うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『By Trust Betrayed』Gallagher その2 ――ナチス・ドイツの安楽死作戦

 3 T4作戦の始動

 安楽死施設は次のような場所に設置された。

 

・グラフェネクGrafeneck(ウルムUrm南西)

ブランデンブルクBrandenburgの古い監獄(ベルリン南西)

・ハルトハイムHartheim(リンツLinz北西)

・ベルンベルクBernberg(中央ドイツ)

・ハダマーHadamar(北フランクフルトFrankfurt)

・ゾンネンシュタインSonnenstein(サクソニーSaxonyのドレスデンDresden近郊)

 

 当初は、悪名高いSS大尉クリスチャン・ヴィルト(Christian Wirth)が患者の後頭部を銃撃する等の狼藉を働いていたが、やがて一酸化炭素(carbon monoxide)による薬殺と焼却に移行した。

 移送の細かな統制が文書で通知され、また患者の所有物は回収・横領された。屍体の金歯は専門家によって抜き取られた。医者たちは、医学に役立てるために、屍体の脳や部位を要求した。

 患者の家族たちは、行方不明になった身内を探して、当局に手紙を書いた。この場合、医者による委員会は「当該患者の移送先は知らされていない」と回答した。

 

 遺族に死亡通知を出す際のテンプレートは次のとおり。

 ――患者は〇〇の疾患により死亡した。患者は苦しみから解放された。遺体や所有物は感染防止のために処分された。

 

 安楽死プログラムは1941年の夏には中止された。カトリックや市民からの反対が多く、東部戦線の士気に影響を与えかねなかったからである。

 しかし、収容所や、病院での安楽死、また障害者・同性愛者・混血・慢性病患者への殺人は続けられた。記録に残っているだけでも、1941年までに7万人以上の患者が殺害された(「野生化した」安楽死プログラム)。

 

 

 4 子供

 人類の歴史上、子供は、家族の幸福の象徴とされる一方で、常に弱者として迫害を受けてきた。

 当時の医師たちは、T4作戦の開始に伴って、遺伝病の新生児や障害児、ユダヤ人の子らの殺害を行った。医師によって「生きるに値しない命」が選別され、殺害されたことは、障害児に対し無用者の烙印を科すことになった。

 

 子供に対する殺人を、当事者や周辺住民は皆知っていた。かれらは、概ね賛成するか、見て見ぬふりをした。

 

 ――ヒトラーは生を「終わりなき闘争」と考えた。かれは、「強者がその意志を強制する、これが自然の法則、ジャングルの法則である」と言った。10年が経過し、総統はドイツをジャングル国家に変貌させた。

 

 

 5 アプスベルク(Absberg)におけるT4作戦

 ドイツ中南部の小さな村アプスベルクには、修道院(Abbey)があり、そこに障害児や知恵遅れの子供たちが住んでいた。かれらは町に溶け込んでおり、住民と一体化していた。

 1940年、灰色のバスがやってきて、広場の中央に集められた子供たちを移送しようというときに、騒ぎが起こった。

 ナチスが障害者を殺害していることは公然の秘密となっていた。障害者も、自分たちの運命を認識していることが多かった。

 

 子供たちが抵抗を始めると、村人たちもいっせいに叫んでSS隊員に詰め寄り、地獄のような光景が生じた。

 

 移送の際に、住民から強烈な抵抗を受けた事件は、地元のナチ党員を通じてSDに報告された。この村に対する処置がどうなったか記録には残っていないが、ヒムラー以下親衛隊は、世論を沈めるために苦心していた跡がうかがえる。

 

 

 6 問題を起こすT4作戦

 ナチス・ドイツ全体主義というよりは全体主義の戯画ともいわれる。様々な機関・部署・軍隊が混沌として絡まりあい、「権威の無政府主義」とハインツ・ヘーネは言った。

 T4作戦も、そうした制度的混乱の1つだった。

 

 ナチス・ドイツは世論を気にかけていた。

 兄弟姉妹の障害者が同一日時に死亡したり、同じ病院の患者が同時に死亡したりする例が多発し、遺族からの抗議が相次いだ。

 散発的な抗議や抵抗は起こったが、安楽死プログラムの根絶には至らなかった。

 

 T4作戦自体の廃止に最も寄与したのはカトリックからの抗議である。

 作戦の実施者やナチ党員は、社会を安定させるために作戦の秘匿を徹底しようとした。かれらには、安楽死プログラムが倫理的に問題があるいう感覚がなかった。

 

 調査によれば、障害者を身内に持つ家族の多数は、安楽死に賛成した。ヒトラーは、かれらを社会的な責任や罪悪感から解放しようと考えていた。

 

 

 7 T4作戦と医師

 ドイツにおける医師のほとんどは、大量殺人に賛同し手を貸すか、黙認した。かれらは「ナチ時代を幸福に、愉快に過ごした」。

 ナチス時代には、人びとは諦めと無関心に傾いていた。戦後に行われた弁明で、ある医師は「安楽死プログラムが嫌だったので、よく現場を離れた。悪夢に苛まれた」と言った。

 これは抵抗ではなく、黙認と服従に過ぎない。

 

 一部の医師は、患者の病状を記載する方法に細工を加え、安楽死の対象から除外させ、数千人の命を救った。

 殺人センターでは医師や看護師の自殺が頻発した。

 ドイツは医学の最先端であり、医者の地位は非常に高かった。かれらの多くは国家主義者だった。第1次世界大戦時、医師会は軍国主義を擁護し、文化の破壊を是認した。

 第1次世界大戦敗戦後、医師の収入は激減した。しかし、ナチ政権の始まりとともに医師の需要が高まり、また収入も回復した。

 ユダヤ人医師の追放によって、ドイツ人医師たちは空いたポジションを得ることができた。

 ヒトラーの最も熱烈な支援者が医師たちだったのは驚くことではない。

 

 輝かしい経歴を持つ数多くの医師たちが安楽死作戦に加担した。T4作戦において、SSは輸送や車両の提供、警備など、補助的な役割を果たしたにすぎない。

 作戦は委員会と医師たちが進んで実行した。

 

 医師たちの動機に関してはいくつかの推測がある。

・テロ政治への恐怖

・医師界からの追放のおそれ

・血の盟約(Blutkitt):犯罪に加担させることで忠誠を高める

・臆病者に見られたくない

 

 病と闘う医師にとって、病と死の象徴である障害者や患者は、敵とみなされるようになった。

 安楽死プログラムは秘密裡に行われた。また、プログラムは科学の名のもとに行われた。

 慢性病患者への治療をやめ、気休めだけを与えることと、かれらを殺人センターに送り込むこととは、かけ離れてはいるが、論理的にはつながっている。

 [つづく]

 

By Trust Betrayed: Patients, Physicians, and the License to Kill in the Third Reich

By Trust Betrayed: Patients, Physicians, and the License to Kill in the Third Reich

 
【新装版】ナチスドイツと障害者「安楽死」計画

【新装版】ナチスドイツと障害者「安楽死」計画

 

 

『By Trust Betrayed』Gallagher その1 ――ナチス・ドイツの安楽死作戦

 ナチス・ドイツにおける障害者の安楽死(Euthanasia)・大量殺人(Mass Killing)――T4作戦(Aktion T-4)――を検討する本。

 著者自身もポリオによって身体障害者となり、同じ境遇だったフランクリン・ルーズヴェルトを研究対象にしている。

 

 ◆所感

 ヒトラーは進歩と医療のために、「生きるに値しない命(Life Unworthy for Life)」を安楽死させた。

 ナチは障害者(The Disabled)や慢性疾患患者(Chronic Disease)、知的障碍者(The Retarded)を殺害したが、実態は、もっとも脆弱な人間たちへの迫害に他ならなかった。

 医師、精神科医たちは、自分たちが他人の生死を決める権限を持つのだ、という傲慢な認識に基づき、患者殺害に加担した。

 ナチスが行ったことを知ることは、わたしたちの社会、社会におけるマイノリティについて考える重要な契機となるだろう。

 著者いわく、障害者とは社会におけるマイノリティの1つであり、生き方の1つである。かれらはその他の人間と同じ権利を有しているはずである。

 

 障害者・高齢者は不要だから抹殺すべき、あるいは税金で生かしてやっているという考えは日本では割と身近である。

 特に邪悪ではない「普通の人びと」からぞっとするような発言をきく機会が多々ある。

 

 わたしが公務員として働いていたとき、100人単位の部下を持つ、大佐級の人物が「こういう弱い人たちはもう悪いけど生きててもしょうがないよね」という趣旨のことを話していた。この人物の部下の中には、障害児を育てている人間や障害を持つ家族を介護している人間もいただろう。

 それでこの発言である。

 

 

  ***
 導入 ハダマー精神病院(Hadamar)

 ハダマー精神病院では、プログラム14f13に基づき、終戦まで大量の安楽死処置が行われた。アドルフ・ヴァールマン(Adolf Wahlmann)とアルフォンス・クライン(Alfons Klein)の下で、医師や看護師が障害者や病人、中毒者の殺害を始めた。かれらはガス室で患者を殺害した。

 1943年以降、病院は孤児や混血児、問題児を連れてきては殺害した。移送にはバスが使われたため、近所の住民や子供たちは「殺人バス」と噂した。

 大量殺害を隠蔽するため、屍体は焼却し、一定の間隔を置いて少しずつ死亡通知を発行した。職員たちは高い手当を受け取り、守秘義務はあったが、自由に転職することができた。

 

  ***

 1 T4作戦の開始

 ヒトラー直属のお気に入りだった親衛隊軍医カール・ブラント博士(Karl Brandt)と党指導者フィリップ・ボウラー(Philip Bouhler)は、ヒトラー本人から安楽死作戦の秘密命令を受け取った。

 1939年、ヒトラーは党員から、重度障害者の子供を安楽死させたいという請願を受けた。ヒトラーはこの党員が誹りを受けぬよう、公式に安楽死を承認した。

 それから社会的無用者、障害者、慢性疾患者を殺処分する作戦が秘密裡に行われた。

 

 ヒトラーは無用者の絶滅が民族の純化・強化につながると考えており、当時の優生学も同様の傾向を持っていた。国民はヒトラーを支持した。

 1933年には、身体障害者や精神障碍者、遺伝病患者の断種(Sterilization)と、性的少数者の去勢(Castration)が始まっていた。

 

 ブラント博士とボウラー、また主任のSS大佐ヴィクトル・ブラック(Viktor Brack)、医師ハーバート・リンデン(Herbert Linden)、ウェルナー・ハイデ(Werner Heyde)、パウル・ニッチェ(Paul Nitsche)らが安楽死プログラムの中心だった。

 かれらはマルティン・ボルマンをプログラムから排除することで、ゲーリングヒムラー、内相フリックの支援を受けることができた。

 

 T4(Tiergarten Strasse 4)作戦の編成……

・予算と財政

安楽死(大量殺人)の実行

・患者の輸送

 

 T4作戦には忠誠心の高い職員が採用された。総統直属の秘密任務ということで、安楽死プログラムは魅力的な職場だった。

 医者たちは何度も会議に呼ばれ、T4作戦の説明を受けた。ほとんどの医者は特に反対もせずに従った。一部の医者は、参加を拒否し、自分の抱える患者を殺人プログラムから守ることもできた。この場合も、特に不利益を被ることはなかった。

 しかし、公然と反対の声を上げたものはごくわずかだった。

 この作戦は法律を無視しており、全ては総統の権限において行われ、医者や職員が責任を負うことはない点が強調された。

 1939年の命令後まもなく、各病院に、慢性病患者や遺伝病患者、障害者の情報を記入するフォームが送られた。ほとんどの医者は、陰で何が行われているのかを知ることになった。

 

 安楽死の対象……

分裂病統合失調症)Schizophrenia

てんかんEpilepsy

・老人性疾患Senile maladies

・麻痺、梅毒性麻痺Paralysis and other syphilitic disabilities

・知的障害Imbecility

脳炎Encephalitis

ハンチントン病(舞踏病)Huntington's Chorea

 

 士気を保つため、退役軍人や戦傷者に対する殺人処理は免除された。また、医者や職員の身内も対象から外れた。

 

 当初から、プログラムの目的には矛盾があった。

 「生きるに値しない命」を救済するための安楽死とうたいながら、犯罪歴のある障害者や中毒者が優先的に殺害された。また、民族を純化するためのプログラムでありながら、ユダヤ人やジプシーも対象になった

 

 患者情報の入力フォームは、症状の診断には不完全であり、だれが死ぬべきか生きるべきかは、医者たちが恣意的に決定することになった。

 

  ***

 2 T4作戦の起源

 T4作戦の直接の起源は社会ダーウィニズム(Social Darwinism)と、19世紀に勃興した優生学(Eugenics)である。

 19世紀は福祉政策の発展した時代でもあるが、優生学は福祉政策の過剰に警告を発した。なぜなら、遺伝的に劣った人種・民族・個体を生き延びさせることは、人類社会を劣化させることにつながるからである。

 当初、人類・人種を進歩させ、生存させるという思想は、産児制限政策として結実した。

 優生学は特にアメリカで発達し、ほぼ例外なくアングロサクソン系の優生学者たちが、劣等人種や犯罪者、遺伝的劣等者たちの隔離を唱えた。

 アメリカの優生学者は、進歩主義者とは異なり、自分たちのエリート人種社会を移民の波から保護しようとした。

 

 1920年以降、アメリカの各州で断種法が採用され、犯罪者、障害者、薬物中毒者らに対する断種と予防拘禁が行われた。アメリカを皮切りに、北欧諸国でも同じ政策が実施された。

 断種、拘禁、移民制限により、合衆国は人種的な純粋化を目指した。拘禁された障害者たちは労働力として使われたが、優生学政策推進者には刑務所の経営者や工場経営者が多数含まれていた。

 イギリスでは、断種と拘禁は議会で否決され実現しなかった。

 

 ドイツではアメリカ以上に優生学が支持を得た。19世紀以降では、ヘッケル(Haeckel)やその門下ツィーグラー(Ziegler)が優生学を主導し、遺伝患者・犯罪者らの断種と根絶を唱えた。

 もっとも影響を与えたのは、1920年、アルフレート・ホッフェ(Alfred Hoche)とカール・ビンディンク(Karl Binding)によって書かれた『生きるに値しない命を根絶する許可(The Permission to Destroy Life Unworthy of Life)』である。

 かれらの人種衛生学(Racial Hygiene)……障害者や知的障害者(The feeble-minded)を根絶すべきとする思想は、ヒトラーにも直接的な影響を与えた。

 ナチの人種衛生政策は当時の潮流を具体化したものに他ならない。その起源は、医学界、科学者の共同体、知識人たちにある。

 

 ※ 本の表題だけでは中身がわからない場合もあると考え、今回から、ブログタイトルに簡単な備考を追加することにしました。

 

 [つづく]

 

By Trust Betrayed: Patients, Physicians, and the License to Kill in the Third Reich

By Trust Betrayed: Patients, Physicians, and the License to Kill in the Third Reich

 
【新装版】ナチスドイツと障害者「安楽死」計画

【新装版】ナチスドイツと障害者「安楽死」計画

 

 

 

「生きるに値しない命」とは誰のことか―ナチス安楽死思想の原典を読む

「生きるに値しない命」とは誰のことか―ナチス安楽死思想の原典を読む

 

 

『水俣病』原田正純 ――水俣病の発生から行政・チッソとの交渉、認定まで

 水俣病の調査に取り組んだ医学者による本。水俣病発生の経緯から、行政、チッソとの交渉、公害認定と補償にいたるまでをたどる。

 

 ◆所感

 チッソ、役所、御用学者、患者を差別する隣人等、人間の悲惨な光景が集約されたような事例である。

 東大がチッソを擁護する工作に終始していたのに対し、著者の所属する熊本大学水俣病解決に向けて尽力した。

 企業の隠蔽体質や行政の不作為、御用学者の活用、税金を使った問題企業の救済など、現在とあまり変わらない醜悪な構造が詳しく書かれている。

 

 この時代から、政府と企業の行動はほとんど変わっていないのである。併せて、患者や被害者を差別しいじめるわたしたちの習性も、変わらぬままである。

 

  ***

 1

 水俣病は、電気化学工業会社であるチッソが、工場排水を水俣湾に流すことによって発生した。メチル水銀が港湾の魚や魚介類のなかで濃縮され、これらを食べた動物や人間に症状がみられるようになった。

 環境の変化は、はじめ動物の様子に現れた。

 

・昭和28年から31年にかけての、漁獲量の大幅減少

・ネコが発狂、踊りだし、よだれを垂らし死亡する

・魚が浮いている
・カラスが海に墜落したり、岩に衝突したりする

・工場排水の流れる場所では、舟にフナ虫が寄り付かない

 

 やがて、人間にも症状が出始めるようになった。

・運動麻痺

言語障害

・知覚異常(手、足、口周辺がじんじんする)

・運動失調

・視力障害、視野狭小

・精神異常

・その他

 

 患者は隔離病棟に移され、住民から差別された。患者の子供は店に行ってもお金を受け取ってもらえず、道端でも無視された。

 住民の訴えを受けて、水俣市奇病対策委員会が設置され、著者の所属する熊本大学医学部でも研究チームが発足した。

 

  ***

 2

 原因がチッソの工場排水と、周辺でとれる魚であることは、だれもが薄々感づいていた。しかし行政は、原因がはっきりしない以上漁獲を禁止できないとし、またチッソも因果関係を認めず、排水をやめようとしなかった。

 そこで熊本大学チームは、原因物質の特定を急いだ。

 チッソは、自分たちの工場の製造工程や使用物質を公にしようとしなかった。後年、会社は「医者がこれだけ苦労して原因を突き止めたのだから、会社には原因がわからなくて当然だ」と自分たちの対応を弁護した。

 

  ***

 3

 英国の神経学者マッカルパインの水俣訪問により、症例が有機水銀中毒に酷似していることが明らかになった。

 同時期、チッソの自社病院で研究していた細川院長は、工場排水がネコに中毒を引き起こすことを証明した。しかしこの報告は会社に握りつぶされ、細川院長は退職した。

 チッソは県知事に対し、水俣病の原因は旧日本軍の遺棄した爆薬ではないかとして調査を申し入れ、攪乱をたくらんだ。

 

 昭和34年、通産省の勧告に基づき、チッソは排水処理用サイクレーターを設置した。その顛末が次のとおり。

 

 ――当時、チッソに問い合わせたところ、チッソは、チッソの浄化槽は、社会的解決の手段としてつくられたもので、これは有機水銀の除去にはなにも役に立たないと回答した……ということはつまり、サイクレーターは実際の効果はないが、世論の手前つけたのだという意味であろう。このようなごまかしをチッソがやっていたことを、日本全国の人びとに知ってもらいたい。

 

 チッソは、患者家庭互助会に対し、見舞金を受け取る条件として、「今後、原因がチッソであると判明しても、一切訴えをおこさないこと」を要求された。この和解案は行政によっても支持された。

 

  ***

 4

 水俣病は汚染された魚介を摂取した当人だけでなく、胎盤を通じて子供にも発症することが確認された。

 昭和37年に胎児性水俣病が認定され、チッソも事実を認めた。

 チッソは、熊本大学の研究を押しつぶすために画策して作った田宮委員会をひっそりと解散させた。他にも、東大の御用学者を雇い、原因について荒唐無稽な仮説を打ち出し因果関係を否定させようとしていた。

 

  ***

 5

 昭和38年の三池炭鉱爆発について。

 

 ――労働災害による人間の破壊と公害におけるそれとは、その根本においては、まったく同じ資本(企業)の論理が存在する。

 

 労災法による補償と、そのための症状の等級付は、あくまで人間を労働力の観点から計るものであり、必ずしもその人の人生を補うものではない。精神的な苦痛、家族や家庭の崩壊については、労災法の対象とはならない。

 

  ***

 6

 新潟水俣病は、チッソに次ぐアセトアルデヒド生産企業である昭和電工阿賀野川鹿瀬工場が引き起こした。

 

  ***

 7

 昭和43年の政府の正式見解……

「熊本水俣病は、新日窒水俣工場のアセトアルデヒド酢酸設備内で生成されたメチル水銀化合物が原因であると断定し、新潟水俣病は、昭電鹿瀬工場のアセトアルデヒド製造工程中に副生されたメチル水銀化合物を含む排水が中毒発生の基盤をなしたと判断する」。

 

 水俣病認定の過程では様々な問題が生じた。

・審査委員会が認定権を独占することになり、却下される例が相次いだ。

・発症時期を昭和28年から35年に限定したため、認定を受けられない患者がいた。

・死亡した患者の認定が困難だった。

・他の病気を併発した場合、当初、水俣病認定を却下されていた。

 

 水俣病裁判では、チッソの過失を認めさせることに焦点を置いた。企業が、毒性のわからない物質をいくら垂れ流したとしても、「そのような毒性があるとは知らなかった」で通用するとすれば今後も同じ事象が再発するに違いないからである。

 

 ――工場廃棄物を放出するのは、いうまでもなく企業であり、一方、住民は、企業が工場で何をどのように生産しているのか、またどういう廃棄物を放出しているかを知るわけがないのだから、企業は、住民に対して安全確保の義務を一方的に負っているはずなのである。

 

 チッソは新たな斡旋案を提示し、患者たちを一任派と反対派に分裂させた。

 

  ***

 8

 水俣病被害認定基準をめぐる困難について。

 

 ――患者たちはこのチッソの支配する町のなかで、なるべく病気を隠そうとした。

 

 ――患者たちは、「チッソが傾けば水俣も傾く」という。しかし、この人たちは、いったいチッソからなにをしてもらったというのだろう。……江戸時代、百姓たちが年貢を取り立てられ、自分たちはおかゆをすすりながらも、「やはり殿様がいるから自分たちはこうして百姓がやっていける」といっていたのと、どれくらい差があるのだろうか。

 

 ――……当時認定された患者さんたちに対して、その妻は、「水俣病はよかねえ、寝とけば金がもらえる」などといやがらせを言って、よく、患者家族を泣かしたのである。かつて加害者であった人が、いま、逆に被害者となった。なんと悲しい、現代版いじわるばあさんの物語だろう。

 

  ***

 9

 著者が現地で調査をおこなったところ、明らかに水俣病でありながら認定されていない住民、「隠れ水俣病」が大量にいた。

 市は水俣病の認定に消極的であり、病院、保健所、市役所は、認定を受けようとする患者をたらいまわしにした。

 

  ***

 10

 スウェーデン国際会議での、水俣病に関する報告について。

 

 スウェーデンの雑誌記者が、チッソにインタビューした。その一部が週刊文春に掲載されたが……

 

 ――……水俣市、出水市では、その反響をおそれたチッソがその号を買い占めてしまった。しかし、市民会議がそのことを知りビラで暴露して、問題になった。

 

 チッソのインタビューにおける発言は以下のとおり。

 

 ――「端的にいうなら、かれらは海に浮かんだ死んだ魚を食べたんですよ。が、そんなことを裁判にもちだすのはむつかしいですよ。一般の人に相手側について悪い印象を抱かせることになります。まるで動物ででもあるかのようにね。58年以後の病気の原因が、死んだ魚を食ったためなのか、水銀のためかわからんのですよ。58年以後に発病した人にかぎっていえば、それで補償金をもらえるなんて、ありがたく思ってもらいたいものです。云々」

 

 ――「彼らが貧乏でなかったらもっと補償金を得ることができたでしょう。日本では損害賠償は収入にあわせてはじき出されます。水俣の漁師は毎日の食事代をかせぐのがやっとだったんです。彼らの将来なんて、かなり限定されたものだったんですよ」

 

  ***

 医学は中立的であるべきだという既成概念があり、医者たちは水俣病という社会問題に深入りすることを敬遠してきた。

 著者は、「医学の研究は直ちに社会的に生かされなくてはならない」と考える。

 

 ――医学の研究者の世界では、政治や社会運動と関わり合いを持つことを忌み嫌う人が多い。そのようなものと関わり合いを持つと、学問の純粋さが失われるかのように。しかしいったい学問の純粋さとはなんであろうか。

 

水俣病 (岩波新書 青版 B-113)

水俣病 (岩波新書 青版 B-113)

 

 

国防総省では反逆者、亡命者扱いのスノーデン氏

 

Permanent Record (English Edition)

Permanent Record (English Edition)

 

 

 エドワード・スノーデンの自伝「Permanent Record」は、本人の生い立ちや亡命の経緯が書かれており非常に面白かった。

 タイトルのとおり、合衆国の公務員界隈では完全な敵・犯罪者扱いなので、顔がフィーチャーされた表紙を取り外して読んでいた。

 ※ ハワイといえばスノーデンがNSA支部(海軍通信基地の敷地内にある)でデータを盗んだ犯行現場である。

 

 

 かれが強烈な自由主義、また民主主義の理念を重んじるようになったのは、子供時代の学校が原因ではなかったかと思う。

 スノーデンは学校の無意味・理不尽なルールに疑問を感じ、ほぼ不登校の状態でコンピュータの技術を独習していった。

 

 

 メモ……

911同時多発テロ)からビンラディン殺害まで10年かかったが、この10年の間にアメリカは大量の殺人を起こし、地域を不安定にした。

 また国内における大量監視、対テロリズム政策は、危険を除去するのではなく市民の自由を奪った。

 

・2010年代には、中東諸国で反政府デモが発生したが、こうした権威主義の国では国民は臣民であり、臣民の権利は政府によって与えられる。

 自由な国では、国民は市民であり、かれらは生来の権利を持つ。市民の定期的な承認によって政府は成り立っている(という大義名分)。


・プライバシーは政府が踏み込むことのできない個人の領域である。やましいことがなければプライバシーがいらないだろうというのは、特に意見がないから言論の自由はいらない、新聞を読まないから報道の自由はいらない、神を信じていないから信教の自由はいらないと言うのと同等である。

 自分が非社交的でインドア派だから集会の自由は必要ないといえるだろうか。今日自分に必要ない権利が明日も必要ないとは限らない。