中央の対立について。
本省における幕僚と出先部隊における指揮官の違いは、対立があらわになった部署の人間がしばしば考えるように中央における独りよがりと邪魔だてから生ずるのではなくて、幕僚と指揮官という任務の違いから発生するのである。
6
1940年4月、ドイツ軍はノルウェーを占領した。連合国は抗戦するが、イギリス空軍の三個中隊分航空機及び二個中隊分パイロットが失われた。
連合国が追い詰められていく過程で、空軍の戦力も大陸に吸い取られていった。
5月末のダンケルクの直前に、イギリス政府の暗号専門家たちがエニグマ解読に成功していた。後の本土決戦では、ドイツ空軍の戦力や運用を把握するのに役立った。
戦闘機パイロットは、自らの反撃力がないにも関わらず恐れずに乗り込んでいく爆撃機搭乗員たちを尊敬していた。
7 防空システム構築
フランス降伏後、ドイツはイギリス上陸作戦(アシカ作戦)の考案を開始したが、その条件はイギリス空軍、海軍の無力化だった。
バトル・オブ・ブリテンは、イギリス海峡制空権獲得のために行われた。
ダウディングはドイツ空軍の本土侵攻に向けて、防空システムを完成させた。それは、航空機、レーダー、邀撃管制、監視所、高射砲塔、気球軍団などからなり、各機能がネットワークを構成するというものだった。
複雑に見えるが効率のいいシステムで、著者によれば、それはアングロサクソン系というよりチュートン系(ドイツ的)だという。
***
2部 決戦
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本土決戦の公式期間は1940年7月10日~10月31日だが、実際はその前後にも戦闘が発生している。7月10日、英本土各地でドイツ軍爆撃隊との戦闘が起こった。
戦闘機の数はドイツが上回り、攻撃のタイミングもドイツが主導権を握っていたが、イギリスには自国の領土上で戦うという利点があった。
ドイツ空軍攻撃隊の構成はJu87、88急降下爆撃機、Me109(Bf109)戦闘機、Do17、215爆撃機等だった。
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ドイツ軍の攻撃は断続的だったが、これは天候やドイツ空軍の準備だけでなく、ヒトラー、ゲーリングら首脳の優柔不断にも原因がある。かれらはイギリスをどう扱うべきかいまだに決めかねていた。ヒトラーの認識では、イギリスは既に敗北しており、なぜ降伏しないのか不思議だったからだ。
撃墜された英空軍パイロットの回想。
……わたしのスピットファイアの後ろはトウモロコシがなぎ倒されて道みたいだった。興奮した農家の人が出てきて言った。「お前、なんで隣の畑に降りてくれないんだよ?」
本土決戦では、開戦時に待機していた戦闘機パイロットの3分の1が死亡し、それ以上の爆撃機搭乗員が死んだ。
開戦初期にはドーバーがドイツ空軍の標的となった。
ドイツ空軍は、イギリス侵攻に備えて救難部隊を編成しており、そのための水上機や飛行艇には最も優秀な機関銃手たちが登場していた。決戦後半まで、イギリス軍パイロットが救出される割合はドイツ軍よりもはるかに低かった。
ゲーリングは「アドラー・アングリフ(鷲の攻撃)」作戦を考案し、目標を制空権確保、英海軍破壊、レーダー破壊と定めた。
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8月11日、アドラー・アングリフ作戦に先立ち、ドイツ軍爆撃機部隊が海岸沿いのレーダー施設を攻撃した。各地のレーダーサイト、飛行場が破壊されたが、復旧活動により1日で運用は再開した。この結果にドイツ空軍は落胆した。
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ドイツ空軍の攻撃を受けて各地の飛行場、基地が被害を受けた。しかしドイツ軍も損害は大きく、前線のパイロットらは不満だった。
ダウディング司令官は、部隊の損耗や疲労を考え、戦力の入れ替えを行い継続能力を確保した。
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機体の整備員たちは、週7日間、夜明け前に起きて1日中整備を行った。
8月15日の戦闘において、ドイツ空軍は数百機規模の編隊を組んで攻撃したが、イギリスはかれらに大損害を与えた。
チャーチルはその戦果に満足しチェンバレンに連絡した。
しかし、アメリカの見方は悲観的であり、イギリス敗北不可避として、大使館をロンドンから引き揚げさせた。これを聞いたチャーチルは激怒した。
[続く]