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外国人義勇兵のうちもっとも優秀だったのはポーランド、チェコ人だった。
アメリカからは、本国が志願を阻止していたものの、多くの義勇兵が参加した。その中にはサーカスでアクロバット飛行をやっていた命知らずもいた。
カナダ、オーストラリア、南アフリカなど、その他の国からも多くのパイロットが参戦した。
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だいたい戦闘機乗りというのは自分の周りを目に見えない壁で囲んでいる人種だから、それが奴らは無神経だという印象を与えるのかもしれない。しかし実は、そいつは精神的、肉体的なストレスに対する自己防衛として必要なことなのである。
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イギリス空軍はドイツの攻撃により予想以上の損害を受け、戦闘機とパイロットの不足に悩まされた。海軍や陸軍飛行隊から臨時のパイロット志願者が採用された。
しかし、ドイツ空軍も、撃墜された機数に比べて満足のいく戦果ではなかった。
この時から夜間爆撃が開始された。
英独双方とも、離脱したパイロットを銃撃することがあった。イギリスではやれば叱責されたが、特にチェコ人、ポーランド人パイロットはドイツへの憎悪から頻繁に落下傘パイロットを撃った。
イギリスは一方で、洋上を飛ぶドイツの救難機を攻撃していたが、これらは高確率で救助されたパイロットを搭載していただろう。
本土決戦を地上で戦った無名の英雄たちについて。
……地上整備員、高射砲隊員、警報伝達係、それに監視部隊の隊員などである。作戦用の地上通信線は郵政省(戦争班)の責任事項だったが、この担当者たちは地上の業務で最も酷使された部類に入る。……同じように忙しかったのは基地の通信要員と陸軍通信隊の隊員である。
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9月以降、ヒトラーはロンドンに対する戦略爆撃を決心した。ヒトラーはロンドン攻撃を禁じていたが、数機が誤爆したために、チャーチルがベルリンを報復爆撃したことに対する反応だった。
ベルリン空爆は、ベルリン市民の間に大きな落胆を与えた。
英独双方の兵士たちには疲労とストレスが見られた。
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9月7日、ゲーリングの直接指揮により、ロンドンや近郊都市の昼夜間爆撃が行われた。これはロンドン市街に大きな被害を与えたが、その代償に工場等の生産拠点の喪失は免れた。
ドイツ空軍にとって、またロンドン市民にとって、9月7日は昼夜を通じてドイツ軍が成功を収めた1日のように思えた。一方、ダウディングとパーク両将軍にとっては9月7日は大きな安堵の1日であり、戦闘機軍団の勝利について確信を深めた1日でもあった。
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ドイツ爆撃機軍団は、攻撃目標探知のためにクニッケバインという無線技術を活用した。イギリス側は後にこれを無効化する妨害電波技術を開発した。
RAF戦闘機軍団の指揮所である戦闘中継所は、ロンドン近郊ベントレー修道院(Bentley Priory)に設置された。
ロンドン爆撃は続いたが、上陸部隊の兆候はまだ見られなかった。
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バトル・オブ・ブリテンの指揮を執っていた第2航空艦隊司令ケッセルリンク元帥は、まだイギリスの警報システムを理解できていなかった。
9月15日、イギリス戦闘機軍団はロンドンを目指すドイツの爆撃部隊に大損害を与えた。
重要だったのは、もはやドイツ爆撃航空団が味方戦闘機により護衛を頼りにできないという事実と、その結果、爆撃機搭乗員の戦闘継続の意欲が崩壊したという事実である。……そして何にも増して重要だったのは、このあと48時間以内にヒトラーから指示が出されて、イギリスへの上陸侵攻は無期限に「延期された」ことである。
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飛行隊の指揮官は任務、パイロットの訓練、書類作成や遺族への手紙等に忙殺された。新人パイロットは概して頼りにならないと酷評されており、部隊での訓練なしに実戦に向かうことは自殺行為だった。
遺族(主に母親)への手紙は、最終的にテンプレ化した。
よくあることだが、平時でも戦時でも、上に立つ人間が意思疎通の努力を怠ること、これこそが最悪の欠点だといえるだろう。
パイロットの層はドイツのほうが厚かった。
ドイツ空軍では経験のあるパイロットの予備兵力が比較的大きく、戦闘の激化に伴って生ずる欠員を埋めやすかったため、ドイツ側の戦闘飛行中隊の指揮官クラスの全般的な質的レベルは、本土決戦の末期にはイギリス戦闘機軍団よりも高かったかもしれない。
上陸の見込みがなくなると、イギリス政府は「クロムウェル」(最高警戒態勢)を解除した。
9月30日の爆撃が失敗すると、ドイツは昼間爆撃を中止した。
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バトル・オブ・ブリテン最後の一か月(10月)について。
10月12日のヒトラー布告は、イギリスへの侵攻準備を断念し、軍事的・政治的圧力に専念すると宣言するものだった。イギリス空軍はドイツの攻撃を跳ね返したのだった。
10月29日、イタリア空軍の爆撃機部隊が英本土を襲った。これは、イギリス爆撃機軍団によるイタリア北部の空襲に腹を立てたムッソリーニが命令したものだった。旧大戦の複葉機、カラフルなカモフラージュでゆっくりと飛んだため、イギリス人には珍奇な光景に移ったという。
…なんとなくヘンドン航空ショーのイタリア版で展示飛行でも始めそうなかっこうだった。……ミラノの新聞にしかるべき宣伝記事を提供できれば、目的は達成するのだろう。ドーバーの北のラムズゲート上空を通り、爆弾を数発ばらまいてから海の上に飛び去った。
その後も夜間爆撃は続いたが、イギリス侵攻失敗はヒトラーにとって致命的となった。
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3部 本土決戦後
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ドイツの敗因
・ロンドンへの目標変更
・ダウディングの指揮官としての能力
・ドイツ軍情報部の貧弱さ……防空体制を掌握できず、また情報将校は航空団に1名のみ(RAFは各中隊に配属)
・ドイツ空軍は陸上部隊支援のために設計されていた
・爆撃機が脆弱、Bf109は足が短くロンドン上空で10分間しか戦えない、そもそも単発戦闘機の性能に差があった
・撃墜数の過大報告は英独双方に見られたがドイツのほうが水増しが多かった
戦術その他。
・ドイツはメルダースの考案した「フォー・フィンガー」方式を用いた。
・当時、限られたエースだけを報道した結果、同僚のあいだに反感が広がったため、広報部は匿名主義を採用した。
・投入された数、爆撃機の撃墜数ともに、スピットファイアよりもハリケーンのほうが上である。
・ダウディングはその功績にもかかわらず、本土決戦直後に解任され、また元帥にも昇任しなかった。かれは既に一度退役しており、また上官や上層部に直言するため疎まれていた。
RAFの勝利は、ダウディングと若いパイロットたちを支える無数の組織、協力、要因によってもたらされた。
女性もまたWAAF(女性空軍補助部隊)としてレーダー監視や無線傍受、事務や労務等に従事した。
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参加者の回想。
おわり
◆参考・比較
the-cosmological-fort.hatenablog.com